69 五つの決断
宴の翌日、俺が下りてゆくと、既に四人はテーブルを囲み、けだるげに朝食を摂っていた。ドラガンは野菜の盛り付けを、黙って食べている。あれほど飲んでは、いかなライカンといえど、きついらしい。
俺が席に着くと、店の人がレモン水を持ってきてくれた。
受け取って、喉を潤す。
テーブルにはソーセージ、ベーコン、目玉焼き、パン、サラダ、そして間もなく、俺のために野菜のスープが運ばれてきた。
食事は静かだった。
周りの席からたまに笑い声がしてくるくらいで、それだって、控えめなものである。店の外のほうがよっぽど騒がしい。馬の蹄の音、井戸端から聞こえてくる甲高い女中の声、小鳥の囀り――。
大体皆が食べ終え、食器が片付けられたところで、ベイフが口を開いた。
「やはり、奴らと戦おうと思う」
静かにそう言う。
ベイフの落ち着いた口調に、その決意の固さを感じる。
「エイル、付いてきてくれるな?」
エイルは頷く。
あぁ、この二人の関係が気になる。
訊いてもいいだろうか? いやしかし、それはお節介だ。俺には関係ないじゃないか。俺がどうして、そんなことを気にしないといけない。気にするだけの資格が俺にあるのか? 野次馬根性なら見苦しいから黙っていた方がいい。
「俺も行く!」
ドラガンが言った。
声が、うるさい。暑苦しい。
でも即答、流石だ。彼にとっては、命よりも名誉の方が大事なのだろう。そういう価値観で迷いなく生きていけるのは、正直、羨ましいと思う。
俺は、どうしても自分の命が可愛い。生きるために生きようと考えてしまう。それが正しいと教わってきたせいだろうか。
「私とは敵同士じゃなかったのか?」
「奴らが先だ。西部ライカン部族長ガウバの息子、ドラガン将軍を敵に回したこと、後悔させてやる!」
ドラガンは拳を握る。
獣の黄色い瞳がメラメラ燃えている。
「君は、どうする?」
俺は、昨日一晩考えて、結局一晩では足りなかった
結論を出していない。
どうしてベイフもエイルも、そしてドラガンも、こんな簡単に決められるのだろう。俺が優柔不断なだけか? というより、意気地がないだけか?
命は惜しい。死にたくない。
だが、非道を働く邪悪な魔術師を、知っていて野放しにするのは、それもまた悪なのではないだろうか。
「クワル、お前も来るのだろう?」
ドラガンが訊ねる。
俺ははっとした。
クワルは、どう考えているのだろうか。クワルは、勇猛果敢なライカンである。健気で、一歩後ろを歩くような子だが、その魂は、信念の前では死をものともしない生粋のライカンである。
「私は、グリム様に付いていきます!」
「そんな馬鹿なことがあるか! お前は戦わなければならぬ! 西部ライカンとして、俺に従い、戦わなければならぬ!」
「お断りです!」
「貴様ぁ!」
ドラガンは怒鳴ったが、クワルはクワルで、全く引く様子を見せない。
そういえば、クワルをかけた決闘をしていない。そうだ、そのためにドラガンを助けたのだ。決闘をして、クワルがどちらのモノであるか、はっきりさせなければ。
しかし、それは今か?
決闘は命懸けで、最悪死ぬかもしれない。死なないまでも、怪我くらいはするだろう。俺はいいとして、ドラガンがそうなってしまったら、ベイフに迷惑がかかる。ベイフの足を引っ張りたくはない。
「グリム」
ベイフが俺の名を呼ぶ。
皆の意識が俺に向く。発表することもないのに教壇に立たされた気分だ。
「俺は……」
わからない。
どうしたらいいんだ、俺は。
ここで逃げたら臆病か? 臆病者と思われたくなくて戦いに参加するか? エイルの目は何を思っている。ベイフは? そしてクワルは、俺に期待をしている? 皆俺に、何かを求めているのか?
数秒か、それとも十分以上か。
時間がわからない。俺は、どれくらい口を噤んでいるのだろう。
煮え切らない男と思われているに違いない。
だが、生き死にの問題だ。そこに、クワルの命もついてくる。
どうしたらいい、誰か助けてくれ。
道が一つならいっそ決心もできるのに。
『黒魔術を信じんさい』
そんな声が聞こえた気がした。
俺は自分の掌を見、そして、皆を見渡した。
ベイフ、エイル、そしてクワル。今や、ドラガンにさえ、情が移ってしまっている。――皆、死んでほしくない。怪我なんかも、してほしくない。クワルの可愛らしい顔が苦痛にゆがみ、エイルの肌が血に染まり、ドラガンの目から光が失われ、ベイフが絶望に天を仰ぐ光景は、見たくない。
死よりも恐ろしいのは、それじゃないのか。
行かなければ、そんな光景は見なくて済む。
行かなければ、皆が死んだとしても俺はきっと、それを知らずに生きてゆける。主な交通手段が馬と徒歩というこの世界では――テレビもネットも電波すらないこの世界では、誰かの死など、伝わる前に埋没する。
だが行かなければ……きっと事あるごとに、この瞬間のことを思い出すのだろう。一年後、五年後、十年経ったとしても、そして俺自身死んで、向こうの世界に戻ったとしても、記憶の片隅に残り続けるだろう。
それなら、やるだけの事をやった方が後悔がないのではないか。命と引き換えにエイルやベイフを生かす事ができたなら、向こうに戻ることになったとしても、それは名誉の凱旋と思えるのではないだろうか。
そうだ、俺はそもそも、この世界の人間じゃない。
未練なんてないはずだ。
もともといないはずの人間なのだから、そんな人間が、この世界の人の役に立てるなら――命のためになるなら、それだけで充分なのではないか。むしろ俺の役目は、俺の価値は、そこにあるのではないか。
死ぬかもしれない。
だが、それはさほど重要ではない。
俺は口を開いた。
「行きます」
声は小さく、震えていたかもしれない。
だから、もう一度言い直した。
「戦います、あいつ等と」
そう言って、生唾を呑み込む。
落ちるかもしれないつり橋に足を踏み入れた気分である。
「恩に着る」
ベイフはそう言った。
もう後には引けない。これで俺は、そうせざるを得なくなった。「約束」をしたのだ。もう、途中でそれを破ることはできない。
ベイフは息を吐き、それから口を開いた。
「ピルグに行こうと思う」
カカン南方の都市ピルグ。城塞都市。
その町は三十年前、ナバースの戦いの前線基地となった。そして今は、イノワン卿が統治している。南方の英雄、勇者イノワン――ロドロムにジューガの森と研究施設を与えた男。
ベイフは町の説明をして、目を細めた。
「イノワン卿に会う」
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ジューガの森の遥か北。
カカンの王都ラリアンは、曇り空の日が続いていた。
朝は涼しい風が吹くが、昼間になると湿気を帯びた風が南から吹いてきて、灰色の雨雲もそれと一緒に流れてくる。
そろそろラリアンにも雨期が近づいていた。
ユラン侯爵の邸宅は、図書館や博物館が立ち並ぶ〈知識街〉の一画にあった。
二階の張り出した屋根の上に作られた広いバルコニー。テーブルが三つあり、週末には10人程度を招いたちょっとした夜会が開かれ、その際にバルコニーは、大いに活躍する。
景色も悪くない。
広場に面していて、いつでも噴水を見ることができるし、広場の所々に敷かれた芝を見れば、少しは自然を感じることもできる。そして何より、このバルコニーからは良い月を見られる。
月は、魔法にはなくてはならないものなのだ。
ユランは、バルコニーのテーブルに手紙を広げていた。
さきほど伝書鳩が運んできた手紙だ。すでに十回ほど読み返した。
「失礼します」
一人の女魔術士がバルコニーにやってきた。
深紅の衣装、ローブ。
背中に負った三日月の杖。
「あぁ、来てくれてありがとう」
ユランは、訪問者を椅子に座るよう促した。
少女は杖を席の隣に降ろして、椅子に座った。杖は何の支えもなく、地面から数センチ離れて空中に止まっている。
「何か、あったんですか?」
「これが届きました」
ユランは手紙を回転させ、少女に差し出した。
手紙を読み終えた少女は、杖を握り、立ち上がった。
「……私が、この手で殺してきます」
「待ってください。そう慌てないで」
「違うんですか?」
「違います。まぁ、落ち着いて」
そう言われて、少女は再び席に着く。
使用人が、二人分の紅茶を持ってくる。
「イノワンって、勇者ですよね?」
「あぁ」
「その勇者に捕まるかもしれないって、どんな悪事を働いたんですか?」
ユランは紅茶を一口啜り、その液体の中に視線を落とした。
「ナバースの戦い。若きイノワン卿は、奇跡のような勝利を積み重ね、ついに領土を守り切った。彼の近くには、多くの優秀な騎士や魔術士が仕えていたそうです。――戦いの後、イノワン卿は塞爵の爵位と勇者の号を得て、いくつかの領地をカカン王から授かった」
少女も紅茶を飲んだ。
ナバースの戦い。イノワン卿の名は本で読んで知っていた。
「その領地の一つを巡って、黒狩り部隊と敵対していた時期があったそうです。今から三十年も昔の話ですが」
「どうしてまた、黒狩り部隊とそんな勇者が、敵対なんて」
「何か、あったのでしょうね。結果的に、当時の黒狩り部隊の隊長は都を追放され、ことは水面下で決着がついた」
「それと、何か関係が?」
「あるのかもしれません」
「私はあの黒魔術師が全面的に悪いんだと思いますけど」
「それはどうでしょうか」
ユランは笑った。
「貴方には、彼を、助けに行ってほしいんです」
「えぇ!?」
頓狂な声をあげる少女
ユランはその反応を予想していた。そして彼女が、最終的には断らないだろうということも。
「彼を失いたくはありません」
「でも、黒魔術師ですよ!?」
「そうですね」
黒魔術師は問答無用で悪。
多くの魔術師や聖術師は、そう考えている。
だから少女がそういう風に考えるようになったのも、無理はない。しかし、異世界からやってきた人間――アニマンは、王国人の哲学とは別種の思想を持っている。少女の中にもそれがあるのを、ユランは知っていた。
「……行かなきゃ、ダメですか?」
「行ってほしいと思っています」
「どうして私なんですか?」
「貴女なら、勇者と戦えると思ったからです」
「は!? 勇者と、戦う? どういうことですか?」
「そうなるかもしれない、ということです」
「でも、そんなことになったら……あんな黒魔術師、放っておけばいいじゃないですか!」
「お願いします、ロッカさん」
「……あぁもう、わかりました! 行きます! でも、どうなっても文句言わないでくださいよ!」
「はい」
少女――ロッカは今度こそ立ち上がり、杖を手に持って、ユラン邸を後にした。




