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92 妖婆

「おはよう」

「おはよぉ……」


 トロールの呻き声のような挨拶を返して俺は起き上がり、エイルのろ過した水で顔を洗った。非常に、気まずい。エイルの顔を、まともに見られない。

 乙女か、俺は。

 しかし自分でも残念なのは、その原因が「恋」ではなくて、「後ろめたさ」である所だ。昨夜何があったかは、絶対にエイルには言わない。彼女は、鋭い女の勘でもう悟っているのかもしれないが、それが怖い。

 目を合わせられない。


「どうしたの?」

「い、いや?」


 声が上ずっている。

 うがいをして誤魔化す。誤魔化せているかどうかはわからない。しかしエイルは、誤魔化されてくれた。進むべき森の奥に目を凝らして、難しい顔をしている。


 ――霧だ。

 白い霧が漂っている。濃霧というほどではないが、無視できるような薄さでもない。『プレシーブセンス』があっても、やはり視界が悪いというのは怖い。来ると分かっているのと、実際に対応できるのとでは、また違うのだ。

 そして俺は今、霧の中に何者かの気配を感じていた。


 軽い朝食を摂って、出発する。

 体が重い。

 昨日よりは体が慣れたせいか、楽なように感じるが、あと一時間か二時間もすれば、俺はまたなりそこないのゾンビのような有様で歩くようになるのだろう。


 何かがいる、何かがいると思いながら歩く。

 一歩一歩が、なかなかスリリングである。

 冒険というのは、本来そういうものなのだろう。実はエイルが方角を間違えていたらとか、ジャンヌたちの向かった先が知られていたらとか、不安はいくらでも湧いて出てくる。

 これも、霧のせいなのだろうか。


 俺がゾンビになりかけた時、霧の中から何かが現れた。

 二本足の影。

 人かどうかはわからない。

 エイルは足を止め、半歩下がって杖を構える。俺は逆に半歩前に出る。


 影が、一歩、また一歩と、よろよろ近づいてくる。

 人間のようだ。格好だけは。

 あれは――。


「人間?」


 エイルが言った。

 白いスーラを着た、若い女だ。足取りはおぼつかず、今にも転んでしまいそうだ。


「いや、人間ではないかも」


 俺はエイルの呟きに応えた。

 姿かたちは人間だが、この女性は、霊的な何かだ。人間とは、決定的に何かが違う。しかし、何が違うのか言葉で説明するのは難しい。匂いとまではいかない、言うなれば、空気が違う。


 女性は、ぱたりと転んだ。

 起き上がろうと顔を上げた。そこで、初めて俺たちに気付いたようだった。ぱたぱたと、這うように駆けてきて、俺の前でまた倒れた。


「助けてください!」


 女性は、そう言った。

 目を真っ赤にして、見上げてくる。


「ええと……」

「お願いします! どうか……」


 裾にすがりついてきた。

 俺たちはとりあえず、彼女を倒木に座らせて、落ち着かせた。彼女が落ち着くまで、十分ほどを要した。


 彼女は、やはり人間ではなかった。

 木の妖精――木霊なのだという。髪も瞳も緑色、華奢な体つき。美しいには美しいのだが、その肌の白さも、瞳の透明度も、浮世離れしていて親近感が湧かない。


「助けてください、旅の法師様」


 彼女は言った。

 導師とか法師とか、俺はそんな偉い立場ではないが、この格好は、どうやら人間だけでなく神霊にとっても、そう映るらしい。


「どうしたんですか?」

「友達が皆、連れて行かれてしまったんです」

「どこに?」

「鶏の小屋です」

「鶏の小屋?」

「妖婆は、鶏の足のようなものに支えられた高床の小屋に住んでるって、聞いたことがあるわ」


 エイルが教えてくれた。


「そうです! 私の友達は、妖婆に連れて行かれたんです!」


 木霊は、興奮してそう言った。


「助けてください、お願いします、法師様!」



 再び歩き始めてから、俺の心臓は鉛のように重くなっていた。

 比喩ではなく、本当に、心臓の上に鉄の塊でも入っているのではないかというような、そういう感じがしている。


 結局、俺たちは木霊の願いを断れなかった。

 そう、断れなかったのだ。引き受けた、なんて積極的なものではない。状況からすれば、俺たちだって、助けてほしいのだ。


 森の奥へと進む。

 霧は少し薄くなり、靄の塊が、針葉樹の間からすうっと、亡霊のように横切るようになってきた。地面にも水たまりが増え始め、そのうち森一帯が、水浸しになった。歩むごとにぴちゃぴちゃと、音が鳴る。水は地面の表面に、ごく薄く溜まっているだけなのだが、それがまた、不気味だった。


 だいぶ進んだ頃、急に、さあっと霧が晴れる瞬間があった。

 霧が晴れると、俺たちの目の前に、その小屋が姿を現した。

 鶏のごとき薄ピンク色の、ミミズのような模様の入った脚を持つ、小屋だ。しかし、どこか歪だった。

 注意深く見てみる。


 俺は、その瞬間、猛烈な吐き気を覚えた。

 ――小屋は木造ではない。茶色い、骨で作られている。


 エイルも口元を押さえながら、俺に教えてくれた。


「妖婆の小屋は、人骨でできてるって……」


 悪趣味にもほどがある。

 この小屋を作るまでに、どれだけの人間が必要だったのだろうか。


 「妖婆は、昼間は眠っています」


 木霊はそう言って、俺たちに作戦を話した。

 寝ているうちに小屋に侵入し、捕まえられている友達のドライアドを助け出す。――何とも単純明快、頭が良いのだか悪いのだかよくわからない作戦だった。俺たちは、妖婆の手下がやってきたら倒す役回りである。


 ドライアドは心を決めると、「行ってきます」とだけ言って、小屋の中に入っていった。霧が再び立ち込めてくる。


 一分が過ぎ、二分が過ぎ、五分が過ぎた頃、俺は息苦しさを覚え始めた。エイルは、先ほどやか妙に周りを気にしている。


「これ、俺たちが来る意味、あったのかな?」


 疑問を口に出す。

 この計画なら、彼女一人で全部できたはずだ。俺たちは、妖婆の手下の亡者や使い魔が出た時の護衛、ということだったのだろうか。あるいは、彼女が妖婆に捕まった時の保険――。


「嫌な感じがする」

「俺はずっとしてるよ」


 ドライアドが小屋に入ってから、ついに一時間が経とうとしていた。歩いてきたために出てきた汗が冷えて、寒い。

 一体、何をしているのだろうか。

 まさか、捕まったか?

 いや、それにしては静かすぎる。


 ――突然、びゅおおおっと風が吹いてきた。

 がさがさ、がさがさと木々が揺れ、葉のこすれる音。


「ひゃっ……!?」


 ばしゃん、とエイルが突然転んだ。

 転んだエイルは、ずるずるずるっと、小屋の方に引きずられてゆく。エイルの左脚の足首辺りに、黒い髪の毛が巻き付いていた。


「いやっっ! 助けっ……」


 俺は咄嗟に、エイルの差し出した手に飛びついた。

 ずるずるっと、俺も引きずられる。

 俺は、その髪に向けて『マナドレイン』をかけた。髪は、白髪になって解けた。俺はすぐに立ち上がり、エイルを引っ張り上げて立たせた。

 ぼふっと、勢い余って、エイルが俺の胸の中に飛び込んでくる。


 いーっひっひっひっひ!

 いーひっひっひっひっひっひ!


 恐ろしい笑い声が、小屋から、森中からこだましてくる。

 と、いつの間にかドライアドの彼女が、俺たちの後ろにいた。


「助けたか?」

「……」

「逃げよう!」

「……」


 そう言っても、ドライアドは無言。

 と、急に、にやっと笑った。次の瞬間、ドライアド美しい髪がぼさぼさの黒髪に変わり、白い皮膚はざらざらの灰色となり、顔は、見る見るうちに恐ろしい山姥になった。

 老婆は、ガシっと俺の手を掴んだ。


「捕まえたよ、捕まえたよ」


 ぎらつく黄色い歯を見せ、老婆が笑った。

 ――こいつが、妖婆だったんだ。

 左手の薬指がチクリと痛む。指の先から血が流れ、その血を糧に、『アビスオーラ』が発動した。


 妖婆の腕が、一瞬で朽ち、黒い霧になって霧散した。

 ぎゃああっと、妖婆は悲鳴を上げて飛び退いた。

 流石に効いたか、と思ったが――。


「いっひっひっひひいい! いーっひっひっひっひっひ!」


 笑っていた。

 これには敵わない。


「逃げるぞ!」


 エイルと俺は、妖婆と鶏の小屋から逃げ出した。ばしゃばしゃばしゃと、水が跳ねる。地面を覆う水かさが、明らかに増している。

 ――エイルが倒れた。

 水の中から、手が出てきたのだ。

 エイルの足首を掴んだ手は、その纏っている聖なる力に負けて消えていった。だが、手は無数にあった。土と水の中から、木の幹や葉からも、大小様々の、腐りかけたような手が伸びている。


 妖婆の高笑いが、そこかしこから聞こえてくる。

 霧がまとわりつき、首を絞めようとする。

 この霧は、まさに妖婆の手下の亡者だったのだ。亡霊の霧は始めのうちは、俺の体にも触れてきたが、やがて『アビスオーラ』が、霧を寄せ付けなくなった。しかしエイルは、体力がなくなってゆくのに伴って、聖なるオーラも弱まり、亡者の霧から身を守ることができなくなってきた。


 今だ、とばかりに、霧は、右から左から、エイルに襲い掛かった。

 俺は、エイルに襲い掛かる霧の亡者に『マナドレイン』をかけた。霧の亡者は、すぐに形を失い、流れていった。しかし霧の亡者は、ひっきりなしに襲い掛かってくる。『アビスオーラ』『マナドレイン』――しかし俺にも体力の限界がある。

 エイルの息も上がっている。


「エイル、頑張れ、もう少しだ!」


 俺はエイルを前にして、その後ろを走った。

 背後から、何かが迫ってきていた。

 いや、俺にはその「何か」がわかっていた。なぜかわかるのだ、まだ見てはいないが――それは、細長い木臼に乗った、妖婆である。長い箒と、長い両頭の杵を持っている。それが、木々の隙間を縫って、迫ってくる。いや、木々が、妖婆を避けているのだ。


 もう、すぐ後ろまで来ている。

 やるしかないか?

 だが、勝てるとは思えない。スフィンクスもそうだが、人間の「生死」の概念を超越しているような存在を相手に、どのように勝てというのだ。


 後ろを振り向く。

 ――いた。

 臼に乗った妖婆。なぜ箒を持っているのだ。そしてなぜ、杵なんだ。しかし間違いなく、箒も杵も、凄まじい魔法の力を宿したアイテムだ。どんな力なのかは、想像もつかない。


 俺は前を向いたまま、妖婆に『ダークバインド』をかけた。当然、血を担保に、である。供血魔法でなければ、俺のあらゆる魔法は、妖婆に通用しない。もっとも、『アビスブースト』を乗せたって、到底効くとは思えないが――。


 案の定、妖婆は全く止まらなかった。

 妖婆の臼、箒、杵にもかけてみた。しかし、結果は同じである。

 ドスン、ドスンと、妖婆が杵を地面に叩きは付け始める。

 ドスン、ドスン、ドスンと、森中から聞こえてくる。


 エイルが、もう限界だ。

 じゃあどうする? 止まるか? 置いていくか?

 全部馬鹿な選択肢だ。ありえない。

 だがもうエイルは走れない。


 よろよろと、エイルが崩れるように水浸しの地面に倒れ込んだ。助け起こそうとした俺の顔を、エイルは力のない目で見つめてくる。


「逃げて……」


 エイルは、死にそうな呼吸の間から、言葉を絞り出した。


「グリム、逃げて」


 エイルはそう言うと、龍老人の杖を俺に向けた。

 『ウィンドフォース』だ、

 エイルは咳込み、杖を取り落とした。


「置いてって……」


 最期の魔法というわけか。

 だが、いくらエイルの頼みでも、これだけは聞けない。

 エイルを見捨てるなんて選択肢はない。そうするくらいだったら、勝算がなくても戦って、一緒に死んでやる。

 

 立ち上がり、後ろを睨みつける。

 ――妖婆が、霧の中からぬっと現れた。


「見つけたよ、見つけたよ」


 妖婆は、杵を地面に打ち付けて喜んだ。

 霧の中から、二人、三人、四人と、次々に妖婆が出現する。

 ――悪夢だ。

 いくつもの高笑いが、霧の向こうから聞こえてくる。手が、そこかしこから伸びてくる。気が変になりそうな光景である。


「食べちゃうよ、食べちゃうよ」


 妖婆が、四方八方から、ゆっくり臼を進めて、襲い掛かってきた。

 『ダークバインド』、『ダークアロー』、『アビスインパクト』――全く通用しない。妖婆は、魔法にかかったその瞬間は悲鳴をあげたりするのだが、次の瞬間には、笑っているのだ。


 ドスン、ドスンと杵の音。

 俺は、妖婆が近づいてくるのを、もはや待っているしかなかった。黄色い歯、ぼろぼろの白髪、狂ったような笑い声。――ここまでか。


 そう思ったとき、あと数メートルという所で、妖婆が止まった。

 俺たちを取り囲んでいる無数の妖婆が、急にそわそわし始めた。目を見開き、口をぽっかり空け――恐怖を感じているような表情。


 俺は、仰向けに半ば倒れているエイルを見た。

 エイルの首元のネックレスが、輝いていた。光の女神に貰ったネックレスだ。一年前、エイルに渡したものである。


 ネックレスから、眩い光を放つ人魂のようなものが、無数に飛び出してきた。


「逃げるよ、逃げるよ」


 妖婆たちは、慌てて逃げ出した。

 妖婆は霧と木々の中間に逃げ込み、光がそれを追いかける。

 森のあちこちから悲鳴が上がった。


 ――やがて、森に静寂が訪れた。

 霧はいつの間にか晴れ、地面を覆っていた水も、そして怪しげな手も消えた。太陽の光が降り注ぐ森の一画に、俺たちは佇んでいた。


 エイルの胸元のネックレスは、音を立てずに、光の粉となって消えていった。

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