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第七章

 『懐古堂』の軒先に出した縁台に腰掛けて、茉莉花はぎやまん兎のシャボン玉を吹いてみた。

 先日と同じように淡い、桜色の珠がふわふわと浮かぶ。暮れなずむ夏の空を背景に、まるで早く出過ぎた月のようにほんのりと光っている。

 団扇でそうっとあおぐと、シャボン玉は風に漂い、路地の向こうへとゆっくり進んでいく。だが『懐古堂』の結界の境目でパチンと弾けて消えた。

 ―――やっぱり‥。今の霊力では結界の外へは出られないのかしら。

 自分でも不安定に感じるくらいだから、桜や縞猫、健吾までもが心配するのは当然だった。黒達磨だけが、そんな時期もあるもんでやすよ、と笑いとばしてくれる。

 もう一度シャボン玉を作ってみようと管を口に当てた時、いきなりふわん、とノワールが膝の上に現れた。

「姫しゃま‥? 何をなさっているのですかぁ‥?」

 緊張感のない声からして咲乃に危険が及んだというわけでもないと思うが、いったいなぜ帰ってきたのだろう?

 不思議に思って訊ねてみると、ノワールは咲乃に戻っていいと言われたのだと答えた。

「夜は問題ないから、昼間お出かけする時だけ呼ぶと仰られました。」

 どうやら黒猫は妖力が弱くなっているようだ。ひと晩かふた晩主人のそばにいれば回復する程度だけれど、咲乃は黒猫の状態を敏感に察知したのかもしれない。

 だがそれにしても夜は問題ないとはどういう意味なのか?

 重ねて訊ねるとノワールはにっこりと微笑んだ。

「夜には時々、煌夜しゃまが帰ってこられるのです。」

「え‥? 煌夜さんが?」

 茉莉花は眉をひそめた。

 黒鬼が人間界に下りたてば、あの霊気だからすぐに解るはずだ。もちろん鬼人は自由自在に霊気を抑えられるけれど、黒鬼には隠す理由などないし、あの気性からして隠したりはしないだろう。

「ほんとうに‥煌夜さんなの?」

「なんでも‥ご用がまだすまないので、幻影だけ送ってくるそうです。咲乃しゃまはとっても嬉しそうでした。」

 なるほど、と茉莉花は納得した。

 同時に咲乃の顔が浮かんで、胸の中が温かくなる気がした。それならば黒鬼は帰ってくる気があるのだろう。白炎が玲に告げた話とは違うようだけれど、白炎は未だ咲乃を手に入れたがっているようだから虚偽を交えた可能性は十分ある、と茉莉花は考えた。

「昨日会った時も咲乃さんは元気そうだったし‥。問題ないわね。」

 少しだけ羨ましい気分にもなる。

 その時不意に、見知った妖艶な気配が下りてくるのを感じた。縞猫が足下にすっと現れる。

「嬢さま。夜鴉の若頭領が、お見舞いだそうで。」

「お見舞い? 何のこと?」

「嬢さまの体調がよろしくないと耳にしたとか‥。確認する必要があると言われちゃったら、おいらには断れないし‥。」

 茉莉花はふうっと吐息をついた。

「先触れがないと困るのに‥。仕方ないわね。妖力を極力抑えてくださるならばとお伝えして。」

 言い終わらないうちに、人形(ひとがた)を取った若頭領の姿が目の前に現れた。

 縞猫は髭をぶんと震わせ、さっさと姿を消した。茉莉花はそろそろと腰を上げる。

 いつのまにか日は落ちて、黄昏が色濃く迫っていた。

 曖昧な闇を背に黒ずくめの服装で軒先に立った若頭領は、音もなく茉莉花に近づくと、漆黒の瞳でぐっと顔を覗きこんできた。

「ふうん‥。らしくねェな。だいぶ弱ってるようだ。」

 心配そうに眉をひそめる。

「俺の妖力を少し分けてやろうかえ? 嫁になるのはまあ、先でもいいんだぜ。」

 茉莉花はきっぱりと断った。

「自分で何とかいたします。ご好意には感謝しますけれど。」

「自分で、ね‥。気の強いのも善し悪しだぜ、『懐古堂』。今のおまえの状態は、一人で解決できるもんじゃないだろう? いったい何を待ってる?」

 若頭領は見たことのないほど優しい瞳をして、ニメートル以上の長身から茉莉花を見下ろした。人と間違えそうなほどに低く抑えられた妖力が、微かに茉莉花の全身を取りまく。

 羽布団にくるみこまれたような心地よさに、つい酔いしれそうになりながらも、茉莉花は敢えて結界を少し強化した。

「待ってるとは‥? 仰る意味が解りませんけど‥。」

「ふふ‥。解らねェならいいのさ。」

 にっこりと微笑んだ若頭領は、茉莉花の頬をぽんぽんと軽く撫でた。

「どうやら人の世はしばらく荒れそうだ。おまえが境界の場所で大人しくしてるほうが俺も安心だしな。できりゃ、咲乃姫も一緒のほうがいいんだがね‥。」

「やはり‥四宮狙いですか‥。」

 茉莉花はうつむいて唇を噛んだ。よりによってこんな時に、自分の霊力を制御できなくなるなんてどういうことなのだろう?

 若頭領は縁台に腰を下ろすと、茉莉花の腕を取って有無を言わせず隣に座らせた。

「ところで。細い糸くらいの微弱なもんだが、咲乃姫の近くで黒鬼の気配を感じることがある。何か聞いてるかい?」

「あ‥。それでしたらたった今‥‥」

 茉莉花はノワールから聞いた話をした。

 すると若頭領は、端麗な顔を苦々しげにしかめた。

「‥気に入らねェ話だ。黒鬼のガキを見損なってたか。」

「咲乃さんは嬉しそうですけど‥。」

「ふん。惚れた女に命を懸けられねェ男なんざ、糞みたいなもんだ。まして未練がましいどっちつかずはもっとみっともねェ。白鬼の言葉どおり、あいつは帰ってこないと見るべきだろうよ。」

 どうしてそうなるのか茉莉花には理解できない。むしろ帰ってくるつもりがあるから、咲乃に逢いにくるのではないのか?

 しかし若頭領は茉莉花のそんな疑問を、愛おしげな視線で笑いとばした。

「おまえのそんな初心(うぶ)さが可愛いんだがね‥。いいかえ、憶えておきなよ。言い訳なんぞし始めたら男ってのは逃げる算段をしているもんなのさ。用がすまねェからまだ戻れねェなんてのは、はなから戻る気のねェ男の言葉だよ。‥しかし。そうとなれば万一の場合に備えて、咲乃姫を保護する手を打っておかなきゃならねェなァ‥‥。」

「保護‥ですか。」

「そうだ。咲乃姫は人ならぬモノと契った女だ。四宮じゃなく、夜鴉の庇護下の存在なのさ。」

 茉莉花は微かに吐息をついた。

 黒鬼が戻らないとすれば確かに咲乃の保護はとても重要になる。

 以前に茉莉花自身が咲乃に言ったように、咲乃の受容力にあふれた甚大な霊力と無垢な魂は物の怪たちにとっては宝玉に等しい。それが何の保護も持たない状況で存在するとすれば、争奪戦が再燃するのは必至。

 しかも昨春と異なるのは四宮本家の管理能力の低下が否めないという事実だ。物の怪たちに加え、今後は本家に敵対する人間の間でも宝玉を得ようと躍起になる者たちが増えるだろう。

 咲乃の母 (ゆかり)の霊力珠を手にした葛城真生が、『御霊の会』教団を立ち上げて長年教祖として君臨できた事実を(かんが)みれば、更にその珠を奪った四宮史の行為を思えば、四宮本家の敵に咲乃の霊力が渡るという事態は即、本家の危機を意味する。

 どう考えても霊力と妖力の均衡のためには、咲乃には正規の保護者、即ち夜鴉一族の正式な庇護だと認めざるを得ない。宝玉としての咲乃の価値はそれほど大きい。

 けれど咲乃は―――人であり、茉莉花のたった一人の友人だ。

「‥‥その場合、咲乃さんは現在の人としての生活をまっとうできますか‥?」

「状況次第だ。人を捨ててもらわなければならない場合も出てくるだろうよ。だが仮に黒鬼と縁を切ると咲乃姫が決心したところで、今の四宮本家に姫を護る力はない。黒鬼がいねェンなら夜鴉というより俺の保護下に入れるのが、大局的に見て最も人の世にとって安定するだろうな。姫の父親が成仏する前、願い出たように。」

 若頭領はくらくらするほど妖艶な微笑を向けてきた。

「おまえが俺の嫁にくればいい。そうすりゃ、咲乃姫は境界の場所にいられるだろう。」

「それはどういう‥‥?」

「咲乃姫を『懐古堂』で保護したいンだろ? だが境界の場所には姫を二人も許容できる幅はねェよ。どっちかが物の怪街道へひっこまなきゃならなくなるが、このままじゃア分が悪いのはおまえのほうだ。どうだえ? どうせ人でいられねェなら俺の嫁にこいと言ってるのさ。魂ごと全部引き受けて、人のままで生きるよりずっと幸せにしてやるぜ?」

 断ろうと振り向いた肩をぐいと引きよせられて、茉莉花は思わず鈴を高らかに鳴らした。

 もちろん実際には結界など役には立たないと知ってはいたけれど、意志を強く示したつもりだ。しかし若頭領はくすぐったそうに笑っただけだった。

「おまえの霊力は俺にとっちゃァ心地いいだけだ。実のところ、返事がイエスだろうがノーだろうが同じなのさ。」

「‥手をお放しください。」

「ふふ‥俺が怖いかえ‥?」

 まっすぐ凝視してくる漆黒の瞳に、そのまま夜鴉の闇へと引きずりこまれてしまいそうで、茉莉花は眼を閉じぎゅっと身を固くした。

「‥‥急ぐ理由はない。今までどおり未練がなくなるまで待っててやる。」

 耳元で囁かれて、茉莉花は立ち上がろうとあがいたけれど身動きができない。

 言ってることとやってることが違っているじゃないの、とだんだん腹が立ってきた。

 鈴の音は茉莉花の感情に呼応して高くなっていく。しかし肩にかかる腕の力はいっこうに弱まらない。

 不意に、凍りつきそうなほど冷たい声が響いた。

「ルール違反ですよ、若さま。彼女から手を放してください。」

 反射的に眼を開けると、にこやかに微笑をたたえた玲が目の前に立っていた。

「‥‥惚れた女を口説くのに場所は関係ないだろう? 別にルール違反じゃないはずだが。」

「人間の常識では、嫌がる女性を腕ずくで抱きしめるのは犯罪行為です。それに‥あなたには似合いませんよ、そんな野暮ったい真似。」

 あくまでも丁寧な口調で笑みを崩さないけれど、玲の視線は涼しげを通りこして、荒れ狂う雪嵐(ブリザード)のようだ。

 一瞬、視線のぶつかり合う音がバチバチッと聞こえたような錯覚を覚えた。

 若頭領は茉莉花の肩からしぶしぶ手を放し、すっくと立ち上がると、腕を組んで玲を正面から見下ろした。

「ふん‥。いつかおまえをこの手で引き裂いてやる‥! せいぜい月夜見神社の機嫌を損ねないよう、気をつけるんだな。」

 妖艶な顔に、脅しのこもった傲岸な笑みを浮かべる。

「ま‥逃げなかったことだけは褒めてやる。」

 玲はますます冷ややかな顔になった。

「逃げる‥? 彼女はぼくの、許婚です。逃げるはずがないでしょ。」

「こんなに弱らせておいて、一人前の口きくンじゃねェよ。‥‥ところで。話は聞いてたンだろう? 何が大事か、よっく考えるんだな。おまえの決断一つで、姫二人の運命が決まる。」

「‥‥二人とも護って見せます。若さまには若さまのやり方があるんでしょうけど、人には人のやり方がありますから。」

 ほう、と若頭領は不機嫌そうに顎をそびやかした。

「いいか? 姫の魂が消えそうだと思えば、俺は強制的に介入する。憶えておけ。」

「憶えておきます。」

 若頭領はいきなり翼を大きく広げると、玲に風をぶつけ、派手な嘲笑を残して去っていった。

 夜鴉の闇が『懐古堂』からするすると消えていく。

 緊迫した空気の中で、茉莉花はひと言も口を挟めなかった。

 若頭領の妖気が一時的に茉莉花の口を封じていたのだと気づいたのは、夜鴉の闇が完全に失せてからだ。腹立たしい思いで、茉莉花は鈴を高らかに鳴らし、空気を仕切り直した。

 玲は冷たい表情のまま若頭領が立っていた場所をじっと見ていたが、茉莉花がおずおずと振り向けた視線に気づくと、うってかわって優しく微笑んだ。

「大丈夫‥‥? ごめんなさい、わたしのせいで‥」

「君のせいじゃないよ。なぜ謝るの?」

 そう言うと玲は茉莉花の手を取った。

「また‥冷たいね。もうすっかり日が暮れたよ。早く中に入ろう。」

 うん、とうなずいて縁台に置いたぎやまん兎の小瓶と煙管を拾い上げる。

「あの‥。いつから聞いていたの?」

「ん‥。『惚れた女に命を懸けられない男は糞みたいなもんだ』ってとこから。黒鬼に関しては若さまに同感だ。」

 玲は繋いだ手に指をしっかり絡め直して、店の中へと先に立って入っていく。

 掌の体温を感じ、背中を見つめ、なぜか体じゅうの力が抜けるほど安堵した。そしてそんな自分に無性に苛立たしさを覚える。

「咲乃さんは‥‥与えるだけでいいみたい。煌夜さんが幸せならそれで十分だって‥その気持ちはよく解るわ。」

 玲は振り向いて、仄かに目元を緩ませた。

「四宮の姫たちは奥ゆかしいね。でもさ‥。相手を縛りたくないってのはつまり、自分も縛られたくないって意味だよね? 本気で好きな女性に言われたい言葉じゃないな。」

「そうじゃなくて、あるがままでいてほしいと言う意味だと思うけど‥。」

「あるがまま? あるがままって何? 出会う前と変わらない自分なら、出会った意味がないじゃないか。人なんかそんなに強い存在(モノ)じゃない。放っておいても日々変わっていくし、いつ消えてもおかしくないほど曖昧な存在(モノ)だよ。前にも言ったよね、アイデンティティなんてのはその場限りだし、不変な本質なんて生きるのに必要ない。‥少なくとも俺には意味がない。」

 若頭領の漆黒の瞳とは対照的な琥珀色の瞳が、じっと茉莉花を見つめてきた。

「さしあたり俺にとっては、いつでも好きな時に君にキスできるって許可をもらうことがいちばん大事なわけで、そこに現時点でのアイデンティティがあるって言うかさ‥。」

「は‥‥? 真面目な話、してたでしょ。」

「そう。すっごく真面目。真剣に悩んでる。実際、手を繋ぐだけで我慢するためには半端じゃない忍耐力が‥‥」

 茉莉花は繋いだ手を見下ろして、つい赤くなり、ぶんと大きく振り払った。

「‥‥やっぱりまだ駄目?」

「ふざけないで。」

 いつでも好きな時になんてとんでもない。心の準備をするタイミングがつかめないではないか? そうでなくとも前の二回のキスを自分の中で消化し切れていないというのに。

「‥‥もう! だからあなたって、今一つ信じられないのよ!」

 脇をすり抜けて先に座敷に上がり、ずんずんと奥へ入っていった。

 玲はすぐ後ろから急いでついてくる。

「どうして? その非難は不当だろ? 別の女の子にキスしたいって言ったならどんな非難も受けるけど、君にキスしたいのはあたりまえじゃん? だから信じられないってコメントはないよ。」

「だって‥どうしてそんな話になるの? 咲乃さんの話をしてたのよ。」

 気恥ずかしいので目を合わせずにそう答え、台所へ向かった。

「そうだよ。でも君ときたら、咲乃さんのためとか思いこんで、若さまのところへ嫁に行きかねない顔してたじゃないか?」

 夕食の支度に取りかかろうと、茉莉花は流しの前でそそくさとエプロンをかける。玲はテーブルに寄りかかり、しかめっ面で腕を組んだ。

「‥そんなことは考えていません。」

「ほんと?」

「あたりまえでしょ。あなたこそ、若さまに人には人のやり方があると言ってたけれど、大丈夫? 目算(もくさん)があるんだと思ったのに‥不安になっちゃったじゃない。」

 玲はくくく、と笑いだした。

「なあんだ。信じられないってそういうことか。もちろん目算ならそれなりにあるよ。」

「それなり‥?」

「とにかくまずは、今のままで咲乃さんを護れればいいんだ。それから黒鬼が抜けた霊力のバランスをどう取るか、だよね? ちょっと思いついたんだけど‥四宮の結界の核とやらが見つかれば安定するんじゃないか?」

 あ、と茉莉花は振り返った。

 なるほど。五百年続いた四宮の結界の本体。それを探し出して新しい結界の中心に据えることができれば、東京は白炎以前の霊力バランスに戻る。闇の能力者たちの勢いを削ぐこともできるだろう。

「でも‥。本家の問題に、境界の場所から干渉するわけにはいかない。」

「方法はあるさ、きっと。」

 玲はにやっと微笑った。


 磯貝要は退院して本家に戻ってきてからずっと、些細な違和感が気になっていた。

 今日も蔵の中で精霊たちの昔話を聞きながら、何かがおかしいと感じていた。

「なぜ浮かない顔をしているんだい‥? 恋の悩みか? だったら聞いてやろうじゃないか。こう見えても昔は多くの人間の女を(たぶら)かしたものさ。」

 役者もどきの法螺(ほら)話は割り引いて聞くに限る。

「そんな暢気な話じゃないんだよ‥。おまえたち、何か感じないかなあ? 俺が怪我する前と今で、何となく違うように感じるんだけど‥。」

「そりゃあねえ‥。結界ができたものね。違うに決まってるよ。」

 蛇の目傘がいつもの芸者姿で出てきて、まだ包帯の取れない左手を痛そうに見遣ってそっと撫でた。

「うーん‥。いやそうじゃなくてさ。この蔵の中だよ。違っているというか‥足りないと言うか‥。」

「ああ‥足りないのではありませぬか、ご主人さま。」

 蛇の目傘に対抗するかのように白菊が現れ、慎ましく袂を口に当てて半身で右の肩にしなだれかかった。要はそちらへ顔を向け、訊ねる。

「足りない‥? 何か知ってるの、白菊?」

 蛇の目傘がぷんとふくれて、袂で左腕を包みこんで(すが)った。両手に花状態だが、精霊は重みがないので、今一つ実感がない。

 白菊はわざと蛇の目傘を見ないようにしながら、要の耳に口をよせ、はい、と囁いた。

「姫鏡さんが‥‥毎日蔵の外を、出歩いているのです。何でも、姉上さまの気配が消えたとか。心配して探しているようでございますよ。」

 蛇の目傘がそうそう、とうなずいた。

「あの子、生き別れの姉さんがいるとか言ってたねえ‥。百五十年前は当主さまのお部屋に住んでたんだけど、目覚めてから居場所が解らないって‥。母屋と一緒に消えちゃったんじゃないかって思ったけどさ、そうとも言えないしねえ。」

 白菊が負けじと言い募る。

「でも何度か、微かだけれど姉上さまの気配がするって喜んでおりました。けれど本家の大結界が張られた日‥物の怪の気配と一緒に消えてしまったそうで‥。」

 あの鏡。鬼門に封じられていた妖力の気配が濃すぎて解らなかったが、呪符の貼られた鏡はもしや、単なる鏡ではなく姫鏡の姉だったのだろうか。

「どんな形状か、知ってるかい? 白菊。」

 白菊は嬉しそうにはい、と答えた。

「姫鏡さんと大きさは同じほどで、背が朱塗りではなく黒漆塗りなのだそうでございます。代々、当主の持ち物だとか‥。」

 蛇の目傘がつんと怒って、要の頬をつついた。

「ちょいと、要。白菊だけに名前をつけるなんて公平じゃないよ。あたしにもつけておくれな。」

「蛇の目さん。わたしはご主人さまを呼び捨てにしたりはいたしませぬ。その差ではありませんの‥?」

 役者もどきがにやにや笑いながら、いよっ、色男、とヤジを飛ばした。

「ちょっと待って‥。名前は呼んでほしい名前があれば受けつけるけど?」

「あたしゃ、新しいのがほしいのさ。このカマトト女みたいにね。」

 睨まれて白菊はまあ、と悲しそうに要の肩に顔を打ち伏せた。

「じゃ、明日までには考えておくから、機嫌直して‥。それより姫鏡の行方を探すのを手伝ってくれないか? ‥他のみんなも、よかったら手伝ってほしいんだけど。」

 ここにいる精霊たちは、本家敷地内ならば自由に動ける。それに本体を置き去りにしてさまよっている姫鏡は、要と精霊たちにしか見えないのだ。

 奥でのそりと大黒さまが動いた。七福神の大黒像の精霊だ。

「‥‥精霊遣いどの。あの小娘が心配と見ゆるが‥なぜじゃ? 心ゆくまで姉御を捜させてやればよかろうに。」

「確かじゃないけど、姫鏡のお姉さんは‥悪い人間に(さら)われてしまったのかもしれないんだ。もしも姫鏡が同じ目に遭ったりしたら、たいへんだからだよ。」

「そう考える理由があるのかえ?」

 役者もどきが珍しく真面目な顔で訊ねる。

 要はうん、とはっきりうなずいた。

「だから‥お願い、みんな手伝ってくれ。」

 蔵の中は騒然となった。


 姫鏡は夕暮れの中を歩きくたびれて、暗い池の前にひっそりとたたずんでいた。

 池は本家敷地の東端にあった。姉の気配はどうしてもここで途切れる。蔵に戻らなければいけない時刻だと解っていたけれど、立ち上がる気にはなれない。姉がどうなってしまったのか―――自分が眠りに入った百十年前から現在まで、いったいどうしていたのか。姫鏡はどうしても知りたかった。

 春先に龍笛に姉の消息を訊ねてみたことがある。少なくとも百十年前は、龍笛と姉は同じ姫さまに仕えていたからだ。しかし龍笛は必ずしも当主に仕えると決まっているわけではないし、現在の龍笛はまだ生まれ変わったばかりで幼い。昔日の記憶の細部まで思い出せるほど、成熟してはいなかった。

「先代の泉さまはそもそも手鏡をお使いになっていなかったと思うけど‥? どこかの蔵でまだ眠っているのかもしれないわね。要くんに探してもらえば?」

 あの時素直に新しい精霊遣いに探してもらえばよかった、と姫鏡は唇を噛む。前のご主人さまに比べて少々お人柄が軽そうだ、などと生意気な感想を持ったのがいけなかった。

 悲しくて悲しくて、涙がほろほろと袖にこぼれた。

 姫鏡の憶えている最も古い記憶は、百五十年前の主人に姉と二人で抱えられていたところから始まる。

 彼はとても優しいまなざしを向けて、大事ない、案ずるな、とふた言だけ囁いた。

 付喪(つくも)としての姫鏡と姉はともに何らかの罪を犯したようなのだけれども、浄化し、罪を許し、魂を残してくれたのは当時の四宮の一の姫で、頼んでくれたのは前の主人だ。

 それから精霊として四宮本家と契りを交わし、数年が過ぎた。主人が一の姫の婿になると決まり、婚姻のしるしにと姉は姫の側仕えに贈られ、姫鏡は主人の手元に残って、姉妹は離ればなれとなった。

 でもほんとうに別れたのは主人が亡くなって、他の精霊たちと一緒に蔵で眠りについた時だ。

 その後、姫が亡くなった時に姉は手文庫の中で眠りについたようだと龍笛は教えてくれた。けれどそれきり再会したことはないと言う。龍笛自身がその後姿や声を聞き取ってくれる人間に会えなかったので、ほとんどを本体の中で過ごしていたせいもある。

「やっと懐かしい気配を‥感じたと思ったのに‥。」

 噂では先日本家に立ち現れて、新しいご主人さまを襲った物の怪は鏡であったそうだ。

 胸騒ぎはどんどん大きくなる。龍笛が退治(たいじ)たそうだから、もしもその鏡の物の怪が姉であったなら龍笛には解っただろう。訊いてみようかと思う反面、怖くて訊けない。

 しかし百五十年の間に何があったか解らないけれど、四宮本家に仇をなすなど―――しかも精霊遣いを襲うなど、四宮の精霊であるならばできるはずがなかった。龍笛に退治られるまでもなく、本体に刻まれた誓約印が反応して滅せられてしまうはずなのだ。

 何もかも解らない。姫鏡には理解できないことばかりだ。

 その時、背後に誰かが立った。

「あの‥‥。姫鏡さん?」

 振り向くと気配を抑えた黒髪の男が立っていた。人ではないけれど―――姫鏡には何者か正体をつかめない。

 男は髪と同じ色の優しい瞳をほっと緩ませて、よかった、とつぶやいた。

「無事だったんですね。鏡が利用されて滅せられたと聞いたので‥。もしやあなたかと思って‥。」

 それから彼は振り向いた姫鏡の涙を見て、心配げに眉をひそめた。

「どうしたんですか? まだご主人さまを探してるの?」

「あの‥‥。あなたは誰? わたしをご存知なのですか‥?」

 男は驚いたふうに眼を見開き、微かに妖気を漂わせた。伽羅の香りがする。

「春に会った人じゃない‥? そっくりなんだけど‥そう言えば着物の色が違う‥。ん、気配もちょっと違うか‥。」

「春‥?」

 姫鏡が首をかしげた時、彼女を探す声が聞こえた。蔵のみなが探しているらしい。

 男はあ、とつぶやいて妖気を消した。そして姫鏡を振り向いて、ぺこりと頭を下げ、立ち去ろうとした。

「お待ちくださいませ。あなたはどなたですか‥。どうかもうしばらくお話を‥。」

「俺は‥決して本家に敵対するモノじゃないですけど、本家にいてはいけないんです。姫鏡さんの姿を見て、つい声をかけちゃって‥ごめんなさい、もう行かなきゃ‥。」

 姫鏡は腕に縋って、こっち、と東南の方角を指さした。

「お願いします。こっちに蔵があるので、そこでもう少しだけお話を聞かせてくださいませ。あなたが会ったのはたぶん、わたしの姉なんです。黒地の着物でしたでしょう?」

「姉‥?」

 姫鏡は男を強引に引っぱっていくと、古びた人気のない蔵の陰に身を潜ませた。

「あの‥。あの人たちはあなたを探してるみたいですよ? いいんですか?」

「わたしは‥双子の姉を探しているのです。百十年前に別れたきりの‥。どうしても逢いたくて‥。」

 再びこぼれてきた涙を袂で拭いながら、姫鏡は必死に頼んだ。

「どうかお教えくださいまし。春にあなたと会ったという、わたしにそっくりの姫鏡はいったい誰を探していたのでしょう?」

「‥ご主人さまだと言ってましたよ。精霊遣いさんなら執務棟近くにいると教えたんですけど、彼女のご主人は違うそうで‥。一年近く会えなかったのにやっと気配を感じ取れたから、向かう途中だと‥。嬉しそうに微笑んでいました。」

 男は眉間に皺を寄せて、うつむいた。

「その時俺は主人(マスター)に命じられた用事の途中だったので、それで別れたんですけど‥。てっきり姫鏡さんのご主人ていうのは、瑞穂さんか早穂さんだろうと勝手に思っちゃったし。どうやら‥違ったみたいですね。」

 では姉は自分より早く現世で目覚めていたらしい。いったい誰を主人と仰いでいたのだろう?

 不意に一迅の風が舞い上がり、姫鏡と男を包んだ。蔵の戸が鍵もないのに、ガタン、と開く。真っ暗な空間が風ごと二人を吸いこんだ。

 わっ、と悲鳴が聞こえて自分もきゃっ、と叫んだ。

 気がつくと蔵の床に尻餅をついていて、扉は閉まっている。隣の男の視線の先へ目を遣ると、一段高い長持の上に胡座をかいてこちらを見下ろしている男がいた。

「ど‥どなたですか‥?」

「名を訊ねるならおのれからと決まっているものだ。おまえはどうやら‥四宮に仕えるモノのようだが‥そちらの男は違うようだな。鬼人の血を引く半妖とみたが‥違うか?」

 ―――鬼人?

 姫鏡は隣の男の一見優しげな風貌を、恐る恐る眺めた。

 彼はうつむいたまま、曖昧に首を振る。

「違うと思います‥。俺は‥鬼人の残留霊力から生まれたモノで‥。人としての形は現在の主人(マスター)から借り受けました。人間から生まれたわけじゃないんです。‥あの。あなたは四宮家の方ですよね? 霊気が瑞穂さんとよく似ているので‥。」

「瑞穂? それは四宮本家の者か。」

「はい、当主さまです。俺は瑞穂さんの妹の花穂さんに、返せないほどの恩義があって‥。決して本家に敵対するモノじゃありません。」

 彼は目の前の着流しに総髪の男に対して畏まり、非常に丁寧な口を利いている。

「ふん‥。確かにそなたからは敵対する意志も邪気も感じられない。だが‥ここが四宮本家敷地内で間違いないなら、何ゆえそなたはいる? 主人(マスター)とやらの意志か?」

「はい‥。現在本家には敵がいて‥どうも同じ敵が主人(マスター)の命も狙っているようなんです。今日ここへ忍びこんだ理由は、内通者がいるかどうか確認するようにと命じられたからです。それから‥先日、こちらでおきた物の怪騒ぎで鏡が滅せられたと聞いたもので‥。以前面識のあった姫鏡さんの無事を確かめたくて‥。」

 着流しの男は切れ長の瞳でまっすぐに姫鏡を見た。それから男へ視線を戻す。

「‥‥内通者は見つけたか?」

「いえ。春に本家が襲撃を受けた時には傀儡の術が遣われたのですけど、傀儡の術の気配は残っていません。でも怨霊召喚術の焦げついた臭いは、二箇所見つけました。術者の気配は本家の人たちの誰とも違います。内通者はやはり人ではないのかもしれません。」

「人でないとすると四宮に仕えるモノか? それはあり得ぬな。四宮に仕えるモノは主人に仇をなせば、契りの証しが身を焼くのだ。‥それはそなたの考えか?」

「いいえ。俺は‥考えるのは苦手で‥。感じ取ることはできるんですけど。」

 ふふ、と着流しの男は微かに頬笑んだ。

「なるほど‥。本家は危機にあるのだな。だからわたしは眠りから覚めたわけか‥。そちらの鏡の精霊。四宮本家がこの地に大結界を張ってより何年経った?」

「わたしは‥百五十年前にこちらへ仕える身となっただけで‥。知りませぬ。申しわけございません。」

 姫鏡は床に頭をすりつけて平伏した。

 隣の半妖の男との会話を聞いているうちに、どうやらこのお方は身分の高いお方のようだ、と姫鏡の単純な頭にもしみこんできたからだ。

「やれやれ‥。まあ、仕方がない。わたしも今は残像しか持たぬ身だ、そんなに畏まることもないよ。」

 着流しの男は苦笑いを浮かべ、ふと視線を蔵の扉へ向けた。

 蔵の外で声がしている。姫鏡を案じて呼んでいるようだ。

「おまえの‥主人かな? 人の気配だ。」

「あ‥はい。ご主人さまです。」

 見知らぬ男二人と蔵にいる現状では、頼りないとばかり思っていた主人の声が心の底から慕わしい。姫鏡はほっと安堵して、微かに頬笑んだ。

「他にもぞろぞろいるな。みな、おまえを案じているらしい。‥ちょうど良い、おまえの主人だけ招じ入れて詳しい話を聞こう。‥そなたはどうする? 本家の者に見つかってはまずいのであろう?」

 着流しの男は冷徹な視線を隣へ移した。

「はい‥。お許しいただければすぐに去ります。ですが‥あのう‥。」

「何か?」

「よろしければ‥あなたのお名前とご身分をお教えいただけないですか‥?」

 着流しの男はじっと半妖の男を凝視した。やがて微かに頬笑むと、うなずいた。

「これも何かの因縁であろうよ。そなたが名を示せば、わたしも教えよう。」

「あ‥すみません。俺は‥白崎健吾、といいます。」

「そうか。わたしはね、四宮 (ひかる)という。京より江戸の地に下り来て大結界を張った本家初代、四宮 燁子(あきらこ)の双子の弟だよ。それ以上は今は言えないが、悪く思うな。」

 半妖の男は大きく頭を下げると、ありがとうございました、と答えて瞬時に姿を消した。

 驚いている姫鏡ににっこり微笑むと、四宮煕はすわりなおした。

「では‥。おまえの主人を招こうか。」


 戻ってきた健吾の話を聞いて、玲はびっくりした。

「ちょっとした下調べのつもりだったのに‥。すごい大物が出てきちゃったね。だけど考えようによっては‥本家の結界のほうはこれでたぶん片がつくんだろうな。」

「‥そうなんですか?」

「うん。だって初代の弟ってことはさ、去年崩壊した結界についてよく知ってると思うんだよね。危機だから目覚めた、みたいなこと言ってたんだろう? たぶん初代が遺したセーフティネットなんだろう。きっと瑞穂ちゃんにアドバイスしてくれるはずだよ。」

 玲はノートパソコンを広げたアンティークの書物机に頬杖をついて、横目で画面をのぞき見た。

「問題はこっちだな。内通者はいないとなると‥やっぱり人でないモノが利用された可能性が高い。」

 健吾は悲しげに顔を曇らせた。

「やはり‥あの、春に会った姫鏡さんが利用されたのでしょうか‥。主人に呼ばれたって、あんなに嬉しそうだったのに‥。」

「‥誰かが彼女の主人になりすましたんだろうね。」

「俺には解らないですけど‥。俺が主人(マスター)や茉莉花さんを間違えるなんて絶対ないと思うし‥。桜さんだってそうでしょうから。」

 玲はにこっと笑った。

「健吾は花穂ちゃんだって間違えないよね、絶対に。でもそれは健吾の力が強いからなんじゃないかな? 弱くて儚いモノは、たとえば真宮寺森彦が人間を欺くために使ったあの仮面みたいなものでも、惑わされてしまう場合があるかもしれないよ。」

「確かに‥。そうかも。では、真宮寺以外にあの仮面を作れる人間がまだいたんでしょうか?」

「いる可能性は否定できない。禁術マニュアルに載ってるかもしれないし。‥それともう一つの可能性。この間ノワールはね、茉莉花と茉莉花のお兄さんを間違えたって言うんだ。茉莉花のお兄さんには霊力はない。でも魂の気配は兄妹って似るものらしいし、その時ノワールは俺から長いこと離れてたから弱ってたんだって。姫鏡も一年近く主人と離れてたならかなり弱ってたよね、きっと。そこで似た気配の人を見つけたら、主人だと思いこんでしまうんじゃないだろうか。‥どう思う、健吾?」

「‥弱っていたでしょうね。それにあの日は、傀儡師だけでなく分家からも多くの人が本家内に入ってきてましたから、かなり混乱もしていたと思うし‥。すぐに保護してあげればよかった‥‥。」

 健吾は唇を噛んで、悄然と肩を落とした。

「仕方がないよ。あの時はこっちも余裕がなかったし。」

 心優しい友人兼 下僕(しもべ)の肩に手を添えて、玲は一生懸命力づけた。

 いったい誰に似てこんなに情が深いのだろうと不思議な気分になる。

 もとになった白炎はもちろん、姿形を提供した玲もどちらかと言えば非情なほうなのに。玲が失っている分、健吾に優しい気質が偏ったのかもしれないと思えば、ちょっと複雑な気分だ。

「しかしだいたいの構図は見えてきたな‥。人間のほうは鳥島さんの追加捜査を待つとして、あとは専門知識が不足してるか‥。」

 独り言をつぶやいて、玲は画面を凝視した。

 隣からのぞきこんで、健吾は微かにうなずく。そこには船上接待を受けた客の姓名や日付の他に、肩書や地位と動いた金額が一覧表になっていた。

「それにしても、なんで本家を乗っ取ろうとするんでしょうね? お金儲けならこのままで十分じゃないんでしょうか‥。」

「うーん。無知だからじゃないか?」

「無知?」

「四宮本家と、『御霊の会』教団がやってる薬漬けの胡散臭い商売の違いが理解できないんだよ。より格上の場所にはより大きい権力と金が動いている、としか見えない。だから欲しいわけ。しかもどういう事情かは知らないけど、身の程知らずに輪をかけるような禁術マニュアルみたいのを手に入れちゃったんだな。で、錯覚してる真っ最中。‥‥まあ、こんな(やから)はどこにでもいるし、どの世界でもよくある話なんだけど‥。」

 玲は琥珀色の瞳をきらめかせて、冷笑を浮かべた。

「破滅へ向けて早めに誘導してやろう。いずれはそこへ向かう連中なんだから、犠牲者が少ないうちに背中を押してやる。‥‥って俺が言ってたってのは茉莉花には内緒。愛想をつかされちゃうからね。」

 健吾は曖昧に微笑し、うなずく。

「じゃ階下で専門家の意見を聞こうか。本家の結界についても安心させてやりたいし。」

 一覧表をプリントアウトしながら振り向いた玲に、健吾は今度ははっきりとした明るい笑顔を見せた。

主人(マスター)はほんとに茉莉花さんが大切なんですね。‥主人(マスター)にとっての生きる理由ですか?」

「生きる理由ね‥。て言うよりね、健吾。」

 排出された紙を一枚一枚揃えて、玲はくすぐったそうな顔で笑った。

「堂上玲っていう人間はさ。この世で『懐古堂』以外とは縁を結んでいないんだ。」

 本心があるとすれば―――これが本心。玲は淡々とそう考えた。

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