第六章
一週間ぶりに店の外へ出た茉莉花は、すっかり夏らしくなった日ざしに眼を細めた。
白鬼の事件からそろそろ一年になる。早かったと言えば早かったけれど、あまりに多くの出来事があって茉莉花自身の身辺もかなり変化したので、正直まだ一年しか経っていないのかという気持ちも実感だ。高校に通っていた頃の自分は、遙か遠い記憶の彼方にある。
今日は咲乃と待ち合わせて、いつものようにショッピングとランチの予定だった。
玲に告げたら、桜を連れていけと言われてしまった。
「大丈夫よ。桜はあなたのほうにこそ必要だし。彼女は‥まだついてくるんでしょう?」
「そっちは健吾がいるから大丈夫。‥桜は君と一緒にいたいんだよ。ね、桜。」
はい、と桜は神妙な顔でうなずく。
「それに‥ノワールがちゃんとやっているかも心配ですし。どうかお連れくださいまし、姫さま。」
桜に頼まれれば嫌とも言えない。
そこで久しぶりに二人きりで出かけてきたけれど、桜の力が一年前に比べて格段に強くなっているのをあらためて感じた。姿があどけない童女のままなのは、玲がそう望んでいるからだろう。
「ご主人さまは、ほんとうはご自分もご一緒したかったのですよ、姫さま。」
桜は茉莉花の肩に乗って、ちょっと寂しそうにそう言った。
「そうなの‥? じゃ、今日は仕事じゃなかったのかしら?」
「はい。鳥島さまをお訪ねするおつもりだとか‥。あの女性を何とかしないと、姫さまと一緒にお出かけするわけにはいかないからと嘆いておられました。」
ああ、と茉莉花は吐息をついた。
「困ったわね‥。わたしが安定しないせいであの人を調べられなくて‥。元の怨霊を滅するのがいちばん早いと思うんだけど‥。」
「そうでしょうか‥。あのお人はご自分から進んで、おぞましいモノを背負っているのではないでしょうか?」
「自分から進んで‥?」
「はい‥。うっかりつけられてしまうような、弱い方には見えませんでした。あんなモノを身につけているせいかもしれませぬが‥心の中が真っ暗です。」
ふうん、と茉莉花は考えこんだ。
「‥‥瞞されているのかもしれないわ。」
「瞞されて、ですか?」
「そう‥。彼女は‥幸運のお守りとか願いのかなうパワーアイテムみたいなつもりで、くっつけて歩いているのかも。」
川井春奈は玲のあとを一時間ほどついて歩くだけで、それ以上は特に何もしないのだそうだ。ただ玲の身につけていたシャツやジャケット、ブレスレットなどと同じ物を、次にはどれか一点必ず身につけているとかで、ある意味不気味と言えなくもない。
もしかしたら本気で、毎日のように偶然が起きていると思いこんでいるのかもしれない。それが怨霊の雫のおかげと信じているとしたら、放っておけばもっとエスカレートしてしまうのではないだろうか。いや既にエスカレートして、他にも危険な行為を繰り返しているのだとしたらたいへんなことだ。
「どうにかしなきゃね‥。普段の借りを返すためにも‥何とか、彼女を救う方法を考えないと‥。」
「姫さまは‥あのお人をも助けたいのですか‥?」
桜は不思議そうに茉莉花を見上げた。
「瞞されているのなら‥何とかしたいと思うわ。交渉屋の範囲だもの。」
「ですけれど‥あのお人は邪気の臭いを発し始めておりましたので、そろそろ夜鴉一族のパトロールに目をつけられていても不思議ではありませぬ。もう手遅れでございましょう。ご主人さまがまきこまれぬよう、お護りするのが精一杯かと‥。」
「そう‥‥。」
再び吐息をついた。
どちらにしろ、自分にはもう手に負えないようだと思えば悲しい気分になる。
彼女は彼女なりに玲を好きなのだろうに。どうして『好き』の気持ちが困らせたり危険な目に遭わせたりするしかない状況に至ってしまったのだろう?
「いっそのこと瑞穂さんに頼んで、怨霊を祓ってもらうのがいいかもしれないわね。」
茉莉花の鈴では救えないのならば、龍笛の刃で徹底的に落としてもらうのが後腐れなくていいかもしれない。瑞穂は―――玲のためなら躊躇なくするだろう。
不意に桜は涙をこぼして、茉莉花に抱きついた。
「‥‥そんなに悲しい顔をなさってはだめです。ご主人さまは‥姫さまをとても大切に想っておられますよ。お信じくださいまし。」
「桜‥‥?」
茉莉花は戸惑いながらも、微笑んでみせた。
「うん。解ってるから‥。心配しないで、桜。」
桜は潤んだ瞳で安心したように微笑んだ。その頭を撫でてやりながら、茉莉花は溜息をそっとのみこむ。
解ってるっていったい何をだろう? 自分が何を迷っているのかさえ明瞭ではないのに、どうしたらこれ以上彼に借りを作らずに生きていけるかなど解るはずもない。ただ一つだけ解るのは、玲には茉莉花は必要とは思えないというくっきりとした事実。
いつのまにか待ち合わせのコーヒーショップに着いていた。
比較的空いた店内で、咲乃は奥のボックス席に座っていた。最近短くした髪が流行の髪型にきれいにセットされて、涼しげだ。
茉莉花は声をかけようとして、咲乃の前に座っている人影に目を留め、思わず眉をひそめた。そこには八ヶ月ぶりの、兄の無愛想な顔があった。
目を上げて茉莉花に気づいた薫は、軽く片手を上げて合図した。
「どうして‥兄さんがここに‥?」
「開口一番、それかよ? しばらく、とか元気だった、とか‥。普通はそんな感じじゃねーの?」
「あ‥。そうね、ごめんなさい。」
茉莉花は咲乃の横に腰を下ろして、ぷいと横を向いた薫の顔をまっすぐ見た。
「そのう‥。みんな変わりない? お父さんやお母さん、それから了も。」
元気だよ、と薫はぶっきらぼうに答える。いつものことだがそれきり会話は続かない。
咲乃が慌てて、とりなした。
「あのう‥。今日茉莉花さんと会うからって、お兄さんを誘ったのはあたしなの。勝手なことしてごめんなさい‥。」
茉莉花は咲乃を振り返り、いえ、と手を振った。
「こちらこそ‥‥」
お世話かけてと言いかけた時、咲乃のバッグから黒いモノが茉莉花に向かって飛び出てきた。嬉しそうに茉莉花の喉もとにすがりつき、桜に頭をすり寄せている。鈴が微かにころんころんと鳴った。
「ノワール‥! こんなところで猫になっては、咲乃さまにご迷惑ですよ。ちゃんと姿を消せるでしょう?」
「‥桜しゃま、姫しゃま‥! 会いたかったでしゅ‥。」
桜の説教など聞いていない様子ではしゃぎまわるノワールを横目で見て、茉莉花は微笑んだ。ノワールはちゃんと務めを果たしているようだ。
気がつくと薫の視線がじっとノワールを向いている。
「兄さん‥。この子はね、あの‥。」
「知ってる。この間も見たから。おまえんとこの猫なんだって?」
「まあ‥そうなんだけど。」
「この間ね、ノワールったら薫さんを茉莉花さんと間違えて出てきちゃったの。」
咲乃の弁明に茉莉花は苦笑した。
ノワールの力では間違えても無理はない。ノワールは玲と離れているせいか、また片言に戻っているようだ。一度里帰りさせたほうがいいかもしれないと茉莉花は思った。
「ノワール。ちゃんと役目を果たしておりますか? 咲乃さまの御身をつつがなくお護りしているでしょうね?」
「はい、桜しゃま‥。咲乃さまに敵意を持つ人間は、近づけていましぇん。」
空いた席で、桜がノワールに懇々と心得を言って聞かせた。ノワールは畏まって聞いている。
薫がそちらを不思議そうに見た。
「おい‥。猫のやつ、何、独り言喋ってるんだよ?」
茉莉花のほうへ身を乗りだして小声で囁く。
「兄さんには見えないけれど、ノワールにとってはお姉さんみたいな守護精霊がそこにいるのよ。」
「‥‥堂上さんの? 今日は茉莉花さんと一緒なのね。」
咲乃の問いかけに、茉莉花はやや口ごもる。
「ええ。その‥。ノワールを心配してついてきたの。」
「へえ‥。そこにいるの? 茉莉花さんには見えるのよね? あたしも会いたいなあ‥。鳥島さんは一度会ったことがあるって言ってたけど、可愛い女の子なんですってね。」
咲乃は無邪気に微笑んだ。
ふと気づくと、薫の視線が冷ややかに茉莉花に注がれている。
「堂上っていうのは‥おまえがつき合ってるとかいうヤツだよな? そいつもおまえや咲乃さんみたいな力があるわけ?」
茉莉花はしぶしぶ答える。
「いいえ‥。生まれつき守護精霊がついている人なの。それで精霊の力で、人ではないモノも見えたりするだけで‥。普通の人よ。」
「ふうん‥。つき合ってるのは否定しないんだな?」
「‥‥どうして知っているの?」
「了が見かけたって‥。茉莉花がピンクのワンピースなんか着て、男と手繋いで歩いてたってさ。親父なんか目が虚ろになっちゃって、たいへんだったぜ?」
頬杖をついてそっぽを向きながら、薫もしぶしぶといった表情で答える。
茉莉花は真っ赤になった。
咲乃の目の前で、手を繋いていたなんて言われては―――逃げ出したいほど恥ずかしい。
横目でそんな茉莉花の顔を見ていた薫は、ますます不機嫌になった。
「親父の夢に、祖父さんが出てきて‥。前世からの縁だから邪魔するなって言ってたらしいけど。心あたり、あるか?」
「まあ‥なくもないけれど。」
祖父が後押ししたのだから、なくもないどころではない。
咲乃は遠慮がちに黙っている。
「それで兄さんは‥お父さんたちに訊いてこいって言われたの?」
「別に。母さんも了も暢気だから、全然心配してねーし。親父は祖父さんに夢で釘刺されたんで、及び腰だしさ。俺は‥‥俺が訊いてるんだろうが。何、訊き返してんだよ‥!」
薫は小さくどなった。
茉莉花は肩を竦める。兄との会話は結局いつもこの調子だ。
ふと人影が隣に立つ気配がした。顔を上げると、派手な身なりの背の高い女性が茉莉花を昂然と見下ろしていた。
「あの‥何か?」
どこかで見た顔だ、と思いつつ訊ねると、彼女は顔を思いきりしかめた。
「あなたね、誰か知らないけど、あたしの行くところ行くところ邪魔しに出てくるの、やめてくれない?」
「‥‥は?」
茉莉花は目をしばだたいた。
桜がさっと身構えて、結界で茉莉花と咲乃を包みこむ。
―――姫さま。このお人です、ご主人さまをつけ回している‥。
「‥川井春奈さん?」
桜の言葉を引き取る形で思わず口にすると、女は憎々しげに睨みつけた。
「やっぱり、あたしを知ってるのね! この‥化け物女! 森彦を‥あたしの婚約者をどこへやったの? ヘンな術で誑かして‥。あんたが来るまですごく優しかったのに、来た途端おかしくなっちゃったのよ! しかも堂上くんまで‥!」
彼女は興奮した顔で、一気にまくしたてた。
「あたし、翌日気になって見にいったの。そうしたらあんたが、あたしの初恋の人と出ていくじゃない? 冗談じゃないわ、あたしに呪いをかけてるの? ほんとうは人間じゃないんでしょ。」
薫が色をなして立ち上がり、女にくってかかった。
「おい! 俺の妹を化け物とは何だよ? おまえのほうが化け物みたいな顔してるくせして!」
川井春奈とおぼしき女は、何ですってエ、と薫に向き直った。
「妹? じゃあ、あんたも化け物なの? この女はね、あたしの婚約者だった人を誑かして行方不明にしちゃったのよ? あたし、見たんだから‥。視線をずらすだけで、棚のガラスが粉々に割れて‥。」
桜の守護結界のおかげで邪気の臭いはさほど感じないが、背中の怨霊の雫は既に雫とはいえないほど大きくなっている。まるで真っ黒な穴が開いたようだ。
咲乃は真っ青になって震えていた。
「ま‥茉莉花さん‥。あの人の背中‥。」
「あまり見てはだめ、咲乃さん。取り憑かれてしまう。ノワール、咲乃さんを護って。」
茉莉花は鈴を微かに鳴らしながら、結界を強化し、兄のほうへと広げた。
確かにこの状態では、話して解るとは思えない。春の時点では桐原森彦が自分を殺そうとしていたと理解できていたはずなのに、記憶が妄想と置き換わってしまったらしい。
「兄さん‥。店を出ましょう。咲乃さんも‥。」
「ちょっと待ちなさいよ! なんであたしの邪魔をするのかって訊いてるのよ!」
「誤解です。」
春奈の喚き声で、店内は騒然となった。店の奥からマネージャーらしき男が慌てて出てくる。
「あの‥お客さま、他のお客さまのご迷惑になりますので、どうかお静かに‥。」
薫はたまりかねた様子で春奈を指さし、マネージャーに示した。
「この女が突然喚きだして、うちの妹を化け物呼ばわりしたんだ。悪いけど、警察呼んでくれませんか?」
「け‥警察ですか?」
「そう。警察。‥いいや、俺が電話するから。おい、言うだけ言い散らして逃げるなよ、そこのバカ女!」
警察と聞いた途端、春奈はくるりと背を向けて小走りに逃げていった。
チッと舌打ちして薫は、その後ろ姿を睨みつけながら携帯をポケットにしまった。おろおろしているマネージャーにもういいよ、と断って、茉莉花の腕を引っぱって歩き出す。そして店外に出てから、茉莉花に問い質した。
「何だよ、あの女は‥! 普通じゃないぞ? おまえいったい、どんなヤバいことに関わってるんだよ?」
「‥あの人には怨霊がついているの。でも‥わたしにはもう、どうにもできないわ。」
茉莉花はうつむいて小声で説明した。
「堂上ってヤツのせいなのか‥? あの女が言ってたじゃないか。」
茉莉花は首を振って、溜息をつく。
「それは逆‥。わたしのせいで‥彼を危険にまきこんでいるのよ。」
それから兄の顔を正面からまっすぐ見つめ、腕をほどいた。
「兄さんも‥お願いだからわたしには構わないで。あんなふうに、明らかに異常な人とわたしのために争ったりしないで。黙って知らない顔していてほしいの。まきこみたくないから‥。」
薫は一瞬だけたじろいで、それから息を止めたみたいな真剣な声で言い返した。
「バカ言うな‥。妹が罵られてて黙ってるなんてできるかよ?」
「でも、まきこんでしまうのよ。わたしは‥それが辛いの。」
「関係ねーよ。こっちの気分の問題なんだ。俺の気持ちがすまないんだから。‥妹のくせに兄に意見してんじゃねーっての。」
薫は茉莉花の腕をつかんで、苛立たしげに揺すぶった。
「祖父さんの言うには‥おまえを護ってくれるヤツが現れたって話だったぞ? なのにそいつはどこにいるんだよ? ‥茉莉花、家に戻ってこい。一人で意地張ることなんかないんだから。」
茉莉花は何とかきっぱりと兄の腕を振りほどくと、黙って首を振った。
薫はいっそう苛々した表情で、バカ、とつぶやいた。
「ごめんなさい、兄さん。わたし‥帰るから。咲乃さんをよろしくね。‥咲乃さん、ごめんなさい。また。」
どうやら茉莉花へターゲットが移ったようだった。咲乃までまきこんでしまわないうちに帰ったほうが良さそうだ、と判断して、茉莉花は咲乃に頭を下げた。
咲乃は何となく理解したようで、大きくうなずいた。
「おい‥‥茉莉花、ちょっと‥!」
戸惑ったような兄の声を背に、茉莉花は桜と『アスカ探偵事務所』の方角へ向かった。
『アスカ探偵事務所』の応接室で、玲は突然現れた茉莉花と桜を見て驚いた。
茉莉花は軽く息を弾ませて入って来るなり、玲の顔をまず最初に見た。
それから健吾を見て、最後に鳥島に挨拶する。
興奮した様子の桜が飛びついてきて、茉莉花が口を開く前に事情を詳細に語ったので、玲は何が起きたかを知った。
「‥‥大丈夫?」
「わたしは‥何ともないけど。でもあの人はもう‥救える段階じゃないみたい‥。」
玲は冷ややかな微笑を浮かべた。
「君さえ無事なら、どうでもいいよ。」
「‥‥冷たいのね。」
「おかげさまでね。無駄な感傷は持たない主義だから。」
茉莉花の顔が一瞬強張ったように感じたのは気のせいだろうか。
つい手を伸ばして軽く指を握る。真夏の最中、外から来たばかりだというのに、茉莉花の指はひどく冷たかった。
―――心の問題、か‥‥。
『おおかた予想はつく』と市之助は漏らしていたが、玲にも彼女が何を迷っているかは想像できる。ここのところの茉莉花は自分の存在を持て余しているように見えるからだ。
以前黒鬼が、茉莉花の霊力の本質はそのモノの本来あるべき状態へ戻す、あるいは保つ力だと言っていた。ならば茉莉花が常に感情を抑えているのは、自分の霊力の性質に添って生きるための必然だろう。玲はそう理解している。
―――でも素の彼女は情に流されやすくて、けっこう繊細なんだけどな。
時折フラッシュのように脳裏に浮かぶ、ころころと笑い転げる少女の映像が、よけいにその思いを強くさせる。
生まれる前に置いてきてしまったという魂の半分が、もしも玲の考えるように前世の無邪気な笑顔と関係があるならば、彼女の迷いが何であるかは解るつもりだ。問題はどうやって―――探し出せばいいかだった。
正直なところ、玲にとって目下の関心は茉莉花が元気になることで、川井春奈はどうでもいい。公衆の面前で茉莉花を化け物女と誹った、などと聞けば無関心を通りこして腹立たしい限りだし、彼女が自ら招いたこのままでは闇に喰われて夜鴉の餌だという状況だって、玲としては手間が省けてちょうどいいくらいだ。
しかし茉莉花がなぜか放っておけないというのなら―――玲は吐息をのみこみ、凍りつきそうなほど冷たい指を掌で包みこんだ。
「とにかくさ。一緒に鳥島さんの話を聞こうよ。俺たちも着いたばかりで、まだろくに聞いてないんだ。‥‥決めるのはそれからじゃない?」
茉莉花はうなずいて、安堵の微笑を―――たぶん玲の他は誰も微笑とは気づかない程度の微笑を浮かべた。何て可愛いんだろう、とついつい握った手に力が入る。
追加の冷茶を持って入ってきた鳥島は、しっかり繋いだ手にちらりと視線を走らせ、すぐに見なかったふりをした。静かに腰を下ろし、フォルダを取りだしてテーブルに載せる。
「依頼の件は川井春奈の身上調査及び、彼女の所属するオカルト系サークル『MITAMA』の調査だけだったわけだが‥。これが意外と奥があってね。とりあえずここ数日で解ったところを報告するよ。」
川井春奈は高校卒業後、特に定職についていないにもかかわらず生活は派手だった。
実家はサラリーマンの父と専業主婦の母、持ち家以外の資産は特にない。長身と美貌を活かしてモデル事務所に所属してはいるが、売れているとは言えず、母親は『御霊の会』教団に入れあげて、ここ二年であらかたの貯金を使いつくしたうえ、高額の借金を負っていた。春奈が大金をぽんぽん消費できる理由は一見したところ見当たらない。
「ところがね‥。ひょんなところで彼女の名が出てきた。」
「ひょんなところ?」
「『メルサ』だよ。『メルサ』の船上接待って聞いたことないか?」
「‥‥オーナーの噂の裏稼業だろ? まさかそっちで稼いでるのか?」
玲は不快さを隠せずに眉をひそめた。
「裏稼業‥‥?」
茉莉花が玲の顔を覗きこんで訊ねた。
麻薬だよ、と繋いだ手のすべすべした指をさらりと撫でて答えた。茉莉花にはそれ以上詳しくは聞かせたくない話だ。
従業員の間でひそやかに囁かれるオーナーの裏稼業とは、上顧客対象個別接待でカモフラージュした麻薬売買だ。表向きの営業とは全然関わりなく、スタッフも店の従業員とはまったく別、しかも船上接待すべてが怪しい取引の場というわけでもないようで巧みに混ぜこまれているらしい。ただ聞く限りではそこでもオーナーは顔が見えず、麻薬取引はもっぱら数人の若い女性がベッド上で行う、とのことだった。
「『メルサ』のオーナーは本名も素性も不明で、暴力団とも繋がってない。去年ベティが漏らした船上接待って言葉から、ここ二年の船上接待の記録を調べられるだけ調べてみたら、乗船名簿のコンパニオンの中に川井春奈の名前が頻繁に出てきたんだ。報酬はキャッシュ、税務署には届けられていない。」
鳥島は淡々と続けた。
「薬の仕入れ先は恐らく坂上に違いないんだが、明確な証拠はない。怪しげな接待の船客名簿にはずらりと各界の大物が並んでた。客同士の接触は避けてるらしくて一回についてひと組ずつ。標準一泊二日の湾内クルーズで表向きは百万から三百万だが、陰ではどうやら千万単位の金額が動いた形跡がある。」
「形跡?」
「船上ではキャッシュで動いているけど、用意する側には出金記録が残るだろ?」
「‥‥どうやって調べたの?」
「全員の裏付けが取れたわけじゃないが‥二、三人は何とかね。方法は話せないな。」
玲はすごいね、と素直に感心した。
「警察に脱税容疑で川井春奈を引っぱってもらって、そこから手繰るって道はない?」
「たぶんできない。というのはね‥。乗船記録に何度か小橋一也の名前があったんだよ。」
「小橋‥一也? 誰?」
「警察庁長官官房室審議官。現在四宮潰しの先頭にいる男だ。昨夏までは四宮史から巨額の賄賂を受けていた疑惑がある。その金は更に、何人もの政治家や官僚へばらまかれたようだけどね。‥彼のおかげで『御霊の会』教団は潰れずにすんだ。」
鳥島はたとえば、といくつかの名前を上げ、腹立たしげに説明した。
玲は皮肉な口調で応じる。
「ふん。不正な金を不正に環流させてるわけだ。ま、ある意味正しい使い方だな。」
「環流?」
「いったん懐に入れた金を餌として撒いてるってこと。で、権力を得る。ますます金が集まってくる。」
茉莉花の疑問に玲は肩を竦めて答えた。
鳥島は軽くうなずき、話を進めた。
「乗船名簿の疑わしい名前は、半分以上『御霊の会』教団の信者でもある。それから川井春奈が所属していたネットサークル『MITAMA』も教団の関連サイトなんだ。加えて‥桐原事件の六人の被害者は全員、教団信者だった。」
「教団は完全に生き残ってるわけか。それじゃ教祖はどうなってるの?」
玲の質問に鳥島は、にやっと笑った。
「笑っちゃうよ。名義はまだ葛城真生になってるんだ。三代目がいるのかと思いきや‥幽霊らしいよ。教団は幽霊の集まる場所らしい。」
「幽霊?」
茉莉花と玲は同時に声を上げて、顔を見合わせた。
「教祖は声だけで誰にも顔を見せないそうだよ。更に『MITAMA』の主宰者は‥大胆にも四宮史を名のってる。妖し封じ元締め四宮本家第二十七代当主って、プロフィールにもちゃんと書かれてるんだ。」
「それって‥変更されてないだけ?」
「いや。サークル自体、昨年の十一月に立ち上げられた新しいものだから、初めから騙りだろう。葛城は死亡届が出せなくて七年待たなきゃならない状態だけど、四宮史は戸籍上ちゃんと死亡になってる。本家が知ってるかどうかは不明だが、あの健気な三姉妹の気持ちを考えると腹立たしい限りだよ。」
鳥島は顔をしかめた。
「先日、警視庁特殊能力捜査課の刑事が来たと話しただろう? 彼らに『メルサ』の調査記録と坂上久志の現在情報とを提供して、『御霊の会』教団についての情報を求めたんだけどね。サークル『MITAMA』に関して気になる情報をもらったよ。秘密裡に怨霊を召喚する方法を売ってるって話。」
そう言って鳥島は磯貝刑事から聞いたという話をした。
玲は呆れ返った。怨霊召喚術を百万で買った女というのは、恐らく川井春奈で間違いない。
しかし茉莉花はうつむき加減で、やっぱり、と小さくつぶやいた。
「やっぱりって‥何が?」
「怨霊をラッキーアイテムと勘違いしてるんじゃないかって‥桜と今朝、話したの。」
「それにしたって、信じられないほどのバカだな。」
「そうかしら‥? その時の心の状態次第では誰でも陥りやすい罠だと思う。悪質よ。」
確かにそんなモノを売りつける側は紛れもなく悪質だろう。危険を承知で高額で売りつけているわけだから。
「まあ‥そうかもね。四宮本家の名前を騙っているあたり、更に悪質だし。‥だけど誰でも陥るとまでは言えないよ。彼女は何を望んでそんなモノに手を出したんだろうな?」
「あなたを振り向かせられると信じたのでしょう? 呪うつもりじゃなかったはずよ。」
「でも最初に偶然会った時はもう背中につけてたんだよ? 六月の初めにさ。」
「そうじゃなかったのよ‥。さっき言ってたの。四月の事件の時に、桐原邸であなたを見かけたんですって。初恋の人だそうよ。」
茉莉花はこちらに向き直って、繋いだ手を離し、真剣な顔をした。
「六月は最初から、怨霊の力を借りてあなたの場所を突きとめたんだと思う。偶然じゃなかったの。」
玲にはますます理解できない。
「そこまでするかな‥? いや、数千円程度のお守りなら買ってみるかもしれないけど、百万も出しておぞましいモノを手に入れてさ、たかが中学の時の初恋の相手に会いたいと思うものかなあ? 鳥島さん、どう思う?」
鳥島は苦笑した。
「普通は思わないけどね。ただ‥川井春奈は母親の借金で苦労してるから、桐原との婚約は恐らく財産目当だったんだろう。『メルサ』の裏仕事が楽しいはずもないしね。なのに玉の輿をつかんだと思ったら瞞されてただけで、自分を助けて窮地に陥った茉莉花さんを迎えに来たのは、偶然にも初恋の相手だった。惨めで悔しい気分が逆恨みに変わるのはよくある話だ。その後堂上玲の資産状況を調査会社に依頼して調べてたようだし、嫉妬と玉の輿願望と両方だろう。」
「俺を調べてた‥?」
「そう。身上調査みたいなのをされてるぞ。株式会社アンジュの代表取締役社長。資産総額は‥‥」
「恥ずかしくなるからやめてくれ。‥つまり金目当てか。」
玲は冷然と茉莉花を振り向いた。
「ほらね。怨霊なんか平気で呼び出す人間は、動機だってそんなもんなんだよ。無邪気な純愛なんかじゃないわけ。‥‥それでも君は助けたいのか?」
「‥‥助ける方法があるのなら。それにどっちにしても、いちばん危険な状況にいるのはあなたなのよ?」
「俺なら心配しなくても、平気で他人を犠牲にできるって知ってるだろう? 君がリスクを負う必要はないんだよ。」
茉莉花は下を向いてちょっと考えたあと、そうね、と力なくつぶやいた。
「そうだったわね。うちの依頼人ではないんだし、わたしが首を突っこむのは‥かえってよくないんでしょうね。‥でもわたしが心配なのは、四宮史さんを名のっている人は‥傀儡事件にも関わっていたと思うから、川井さんを利用してあなたに呪術を発動したのじゃないかということ。」
玲はにこにこっと微笑んで、もう一度強引に彼女の手を握った。
「そんなに‥俺が心配? 背中がぞくぞくするほど嬉しくなっちゃうな。」
「‥真面目に話しているのだけど。」
「俺もだよ。」
茉莉花は呆れ返った顔で少しの間凝視していたが、しばらくして無言のまま視線を鳥島のほうへ移動した。無視するつもりらしい。
「鳥島さん。その、史さんを名のっている人は誰なのか、解らないんですか?」
鳥島はこぼれかけた笑いをかみ殺し、慌てて真面目な顔を取り繕って答えた。
「まだ解らない。教祖と同一人物なのかどうかも含めて現在、警察が調査中だ。ただね、術に関してはかなりの知識を持ってるようだから、四宮を破門された霊能力者という線もある。」
「‥‥売られていたという召喚術の詳細は手に入りませんか?」
鳥島はUSBメモリを取りだし、茉莉花ににこっと笑いかけた。
「コピーしてもらってきた。入手経路は明かさない約束でね。‥実は最初から茉莉花さんに見てもらおうと思ってたんだ。」
印刷してもらった召喚陣と術法をじっと見ていた茉莉花は、しばらくして深々と吐息をついた。
「これは‥十五日の四宮本家に仕掛けられた召喚陣と同じです。陣の中心に置いたものに怨霊が依り憑き、呪符によって召喚者の式神となる。違うのは物の怪の封印陣に上書きされたものではないので、妖力はありません。いくらか危険度は下がります。でも‥」
茉莉花はぐっと厳しい表情になった。
「修法を身につけていない人が術を行うこと自体、とても危険なんです。理屈どおりに怨霊を式神にできる人などまずいないでしょう。しかも依代には自分の体の一部を使うようにと書いてありますね? これでは怨霊を使うのではなく、取り憑かれるための術になってしまいます。川井さんがこの通りに実践したのであればその場で取り憑かれたはずですけど‥現在の彼女の状態から推測する限り、素直に従ったわけではないようですね‥。」
「それは‥どういう意味だ?」
茉莉花は鳥島の視線にまっすぐ振り向いた。
「川井さんの背中に憑いているのは怨霊そのものではなくて、怨霊の雫‥一部分だったからです。術を行ったのは間違いないでしょうが‥彼女は自分ではなく別の人に怨霊を下ろしたのでしょう。たぶん‥血縁者で近しい存在。家族の誰かでしょうね。」
「家族に怨霊を取り憑かせたっていうのか‥? よくもそれで二ヶ月も平気な顔して歩いていられる。」
わずかに怒気を含んだ鳥島の声に、茉莉花は静かに答えた。
「平気ではありません。今日見た川井さんの背中には真っ暗な闇がぱっくりと口を開けていて、邪気の腐臭が漂い始めていました。偶然につけてしまった場合、怨霊の雫があそこまで育つには早くても数年かかるのが普通です。なのにたった二ヶ月で‥。もって十日、早ければ数日のうちにあの人は自分の心の闇にのみこまれて‥暴発するでしょう。」
「暴発って俺に向かうんだっけ。どこまでもはた迷惑な女だな。」
玲は軽い嘲笑で片づけた。茉莉花の物言いたげな視線を制して、先に口を開く。
「大丈夫、健吾に一緒にいてもらうから。ね?」
隣で健吾もうなずいた。
「主人は俺が絶対、護りますから。安心してください、茉莉花さん。」
玲には不審な眼を向けたくせに、茉莉花は健吾の言葉にはあからさまにほっとした顔を見せた。ちょっと引っかかるけれども今はのみこんで、玲は言葉を継いだ。
「そっちはともかくとして‥。同じ術が遣われたのならさ、サイトの主宰者ってのはやっぱり四宮本家を狙ってる人間と同一人物と見て間違いないね。金に汚いって特徴から考えると小橋一也って警察官僚か‥あるいは『メルサ』のオーナーか。」
「能力者の可能性が高いって事実はどうなる?」
「それは問題ないよ。‥これを記述した人間と公開した人間が同じとは限らないだろ?」
玲は手元の印刷された文書を眺めながら、答えた。
「よく見て。これはワープロ文書をPDFファイルに変換したものだけど、召喚陣の図表ページには下方に修正液でページ番号を消した痕があるもん。文章ページは一部分、文章の語尾が統一されてないから、きっと新しく入力し直したんだろう。‥ずさんな仕事だよね。茉莉花に解説してもらった術の緻密さと全然かみ合ってない。思うに術を考案した人間は別人だよ。もしかしたら本来は目的が違ったんじゃないのかなあ?」
茉莉花は神妙な表情でうなずいた。
「四宮本家で研究していた術だという可能性。考えられなくもない‥。」
「だとしたらこのサイトの主宰者が四宮史を名のっている理由も解るよ。稼ぐだけ稼いだら、あとは四宮に責任をなすりつければいいって猿知恵だな。」
玲はちらりと鳥島を見て、先ほどから気になっていたことをためらいがちに切りだした。
「ねえ‥鳥島さん。さっき坂上の現在情報って言ってたけど‥。坂上は帰国してるの?」
鳥島はああ、と渋い顔をした。
「‥『メルサ』に数回顔を出してるようなんだが、それ以上は解らなかった。警視庁ならあいつの海外住所も資産の隠蔽場所も調査可能だろうから、預けてきたんだよ。‥それよりさっきのあんたの推理だがね、サイトの主宰者が小橋か『メルサ』かってのは‥ちょっと腑に落ちないな。」
「‥そう?」
「その二人は坂上も含めて、そもそも怨霊も物の怪も頭から信じちゃいないんだ。でもサイトの主宰者は信じてると思うね。何て言うか‥まがいものを売ってるって言うより、得意になってひけらかしてる印象を受けるよ。」
「なるほど‥。偽教祖と同一人物って可能性も無視できないし、やっぱり禁術遣いの一味か四宮本家を破門された中級以下の能力者って線が濃厚か‥。」
玲がそう答えた時、茉莉花の声がやけに静かに響いた
「あるいは‥‥人ではないモノかもしれません。」
四宮瑞穂は執務室で三橋明人からの報告を受けていた。
目の前には参考資料として、使いこんだ紙ファイルが置いてある。瑞穂はページをぺらぺらとめくりながら、眉間に皺を寄せて吐息をついた。
「‥‥確かにここにある組み合わせ術は、先日の物の怪騒ぎの術と似ているわね。組み合わせる術の選び方、構成方法がそっくり。緻密で丁寧な性格が顕れているわ。」
瑞穂は顔を上げて、三橋の心配そうな顔を見た。
「これを‥‥お父さまが?」
「はい‥‥。史さまは中級レベルの能力者でも、上級レベル並みの効果を生み出せる方法を整備しようとなさっておられて‥。まだ実験段階でしたが、いろいろと試行させておられました。泉さまはあまり賛成ではないようでしたが、特に否定もなさらず、好きにすればいいと‥。」
確かに誰にでも向く技術ではない。自分のしていることがはっきり理解できる人間でなければ、能力に見合わない結果をもたらす術は両刃の剣だ。
一方で父の意図は理解できる。四宮の能力のシステム化を進め、統制の取れた強力な能力者集団を作りたいのは瑞穂も同じだった。
「それで‥。お父さまに言われて試行の先鋒に立っていたのが‥椎名なのね?」
「はい‥。椎名はむしろはりきって研究していました。」
再び深い吐息をつく。
「‥‥椎名から目を離さないで。一人で出かける時には必ず、誰かに尾いていかせるのよ。どこの誰と接触するか、確認してちょうだい。」
三橋は暗い面持ちではい、と答えた。




