91 淫魔の夜
すっかり眠りこけてしまった。
危険はなかった、という事なのだろうが、それにしても――。
エイルが、切り株に座っていた。
その肩や膝の上には、栗鼠や、栗鼠っぽい小動物がいて、エイルはそれに、パン屑を与えていた。エイルは、聖母のような穏やかな表情をしている。指で栗鼠たちの頭をや背中を、その毛並みを褒めるように撫でている。
ギャース、ギャースと、鳥のやかましい声と、嘴を叩く音が反響して聞こえてくる。雨は、夜のうちに止んだようだ。木の葉から落ちてくる滴が、ぱらぱら、ぱらぱらと落ちて音を立てている。
――無事に夜を生き延びることができた。
土の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、起き上がる。川の水で顔を洗ってうがいをし、喉を潤す。そしてもう一度寝袋の中に――入りたいところだが、俺たちは今追われているのだ。
早い所トリンドル城砦跡地に行って、ジャンヌたちと合流しなければならない。きっとパトラッシュは、上手くやっていて、今頃はもう、クランの包囲の外を伸び伸び走っていることだろう。
俺が起きても、小動物たちは逃げなかった。
そのうち小型のネヌキみたいな動物は、俺の方にトコトコやってきた。なんだ、俺に興味を持ったのか? 触っても逃げない。可愛い奴だ。抱きかかえて、膝の上に乗せる。
――それにしても、昨日のエイルの言葉は何だったのだろう。
どういう意味だったのだろう。
「エイル」
「何?」
「昨日のさ……」
首をかしげるエイル。
俺はタヌキ的な小動物をいじりながら訊ねた。
「付いていくっていうのは、どういう……」
「言葉通りの意味よ」
「あぁ、うん」
そうか、言葉通りの意味か。
そうか、じゃない。だからそれが、どういう意味なのかが知りたいのだ。プロポーズ的な意味なのか、それとも、仲間として一緒に行く、という意味なのか。
――と、俺は首の後ろに冷たいものを感じた。
葉から落ちた水滴ではない。
首の深い所、頸椎あたりを刺激する、冷たい、嫌な感覚。
「行こう。追手が来たみたいだ」
俺は杖を一振りして、寝袋やらランプやらを、杖の中にしまった。掃除機のように吸い込まれる物体の細長く杖先に吸引される様は、何度見ても面白い。
それはともかくとして、俺たちはすぐに動き出した。
先頭を行くのはエイルである。
エイルには、こんな森の中でも方角が分かるらしかった。
しばらく歩いて行き、ある地点でエイルが止まった。
「こっちに行くとホペンだけど、どうする?」
エイルが、森の奥を指さした。
どうやらその向こうに、ホペンがあるらしい。恐らくホペンは、今頃大騒ぎだろう。女騎士が出た、捕まえろ、捕まえろ、金になるぞ、という具合に。だがこの森の中までは、人間の欲望もその声も足音も入ってこられないようだった。
「他に道があるのか?」
「ホペンを迂回して、キーロまで行く方法もあるけど……」
「けど?」
「妖婆の森を抜けないといけない」
ヨウバ……響きがすでに恐ろしい。
「ホペンを通らない道で、その森以外の道は?」
「……ないわ」
難しい選択だ。
恐らくすでに、俺たちの噂は、ホペンに届いているだろう。ピカソと名乗る黒い法衣の導師と、医術師の美少女の二人組。そいつらを捕まえれば、女騎士の居場所もわかる。――そういうことになっているに違いない。
ホペンに行くのは、愚か者か自殺志願者の選択だ。
こんなことなら、替えの服を一通り揃えておくのだった。もっとも、服を替えたくらいで何とかなるだろうという考えは、この魔法の存在する世界では、甘いのかもしれない。
いずれにしても、ホペンには行かない。
となると、空しい消去法で、妖婆の森経由のキーロということになる。俺は、その森の危険も、キーロという村、もしくは町も知らない。だが、他に選択肢がないのだから、それしか選びようがないのだ。
「妖婆の森を通って、キーロに行こう」
俺が言うと、エイルはごくりと唾を呑み込んだ。
そんなに恐ろしい森なのだろうか。
エイルが、妖婆の森に向けて踏み出した。俺も後に続く。一歩踏み出した瞬間、森が急に暗くなったように思えた。後ろの首筋がひやりと冷たくなった。
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昼に一度休憩して、軽い食事を摂った。
妖婆の森を一日で抜けるのはちょっと難しい。地図を辿ると、森を抜ける道は最短距離でおよそ35キロから40キロほど。しかし実際には、森に道はない。泥っぽい腐植土を踏みしめ、枝葉をかき分けかき分け進む。
エイルは、一日で抜けたいと言ったが、俺は三日でようやくと思っている。エイルなら、あるいは、旅に慣れた冒険者ならそれくらいできるのかもしれないが、俺の心と身体そこまで頑丈にできていない。悪い意味で、鍛え方が違う。
エイルは、長旅に便利な魔法をいくつも知っていた。
脚の疲れをとる魔法、熱を冷ます魔法、水をろ過する魔法、体を軽くする魔法……最初の数時間で、俺は一通りの魔法を貰った。RPGではバフなんて言うが――確かに、すばらしいバフだった。
しかし俺は、それを受けてもなお、疲労した。エイルより先にくたびれて、エイルが気付き、休憩を入れてくれる。情けないが、どうしようもなかった。意地とか気合とかでどうにかなるような疲れではないのだ。
森に入って最初の一日が過ぎた。
たまに降る雨と、湿気と、そして自分の汗が、黒い法衣を重くした。夜、エイルの作った結界の中で、俺は切り株に座り、頭を抱えていた。
疲れた、情けない……自己嫌悪だ。
「お疲れさま」
そう言って、エイルが甘湯の入った木の器を差し出してくれる。
俺はそれを受け取り、ため息をついた。
「体力はないのね」
「面目ない……」
「ずっとお勉強してたの?」
「元々……動ける方じゃないんだ」
「向こうでもそうだったの?」
「向こうって?」
「貴方が生まれ育った世界。私たちは、ユグリラって呼んでるけど」
「あぁ……」
日本を含めた、俺の居た世界は、こっちではユグリラと呼ばれている。ユグリラから召喚された人間はアニマンと呼ばれ、この国でも、ある程度は知られている。扱いとしては、召喚獣の一種、という感じである。もちろん、獣とは思われていないが。
「俺のいた街は、歩かなくても旅ができたんだ。向こうじゃ、森を歩いたり、山を歩いたりは趣味で、本当に森や山を超えたかったら、乗り物を使う。馬よりも早くて、無尽蔵の体力を持った、ゴーレムみたいなやつがあって、それに乗れば、この森だって一時間とかからない」
エイルが感心したように相槌をうつ。
そんなエイルを見ていると、自動車や新幹線や飛行機のすごさなんて、全然すごくないように思えてくる。エイルの方が、よっぽどすごい、と。
「――まぁ、そういう便利なもののせいで、俺は今、こんな状態になってるわけだ」
「情けない」
「返す言葉もない」
「冗談よ」
遊ばれている。
思考能力のない今の俺は、年下の女の子の掌の上で転がされてしまう。腹が立たないのは、彼女がエイルだからか。
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夜が更けて、俺はいつの間にか眠っていた。
そしてある瞬間に、急に目が覚めたわけであるが――視界がぼんやりしている。ランプに灯った『サンランタン』の白い光が、ぼうっと草木を映し出す。
エイルは、寝袋から顔だけを出して眠っている。
と、俺は視線を感じて足元の方を見た。
――いた。赤いビキニの女。
切れ長の目に尖った耳、俺と目が合うと、その女は、赤いルージュの唇で微笑んだ。
「溜まってる?」
ぶふっと、俺は思わず咽る。
第一声がそれか。なんだこの痴女は。
「盛ってる?」
「な、何なんだ……」
「何って、もう本当は知ってるんでしょう?」
ぬめっとした、甘ったるい、いやらしいしゃべり方。
これは、この、彼女は、まさか――。
「貴方たちがいう所のぉ、淫魔よ、い・ん・ま♪」
チュッと、投げキッスをよこしてきた。
なんというか、欲情を掻き立てられる。そういう身体をしている。はち切れそうな胸、腰つき、肉付きの良い太ももと、その二本の太ももの付け根の部分。
「ねぇ」
「な、何ですか……」
「しよ?」
俺は思い切り鼻から息を吸い込んだ。
本当に、この女は、一体何なんだ。何のつもりだ。
「えぇ、いいじゃなぁい、100回だけだからぁん」
首を振る。
怖い。唇を舌で舐めるな! その流し目をよこすな! 上目遣いで見るな!
これは戦略だ。悪魔の罠だ。分かっている。分かっているのに、盛り上がってしまう男の性よ。
「なんでよぉ、セックス嫌いなの?」
ド直球だ。
この淫魔、単語を選ばない。年甲斐もなく、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「あ、わかった」
「な、何が……」
「その子とやりたいんでしょ?」
「やめろ馬鹿!」
想像しないようにしてきたんだ。
こいつ、俺の努力をあざ笑うかのように……。
「いいんじゃない?」
「いいわけあるか」
「なんでぇ? だって、したいんでしょ、セックス」
「お前な――」
言葉を選べ。
子思春期の男連中だって、そんな直球勝負はしないぞ。
「ちょっと味見するくらい、いいんじゃない?」
「だから、いいわけあるかって!」
「減るもんじゃないのに」
「減るんだよ! プライドとか、いろいろと!」
淫魔が、にやっと笑った。
嫌な予感がする。
「その子、ヴァージンよん♪」
「……」
「好きでしょ、初心な女の子と、女の子の、か・ら・だ」
「やめろ、帰れ」
「今だったらぁ、サービスしちゃうよ?」
「なんだよ、サービスって」
というか、なんで俺、聞いちゃってるんだよ。
ちくしょう、抗えない衝動が恨めしい。
「すっごく、気持ちよくしてあげる」
「いらねぇよ!」
「えぇ、どうしてぇ? 最初は痛いでしょ? だけど私がいれば、痛みも全部快楽に換えてあげられるのよぉ?」
「だから、やらないって!」
「見たいでしょ、その子の、恍惚とした表情」
「おい!」
「小さい悲鳴のような、かわいらしぃ、喘ぎ声♪」
くっそう、マジでこいつ、本当にもう――どうしてくれようか、どうしてくれようか。俺の一部に現れたこの変化も、どうしてくれようか、どうしてくれようか!
「ここ、だぁれもいないから、大丈夫よ」
「お前がいるだろ!」
「あ、分かった」
「今度は何だよ」
「無理やりしたい?」
「はぁ!?」
「嫌がる女の子を、堕としたい?」
「お前な――」
「私ってその道のプロだから、いろんな結び方とか、いろんな責め方とか、知ってるよ? 道具も、細長いのから、太いのから、いろいろ持ってるし」
大きくなり始めた小さいほうの俺が、落城しかかっている。これ、落とされたらどうなるんだろう。ここで、この淫魔と一夜の夢を見たら――。
「な、何が目的だ!」
「精液よ」
「……」
「お兄さんの精液、美味しそうなんだもぉん。ね、いいでしょ?」
淫魔に魅入られて身を滅ぼした人間の話はたくさんある。俺のいた世界ではお伽話だったが、ここでは、それらはノンフィクションの現実である。一夜で、魂ごと吸い尽くす強力な淫魔もいるらしい。
きっと、淫魔のテクニックはすごいのだろう。
全てを忘れられるような、目くるめく一夜を過ごせることだろう。
でも――ダメだ。
俺にはまだ、やることがある。
ちくしょう、どうしてもっと早く出てきてくれなかった。ラリアンでのぼへーと過ごしていたどこかの一日だったら、全然ウェルカムだった。なのに、この淫魔はタイミングが悪い。
「お断りだ、この野郎!」
俺は、泣く泣くそう言った。
そして、まだ淫魔が何か言っていたが、俺は構わず寝袋に顔を埋め、寝た。
「んもう、臆病なんだからぁ」
捨て台詞に、淫魔がそんなことを言って、去っていった。




