106 出航
翌朝、宿の一階、飲食スペースにその男がやってきた。
髭を生やした厳つい顔、猫背で、うつむくようにしながらも、目だけは注意深く、鋭い視線を、密かに周囲に向けている。
クワルが、昨日見つけてきた男だ。
船を持つ海上貿易商である。
男の向かいに座る。
男は、俺が階段から降りてくる間から、ずっと俺の事を見ていた。
俺の隣にはクワルがいて、クワルもほどなく席に着いた。
甘湯が運ばれてくる。
俺は三人分の金を払い、女給を退かせた。
朝の酒場宿は、静かなものだった。
もう少し早い時間――日が昇り始めたころは一時賑やかになったが、今は早朝の客たちは、遊びに出かけるとか、睡眠をとるだとかしている。船乗りや港の運搬人足というのは、そういう生活をしているのだ。
「あんたがピカソ導師か」
不躾に、男が訊いてきた。
危ない男だ。
俺の人を見る目がどれほどの物かはわからないが、直観的に、この男とは取引をしたくないと感じる。
だが今は、そんなことは言っていられない。
法を犯すことを何とも思っていないような連中の助けを借りなければ、俺たちは助からないのだ。
「そっちは」
俺も聞き返す。
「デズモンド。船を持ってる」
甘湯を飲む。
温かさも甘さも、ほとんど感じない。
この物騒な男を前にしているせいだろう。この男に自分たちの運命を託さなければならないという精神的な苦痛で、感覚が麻痺している。
「一人50だ」
「50だと?」
吹っ掛けられた。
一人50グロウルは高すぎる。俺は今、100グロウルしか持っていないから、それだと二人しか乗せられないことになる。最悪、カールとジャンヌの二人を乗せられればそれで良いのだが……この男が、金だけを受け取って、海上で約束を違えることも充分に考えられる。
「人間の密輸だ、それくらいはかかる」
「それにしても高い。一人25だ」
「……バレれば俺たちもタダじゃ済まない」
「バレるような仕事をするのか?」
「そういうわけじゃねぇ」
「バレないなら問題ない。一人25だ」
「……」
「三人乗りたい。そのうち一人は向こうに行って、戻ってくる」
「一人は往復というわけか」
デズモンドは微かに歯を見せて笑った。
「信用してもらわなくちゃ商売はできないぜ。その一人ってのは、目付け役か」
「それくらいの保険は当然だろう」
デズモンドの、狡賢そうな目がちらりと光る。
「それで、100だ」
「――わかった、いいだろう」
「いつ出られる」
「昼には出発する」
「今日の?」
「あぁ」
俺はデズモンドの船とマークと、停泊している桟橋を聞き、デズモンドはそれだけ俺に教えると、宿を出て行った。
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「ネーデルに逃げる」
宿の一室、俺とカールの部屋に五人を集めた。
「船に乗るのは、カールとジャンヌ、それから、俺だ」
皆、不安がっている。
海に出れば、あとはもう、波の流れと風に運命を託すしかない。逃げ場のない海に出るというのは、そういうことなのだ。不安を言えば、俺だって不安だ。
だが、俺の不安は、他の皆に比べればだいぶ小さいように思う。
まず俺は、死んでも死なない。向こうで目を覚ますだけだ。
そのうえ俺には黒魔術があり、かつ、背負っているものが甚だ少ない。
「向こうに行った後、貴方はどうするの?」
エイルの質問だ。
「帰ってくる」
「同じ船で?」
「うん」
それを聞くと、次にカールが言ってきた。
「船は、僕だけで大丈夫です」
ジャンヌが目を見開く。
「危険ですカール様」
「皆を危険に晒すよりもその方が良いよ」
「しかし――」
子供ながら肝の座った王子である。
ジャンヌが、あたふたしている。カールは頼りなさそうに見えて、案外頑固なのだろう。一度決めたら曲げないような、精神的な強さを持っている。だが、カール一人を生かせるというのは、客観的に見て、危険すぎる。
「三人だ、カール。まず生き延びることだ」
「……」
カールの髪を撫でつけてやる。
どうどう――カールは今、冷静ではない。
死んでもいいや、という気持ちがある。
実際に今、捨て鉢な気分になっているのは、カールだけではなさそうだ。俺も含めた全員が、そんな感情を持っている。
どうせ何をしても最後には――。
どうせまた罠が――。
上手くいくはずがない――。
あらゆる人間の敵意や殺意にあてられ続けたためだろう。
旅の辛さもある。
いっそ死んだ方が、なんて感情がわいてくるのは、仕方ないことだ。
だが、俺は、パトラッシュが命を懸けて助けてくれたことを無駄にしたくない。
「でも、僕は――」
「いいんだよ、こういう時は大人に任せろ。ジャンヌ、それでいいよな?」
ジャンヌは、力強く頷いた。
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最年長らしく決定を下した俺はその後、最年長らしからぬそわそわした気持ちに苛まれていた。皆、時間まで部屋で休むことになったが、俺はというと、宿の一階の隅っこで、こっそり酒を飲んでいた。
落ち着かないのだ。
悪い予感なら、ずっとしている。
これからの事を考えると、心臓が握られるように苦しくなる。胃の中に鉛の塊でも入っているような違和感、吐き気。
酒を煽る。
悪い習慣だ。酒で死にかけたのに、結局また俺は、酒に逃げている。
「また飲んでるの?」
エイルがやってきた。
相席に座る。
俺は、思わず持っていた器を置いた。
「ごめん……」
叱られた気分だ。
自分の弱さを指摘されたようで、情けなくなってくる。
ところが、エイルは思いもよらぬ行動に出た。
俺の置いた器をとると、それをそのまま、くいっと自分で飲んでしまったのだ。
俺のぽかんとした顔を見て、エイルは微笑した。
「エイル……?」
「もしかしたら、今日が最後かもしれないでしょ?」
「縁起でもない」
「……わからないじゃない」
確かに、わからないことだ。
向こうに行って、帰ってくる。その途中で命を落とさないという保証がどこにあるというのか。むしろ、この追い詰められた状況を考えれば、無事に帰ってこられると思い込むのは、楽観的過ぎる。
「私も連れてって」
「無理だよ」
「……」
「どうしてそこまでするんだ?」
「それが重要?」
「重要だろう。俺は、この世界での自分の役割を確かめたかった。ここに来て、それがわかってきた気がする。――俺は、死んでも向こうで蘇る。だから、普通じゃできないような無茶ができる。でもエイル、君はどうだ。どうして、一つしかない命を惜しまない。
エイルがいなかったら俺はもう、何度死んでたかわからない。間違いなく、君がいなかったら皆、途中で野垂れ死んでた。でも、どうして君がそこまでするのか、俺にはわからないんだよ」
縋るように質問をぶつける。
エイルは、じっと俺の目を見て答えた。
「貸しを作りたくないから」
貸し?
「何の事だよ」
「杖の貸し」
「それなら、もう済んでるじゃないか。命も助けてもらって、何ならおつりがくる。俺の方が貸しを作ってるくらいだ」
「この杖の代金は、一度や二度命を助けたくらいじゃ合わないわ」
俺は、奥歯を食いしばった。
無意識だったが、俺は、無性に腹が立ってきたのだった。
「じゃあもう、忘れてくれ、そんな貸しなんて。そんな杖、捨てていい。俺にとっては、何の価値もない杖だよ。杖の事も、俺の事も忘れて、自分の人生を考えた方がいいじゃないか」
こんな危ない橋を、貸し借りなんていうつまらないもののために渡るなんて、馬鹿げている。義理人情ならともかくとして、貸し借りなんて――金のためなんて、そんな人生はつまらないじゃないか。
エイルは口を微かに開き、また閉じた。
その綺麗な目に、じわっと涙が浮かんでくる。
「ごめんなさい」
小さな声でそう言うと、エイルは席を立ち、逃げるように階段を上がっていってしまった。……え、俺が、泣かせたのか?
いや、間違いなく俺が泣かせたんだ。
でも、どうして泣いたんだ。
額を覆う。
何だかよくわからないが、エイルを傷つけてしまった。
あぁ、俺は何をしているんだろう。
エイルは、俺を慰めに来てくれたのに。
「はぁ……」
もう、酒を飲む気力もない。
考えてみれば、エイルの言う通り、今日が皆で過ごす最後になるかもしれないのだ。俺がここを出て、帰ってこられなければ、クワルとエイルには、もう二度と会えない。
そんな当たり前のことを、俺は考えていなかった。
エイルは、そのことを俺に気付かせたかったのかもしれない。
『グリムさんのことを好きだからじゃないですか?』
カールの言葉を、ふと思い出した。
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昼過ぎ、指定の時間、場所に俺たちはやってきた。
港の活気、市場の賑わいの中では、黒い変な服を着た俺すら目立たなくなってしまう。
デズモンドと彼の部下である船乗りがやってきた。
船への荷運びはすでに終わっていて、後は、俺たち三人を乗せたら出航する。
ジャンヌとカールは、エイル、クワルとの別れを惜しんで、最後の会話をしている。戻ってこないジャンヌとカールは、これが本当に、二人とのお別れになる。そして、もしかすると、俺も……。
いよいよ、出航の時が来た。
ジャンヌとカールが、デズモンドの後に続いて桟橋を歩いてゆく。
その後に、俺も続く。
「グリム様……」
クワルが、不安を隠さずに、俺を見上げてくる。
「必ず戻るよ」
クワルにそう言って、安心させてやる。
そんなことで安心するわけないが、それ以上に、言ってやれる言葉はない。
クワルの隣に立つエイルは、俺から目を逸らせている。
泣き顔を見られたのが恥ずかしいのか、それとも、怒っているのか。あるいは、俺が怒っていると思って、怖がっているのか。
「エイル」
呼びかけると、エイルははっとして、俺の目をまっすぐ見つめてきた。
何度見ても、綺麗な目だ。
いかにも聡そうな、きりっとした眉。
やっぱりエイルは、美人だ。
こう見つめられると、俺はいつも気後れしてしまう。
「えーと、あのさ……さっきのは、悪かったよ。戻ってくるから許してくれな」
それくらいしか、言ってやれない。
キザな言葉は様にならないから、こういう時は、本当にイケメンやハンサムが恨めしい。
「絶対帰ってきて」
エイルは、声を裏返しながらそう言った。
普段大声を上げないエイルが、珍しい。
とはいえ、エイルの大声である。船の荷下ろしをしている人足の唄やら会話やらに紛れてすぐに消えてしまう。
俺は二人に背を向け、桟橋を歩いた。
「これをつけてください」
と、銀の腕輪を二つ、水夫が差し出してきた。
「水泡の腕輪です」
海に落ちても、水泡に包まれて溺れないようになるらしい。
そんな説明を聞きながら、俺は両手にそれを嵌めた。
乗船し、デッキの上から、三人して街を眺める。
桟橋の手前にエイルとクワルの姿を見つけた。
二人は何か言っているようだが、ここからでは聞き取れない。
何の前触れもなく、船が動き出した。
ゆっくり、ゆっくりと桟橋から離れる。
――誰かが、桟橋に駆けこんできた。
遠くてよくわからない。
男だ。
サーコートを着ている。
こっちに向かって、何か叫んでいる。
――彼は、俺たちを、助けようとしている?
俺は、周囲に膨れ上がる敵意を、今更になって感じ取った。
「騙された!」
ジャンヌはそう言って、剣を抜いた。
水夫たちが一斉に剣を構え、俺たちを取り囲んだ。
「こっちに!」
ジャンヌの剣が、水夫を弾き飛ばした。
カールが従って走る。
二人は甲板上の包囲を抜けだした。
俺もその後に続く。
が――急に体が重くなって、気づくと俺は、甲板の上に倒れていた。
「グリム!」
俺は、二人の方を見上げるのが精いっぱいだった。
水夫たちが、二人に迫っている。
「逃げろ! 逃げろっ!」
俺は力いっぱいに叫んだ。




