111 エレネの歌
「一体何の騒ぎですか」
美しくも威厳を感じさせる声が、浅瀬の奥から聞こえてきた。
人魚たちは、びくっと姿勢を正して、同時に言った。
「「「「エレネ様!」」」」
浅瀬の水がすうっと盛り上がり、水が、人間の形をとった、気づくとその、人間の形になったそれは、人間そのものになっていた。裸の、女性である。
俺は思わず、鼻を押さえた。
その、エレネと呼ばれた人物は――恐らく人間ではないが、一糸まとわぬ、生まれたままの姿なのだ。それが、一歩ずつ海面を歩いて近づいてくる。
女性らしい曲線の身体、その腰つきに、「俺」は反応してしまった。
真面目な剣士も、息をするのも忘れて、彼女の身体に見入っていた。彼らは、自分の身体が反応してしまっていることに、気づいてもいないようだ。
「あら、貴方は」
エレネという裸の女は、俺を見つけると、目だけでほほ笑んだ。
真っ白い肌。そして、ふくらみの先のピンク色。
下の珊瑚礁に、思わず釘付けになる。
しょうがないだろう、俺も男なんだ!
しかしエレネは、そんなこと一向に構わないようだった。
性欲に駆り立てられた俺たち男を蔑むでもなく、その真剣で粘っこい視線にあてられて恥じらうでもなく、彼女はただ自然に、俺たちを見つめている。
そこで俺は確信した(確信したところで、俺は「彼女」を見続けてしまっているのだが)。彼女は、人間よりは神・精霊に近い存在なのだと。
「私の歌が、お気に召さなかったのね」
「な、何の事、ですか……」
俺は、からからのわりに涎が落ちそうな口を開いて応えた。
「エレネ様の歌に魅了された人間は、ずっと歌を聴いていられるところに潜っていくのよ!」
「そうそう! 海の底にいけば、エレネ様の歌をずうっと聴いていられるから!」
人魚が言うのを聞いて、俺はちょっとだけ正気を取り戻した。
このエレネという全裸の歌姫は、その歌の魅力か魔力か知らないが、そういうもので、船乗りを海に引きずり込む魔性の持ち主だ。体は美しいが、彼女は――人間ではない。人魚たちの反応を見るに、彼女はこのあたりの女王的な存在なのだろう。いうなれば、ボスである。ボスを怒らせてはいけない。
「エレネ、様。ここは一体、どこなのでしょうか」
俺は質問した。
「島よ」
「はぁ、島ですか……」
はぁ、という感じである。
忘翁もそうだが、神的な存在と言うのは、人間が名付けた物や土地の名前などには頓着しないのかもしれない。彼女にとっては、ここも、そしてあっちの方にある小さな岩の陸地も、同じように「島」なのだろう。
「私は、町に戻らなければなりません。何か方法があれば、教えてほしいのですが……」
「あの船は、貴方たちのではないの?」
「あれは、もう壊れてて動きません」
「そうなの。それじゃあ、貰えるのかしら?」
「え?」
「壊れた船は、良い遊び場になるのよ。あの船をくれるなら、港の町に送ってあげてもいいわ」
「ぜ、是非お願いします!」
全裸の女性に頭を下げる。
屈辱よりはむしろ、喜びの方が大きかった。
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突然の嵐によって、アイヴィオの港にも高波が打ち寄せていた。
停泊している船舶は縄を固く結び、碇も下して、魚市場も二日の間開かれなかった。
嵐は、ただの嵐ではなかった。
というよりも、アイヴィオ近海にはそもそも、嵐は来ないのだ。
人々は、何年ぶりかの嵐に恐怖して、家の戸を固く閉ざした。
――エレネの呪いだ、と船乗りたちはひそひそと話し合った。
組合館の一階の、がらんとした飲食スペースに、三人は座っていた。
酒の瓶をテーブルの真ん中に置き、スレッド、ヴァン、そしてエイル。
ヴァンは朝から酒を煽っているが、エイルは嵐が過ぎ去り始めて外に出て、海上の四隻の船が無くなっているのを見てから、一口も物を食べていない。
「――さて、もういいだろ」
ヴァンは、やってられるか、とばかりに、また一杯、酒を飲み干した。
ヴァンの狙いはグリムだった。エイルとスレッドの仲間になったのは、グリムを見つけて、グリムを殺すためである。
しかし、嵐が来てしまった。
嵐は、海上に浮かんでいたルノアルドの軍艦四隻を、すっかり洗い流してしまった。グリムは、その中の一隻に乗っていた。つまりグリムは、船と共に、海の中に葬られたのだ。
スレッドは、金貨を一枚ヴァンの前のテーブルに放り投げた。
ヴァンはそれをむんずと掴み取り、懐にしまった。
「契約は解消だ」
「あいよ」
ヴァンはそう言うとさっさと立ち上がり、こきりこきりと、首を鳴らした。
「どこに行くんだ」
「次の悪魔を見つけにさ」
「ルノアルドに行くんだな。悪魔というなら、ルノアルドは魔の都だ」
「行けるものなら行ってるさ。まぁ、そうだな、王国様がバルログを倒してくれるってんなら、ルノアルドの魔王様だって斬りに行くよ」
ヴァンはそれだけを捨て台詞にして、組合館を出て行った。
「エイル、君は明日、私と共に都に上る。いいな?」
エイルは、じっと酒の瓶を見つめていた。
「現実は、非常なものだ。――だが、受け入れるしかない」
エイルは、顔を上げてスレッドを見つめた。
スレッドは息を呑んだ。
エイルの瞳は、何とも言えない力を秘めていた。
「君が、悲しんだところで、彼は帰ってこない」
一言一言、スレッドははっきりとそう言った。
しかしスレッドは、自分でも、どうしてそんなことを口にしているのかわからなかった。エイルは賢い女性である。そんなことは、誰かに言われなくともわかっているはずなのだ。それなのにどうして、自分がエイルにそんなことを言ったのか、スレッドにはわからなかった。
「彼は、死んだんだ」
「やめて」
「エイル――」
「そんなこと言わないで! グリムは、まだ……」
「生きているわけないじゃないか。あの嵐で――知ってるだろう。あの嵐は、エレネの呪いだ。呪いの事を知らずにやってきたルノアルドの船は、呪い避けをしていなかった。あの四隻は、船も、乗組員も、人質も、等しくエレネの懐、二度と抜け出せない海の底に沈んだんだ」
「彼は黒魔術師よ! そんな簡単に、死ぬわけない!」
「エレネの呪いを打ち破ることはできない!」
「嫌よ……嫌……」
エイルは、両手で顔を覆うと、小さい声で泣き出した。
静かな店に、エイルの、悲しそうな泣き声だけが響いた。
スレッドも頭を抱えた。
泣かすつもりなんてなかったのだ。しかし、エイルの気持ちを考えれば、彼女が泣いてしまうことはわかっていた。俺は何を向きになっているんだ、とスレッドは一人悩んでしまった。
しばらく泣いて、沈黙があって、エイルは両手で涙をぬぐった。
スレッドはその間、一人で酒ちびちびやっていた。
深呼吸をして、エイルは感情を鎮めようとした。
理性の声に耳を傾ける。
グリムは死んでしまった。
それなら、自分に何ができるだろうか?
せめて、亡骸だけでも見つけてあげたい。
そこまで考えた時、ふとエイルは、あることを思い出した。
グリムの亡骸?
「生きてる……」
エイルは呟いた。
「そうだった……グリムはっ――」
「なんだって?」
そうだ、グリムは、向こうの世界からやってきた人間だ。
彼は自分で言っていた。
こっちで死んでも、向こうの世界で生き返る、と。
だから彼は――グリムは、生きている。
エイルの凍えていた胸の中に、熱が込み上げてきた。
生きている、グリムは、生きている。
エイルは、自分の手や足に、血が流れてゆくのを感じた。
彼は、こっちで死んだら、もう二度と、こっちの世界には戻ってこられない。
それは、なんて悲しいことだろうか。
もう二度と言葉を交わすこともできないし、互いに視線を通わすこともできない。
本当にそれは、なんて切ないことだろう。
でも、グリムは生きている。
彼の元いた世界で、生きているのだ。
「エイル?」
「ごめんなさい。なんでもないの。明日のことよね」
「あ、あぁ、明日――」
「大丈夫。私のわがままを聞いてくれて、ありがとう」
「い、いや……」
「カール殿下やジャンヌが悪いようにならないなら、私は何でも協力します」
「そ、そうか……」
急に自分を取り戻したエイルに、スレッドは動揺してしまった。
違和感を覚えると同時に、何者かへの悔しさを感じたのだった。
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目を閉じて、グリムはエレネの歌を聴いていた。
澄み渡った、氷のような声。
冬の夜空のようだった。
歌の意味はわからない。
言葉が違う。それなのになぜだか、所々、感情を動かされる。
この歌を全部聴くと、俺は港町アイヴィオに行けるのだという。
理屈なんてわからない。
しかし今は、エレネや、人魚の言葉を信じるしかないだろう。
もし彼女たちが、妖婆のように、俺たちを騙しているのだとしたら、それはもう、どうすることもできない。この歌が「死の歌」とか「永遠の眠り」の歌だったとしても、今の俺たちには、どうすることもできない。
歌を聴きながら、アイヴィオに着いてからの事を考える。
もし着けなかったら、は考えない。不毛な感情を絞り出す。
エイルたちは、無事だろうか。
あの後、エイルたちが冷静なら、即座に聖北街道を上り、エリーゼに向かっただろう。ネーデルに行くには船を使うしかないが、船が使えなくなった以上、目的地をネーデルから聖都エリーゼに変更するしかない。
聖北街道は危険だ。
大きな街道で、所々に駅宿はあるし、道も霊的に守られているから、巨大蜘蛛やらスケルトンやらが出現することはない。だがそのかわりに、人間がいる。目立たないような良い工夫があれば良いが、果たしてどうか。
問題はまだある。
エリーゼに、本当に入れてもらえるかどうかわからない。エイルはベイフを頼ると言っていたが、ベイフの一存でどうにかなることなのだろうか。
エイルの故郷とはいえ、エイルはエリーゼを、追い出された身の上だ。そのような人間を、エリーゼが再び受け入れるだろうか。都市に入ったあとから、エイルが何者であるか、エリーゼの領主辺りに知られれば、結局エイルも、その連れも、そして一行を受け入れたベイフも、タダでは済まされないだろう。
刑罰の制度が聖都にあるかどうかはわからないが、処刑がなければ、追放くらいにはなるだろう。追放されてしまったら、結局また、放浪することになる。いや、その時にはすでに、放浪も許されないかもしれない。カカンの役人が、エリーゼの門の外で待ち構えているに違いない。
心配だ。
しかし、俺が行った所で、何の助けになるだろうか。
けれど気持ちだけは、いっちょ前に「何とかしたい」と思っている。
その時になったら俺は、この黒魔術の力を存分に使って、力づくでも皆に、居場所を作るつもりなのだろうか。
――だが、そんな力で作った場所を、皆は「居場所」と認めるのだろうか。
クワルは、俺といられれば良いと言っていた。
エイルはどうだろうか。彼女は正義感が強いから、俺のそんな不当なやり方では、満足しないだろう。きっと、認めない。
ジャンヌとカールは――二人は、エイルに輪をかけて「正義」だ。ジャンヌは、カールが助かれば、ある程度は何でもするし、矜持だって捨てる覚悟があるだろう。しかしカールは、自分の正義と心中するかもしれない。
エリーゼで収まりがつけば、それが一番良い。
だがそうなると思って疑わないのは、楽観的過ぎる。
命がかかっている。
しかもそれは、俺の命じゃない。
もうじき歌が終わりそうだ。
頭がぼんやりしてきた。
さぁ、この歌は「死の呪い」だったか、それとも、アイヴィオに行くための「転移歌」であったか。
ザザーン。
波の音がする。
ぐっと、目玉が奥に沈み込むような違和感に襲われる。
息を吐く。
体中の空気を吐き出す。
キーンと、耳鳴りがする。
星の音だろうか。
そして俺は、がくっと首をうなだれた。




