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105 眠り深々

 港町アイヴィオ。

 情報を集めるためにクワルは、一人町に出ていた。

 冷たい磯風が吹いているのに、荷運びをしている水夫たちは、どういうわけか上裸か、それに近い格好だった。昼間っからワイワイ騒ぎ、酒を飲みながら貝や魚を焼いている地元の男たちもいた。


 内陸の町だと、ライカンのクワルは好奇の目で見られるが、ここでは、クワルが特別注目されることはなかった。ジャイアントとベレネのハーフ、ライカン、ライカンとベレネのハーフ……さすがに人魚やエルフはいないが、人種のるつぼといって差し支えない町だった。


 桟橋に人が集まっていた。

 海の方を見ている。

 クワルもそれに混ざって、海を見た。


 遠く――しかしその形がはっきりわかるくらいの距離に、船が浮かんでいた。

 数は、五隻。

 クワルは、嫌な予感を覚えるのだった。



「寝てるわ」


 宿の一室、女二人の部屋にジャンヌが戻ってきた。

 隣部屋の、グリムとカールの様子を見に行ったのだった。

 クワルは情報収集、グリムは服が目立つので宿に待機、以下三人も、宿に残ることになった。エイルもクワルと一緒に行くつもりだったが、クワルがそれを聞き入れなかったのだ。


『エイル様は休んでいてください! 休むのも仕事です! ライカンは、もともと丈夫なんです!』


 パトラッシュがいなくなって、クワルも悲しんでいるはずだった。丈夫なライカンとはいえ、心まで丈夫というわけではないだろう。けれど今、クワルは、あえて頑張っているのだ。――仲間を失った悲しみを、一時でも忘れるために。


 ナバースの森からアイヴィオまで、三日間歩き続けた。

 森では魔物がひっきりなしに襲ってきて、恐らくグリムは、ほとんど寝ていない。昨日アイヴィオにやってきて、グリムとカールは、それからずっと、泥のように眠っている。


 二人が休んでくれて、むしろエイルとジャンヌは、ホッとしているのだった。


「ここまでありがとう、エイル」


 ジャンヌは、穏やかな口調で言った。


「好きでやってることだから」


 エイルは首を振る。


「でも、どうして助けてくれたの? あの、カメス・メイスってクランに居たんでしょ? そこを抜けてまで……」

「それがね――」


 エイルは、くすす笑って言った。


「自分でもよくわからないの」

「え?」

「気づいたら、こうなってた。クワルが雨の中訪ねてきて、その場で決めちゃったの。今思うと、よくわからない」

「……後悔してる?」


 エイルは少し考えて、答えた。


「してない」


 エイルは思うのだった。

 この旅は、もしかすると、目的を達成できないで終わるかもしれない。自分も、死んでしまうかもしれない。早死にを選んだだけの、そういう旅になるかもしれない。

 けれど、生きた長さに人生の価値があるとは思えない。死ぬのは怖いし、生きたいとは思う。思うけれど、命を懸けてもいいと思いきれるものに出会えるのは、人生で一度くらいなものなのではないだろうか。

 歳を取れば、それは「勘違い」とか「気の迷い」とか、この感情の事をそう呼ぶのかもしれない。でも、仮にそういうものだったとしても、それに人生をかけることは――命を懸けることは、本当に愚かなことなのだろうか。


「貴方は、後悔してるの?」

「私? 私は……当然、してないわ。悲しいことはあったけど」


 ジャンヌは視線を落とした。

 関所を破ってカカンに入国する前、ルノアルドでジャンヌがどういう目にあったのか、エイルは知らない。けれど、わかるような気がしたのだった。


「それよりもエイル」

「何?」

「貴方、グリムのこと、好きなの?」

「え!?」


 突然の質問に、エイルは素っ頓狂の声を上げた。

 その反応を見て、ジャンヌは明るく笑った。


「な、なんでそうなるの!?」

「だって、そうでもなかったら、こんな危ない旅についてこないでしょ?」

「お、恩があるのよ!」

「恩? 命の?」

「そう。それに――」

「それに?」

「2000グロウルで買われたの」

「買われた!?」


 今度はジャンヌが驚く番だった。

 買われた、とは、どういうことだろうか。そしてその、2000グロウルという大金はどこから来るのか。確かにグリムは、あの力があれば2000グロウルを稼げるかもしれないが、裕福そうには決して見えない。


「どういうこと?」

「これ」


 エイルは、龍老人の杖をジャンヌに見せた。

 ジャンヌは、その杖の事をよく知っていた。クティと三人で、船の中、賭けトランプの景品としてグリムが出した杖だ。今の持ち主は、どうやらエイルらしい。


「その杖が、どうしたの?」

「龍老人の杖って言って――買えるような代物じゃないけど、買おうと思ったら2000グロウルは下らない、そういうものなの」

「そんなものなの!?」


 グリムは雑に扱っていたから、てっきりその辺にある、ただの木の杖だとジャンヌは思っていたのだ。


「これを、貰ったの。グリムから」

「あぁ、それで――でも、貰ったんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、買われたわけじゃないんじゃないの?」

「こんなの、貰えない……」

「グリムは何て言ってるの?」

「グリムは……」


 何も言っていない。

 というより、気にしていないのだろう。

 この杖に、全然執着がないようだった。それがまず理解できないが……私に杖をあげたことすら、忘れているのではないだろうかと、エイルは思うのだった。


「それよりもジャンヌ、貴方は、グリムの事――」

「それこそ命の恩人よ。私は、一生かけて、彼に恩を返してゆくつもり」

「それってつまり――」


 どういうこと?

 と、エイルは首を傾げた。


「でもビックリした。身請けされたのかと思ったわよ」

「身請けって……」


 エイルの耳が赤くなる。


「ごめんなさい。でも、貴方ってその……美人だから」

「あのね……」


 貴方が言う? と思うエイルだった。

 ジャンヌは、それこそ美人である。女のエイルから見ても、それはもう、美人なのである。彼女が目立つのは、賞金首だからというだけではない。ぱっとしないスーラに、何の洒落っ気もないグロッケローブ姿でも、ジャンヌの持って生まれた気高さと美貌は削がれることがない。


「――ねぇ、エイル」

「何?」

「本当に、逃げ切れるかしら」

「え?」

「逃げていいのかどうか、わからないの」

「逃げなかったら、貴方たち、捕まっちゃうんでしょ?」

「私はそれでもいいの。でも、カール様は――」

「生かしたいと思うなら、逃げるしかないわ」

「どんなに逃げても、カール様は、ルノアルドの正当な血筋の継承者――それは、変わらない」


 エイルは、ジャンヌの言わんとしていることを理解した。

 どこへ逃げても、カール王子が、「王子」だということからは逃れられないと、ジャンヌはそう言っているのだ。逃げ伸びた先で、どのように生きてゆけばいいのか、今のジャンヌにはわからないのだろう。


「貴方はどうしたいの?」

「私は……カール様が無事なら、それでいいわ。カール様が幸せなら」

「運命って、残酷なものね」


 エイルは、ジャンヌやカールに起こったことを、我が事のように思うのだった。

 自分ではどうすることもできない生まれ、背負わされるもの、そして、自分を取り巻く環境の、どうしょうもない変化。私もカール王子も、そしてジャンヌも、突然船から落っこちて、濁流にのみ込まれているかのようだ。



 グリムは、暗い部屋で目を覚ました。

 穏やかな目覚めだ。

 グリムの隣では、カールがまだ眠っていた。


 あどけない横顔。

 小さくて、甘ったるい吐息。

 頬はまだ、絹のように繊細で滑らかだ。


 空っぽな頭のままベッドを立ち、椅子に座る。

 テーブルの上の水差しからコップに水を注いで、飲む。


「はぁ……」


 この薄暗い時間が愛おしい。

 ずっとこうしていたいと思う。

 贅沢なこの時間は、どうせすぐに終わるだろうが。


『起きたかの』


 忘翁だ。

 俺は水差しを忘翁だと思うことにして、目を向けて話すことにした。


「おはようございます」

『なんじゃ、元気無いのぉ』

「さすがに、疲れてます……」

『なんだかんだ、無事じゃな』


 本当に、生きているのが不思議だ。

 運なのか、運命なのか……少なくとも、神様の加護のおかげではないだろう。

 だが別に、忘翁を恨んだりはしない。

 もともと、全然期待なんてしていないのだ。


「生きてはいますけど、無事じゃないですよ、全然……」

『帰りたくなったか?』

「ラリアンですか?」

『向こうの世界じゃ』

「あぁ……」


 どうだろう。

 そういえば、俺はいつでも、その気になれば帰れるのだ。

 それなのに、どうしてここで頑張っているのか。

 心も体も疲れる。人の殺意にあてられるのは、本当に恐ろしい。総じて、辛いし苦しい。それなのに、どうしてか、逃げ出したいとは思っていない。心のどこかでは、楽になりたいと思っているが、それは、心の片隅の、ちっぽけな思い付きのようなものだった。


「そんなこと聞くんだったら、最初から連れてこなければ良かったでしょう。――俺を召喚した目的、思い出しましたか?」

『それがぜぇーんぜん』


 本当に、この爺さんは……。


『じゃが、お前さんはその目的を、着実に達成していってると思うぞ』

「どうしてそう思うんですか?」

『こうしてわしが、再びお主と会話ができるようになった。それが何よりの証拠じゃ』

「はぁ……そういうものですか」

『そういうものなのじゃよ』


 詳しく聞こうとは思わない。

 どうせ肝心なところは忘れていることだろう。第一、神的存在の理屈など、俺に分かるわけがない。「そういうもの」だというなら、こっちも「そういうこと」にしておけばいいのだ。


「それよりも、この服何とかなりませんか。目立ってしょうがない。何なんですか、これ」

『あのあたりは、もともと砂漠だったんじゃよ。今でこそ森におおわれているがのぉ。その時代には、その服は王権の象徴じゃった。スフィンクスの黒衣を着ることの許された者は、賢者として、いくつもの大国を治めたのじゃ』

「脱げないんですよ……」

『スフィンクスは、今もその文化があると思っているのじゃ。無理からぬことじゃ、人里離れたあんな場所ではな』

「何とかなりませんか」

『そうじゃな――わかった、杖にしてやろう』

「何とかなるんですか!?」

『わしを誰じゃと思ってる』

「ボケ老人」

『たわけ! わしゃ神じゃ!』


 そうだった。

 忘れていた。信じてもないが。


「じゃあ、さっそくお願いします」

『うむ……と言いたいところじゃが、そうもいかん。お主がピカソ導師でいる間は、その衣は脱げん』

「どうして――いえ、まぁそれはいいです、そういうものなのですね……。じゃあ、いつになったら脱げますか?」

『お主が、グリムに戻ったときじゃ』

「俺はずっとグリムですよ」

『お前だけがそう言ってもな……』

「どうすればいいんですか。俺はグリムですよ。ピカソ導師とか、そんなふざけた名前の僧侶がいるわけないでしょう」

『いるんじゃよ。お主にとってピカソ導師は偽物かもしれないが、すでに多くの者にとって、ピカソ導師は実在する人間となった』

「――ピカソ導師を信じてる連中に、正体をバラせって言うんですか?」

『それも一つの方法じゃ。そうすれば手っ取り早く、服を杖に変えてやれる』

「ほかに、方法はないんですか」

『いろいろある。要するに、その衣はいまやピカソ導師のものじゃ。お主がピカソ導師と名乗る限りは、衣もついてくる』


 だったらもっとちゃんとした名前を考えれば良かった。

 後悔先に立たず。

 ――翁が消えて行った。


 俺はランプに灯を灯した。

 カールが、可愛らしく呻いて、ゆっくりと目を開けた。


「まだ寝てていいよ」


 カールは体を起こし、小さなあくびをした。


「もう、夜ですか……」

「うん」


 窓の外に目を移す。

 分厚い雲で、月も隠れている。星もない暗いだけの夜空は、何の楽しみもない。ぼうっと眺めても、黒だけの空は、かえって不安をあおる。


「グリムさんは、寝ないんですか?」

「今さっきまで寝てたよ。よく寝た」


 丸一日くらい寝たことになるのだろう。

 ここに着いたのが昨日の夜。そして今が夜だから――本当に一日寝てしまった。

 一度でこんなに寝たのは、人生で初めてかもしれない。

 学生時代は、二度寝、三度寝を繰り返しながら、朦朧とした一日二日を送ったことは何度もあったが――今回のは、それとは全然違う。

 本当に、疲れていた。

 そしてまだ、これだけ寝たというのに、疲れはなお残っている。


 ぼんやりした頭でいるうちは、これからの事を考えなくていい。

 何も考えないで、もう一日くらい、ぼうっとしていたいものだ。

 そうしていても生きていける世界が懐かしい。

 あの日常は、本当は奇跡だったのかもしれない。

 向こうの世界での平和な日々は、夢の世界のことのようだ。


 コンコンと、控えめなノックの音。

 少し間をおいて、扉が小さく開かれる。

 エイルだった。

 様子を見に来たようだ。


 エイルは、俺と、カールを見て、少しホっとしたようだった。


「おはよう」


 エイルが言った。


「おはようございます」


 カールが答える。

 俺は立ち上がり、首や腕や腰の骨を動かし、パキパキ鳴らした。


「眠れた?」

「うん、また暫く、寝ないでもいけそうだ」


 エイルがくすりと笑った。

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