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第四章

 磯貝要は生来暢気にできている。

 自分でも少々持て余し気味だったその性分が、今回ほど役に立ったと思ったことはない。

 何しろ目が覚めた時には、左腕の肘から先がなくなっていた。骨も神経も筋肉も完全に潰れていてどうにも修復しようがなく、壊死(えし)が始まっていたため切断せざるを得なかったそうだ。

 深刻な表情で説明する医師に、要ははい、と答えただけだった。

 それから医師が退室したあとで、ふうっと溜息をついた。

「左手か‥。右利きでよかったな、俺。」

 息を詰めて見守っていた母と祖母はぐっと脱力して、顔を見合わせ、ふふ、あはは、と声を立てて笑い出す。

 それで初めて二人に気づいた要は、あれ、いたの、と振り返った。

「いたの、じゃないでしょ。(ゆずる)から連絡受けてすっとんできたのよ。そしたら手術中だとか言われて‥。いったい何やってるの、あんたは。」

 母は機関銃みたいにまくしたてた。この叱言も二年ぶりだと思えば、まあまあ我慢できる。その背後でおっとりと物静かな祖母が、涙を拭っていた。

「何って‥仕事だもん。ちょっと失敗しただけだよ。」

「仕事って‥。あんたの仕事は犬の世話と蔵の掃除じゃなかったの? 譲と(しのぶ)からはそう聞いてるけど?」

 まあ兄たちの評価はそんなものだろう。想定内だ。

「蔵‥。そうだ‥! 今日は何日?」

 ベッドの上でいきなり起き上がった要に、母はぎょっとした顔をした。

「十九日だけど‥?」

「たいへんだ‥。蔵の連中の世話が‥。きっと怒ってるな、わがままだから‥。」

「要‥。あんた、頭、大丈夫? まだ麻酔が切れていないから‥。」

 そう言えば細いカテーテル管がまだ体につけられている。

「ああ‥。これ、いつ取れるのかな? さっさと退院しなくちゃ‥。」

 思ったより痛みがなくて、体がぼうっとだるいのは麻酔のせいかと今更ながら気づく。

 四日も経ったというのにほとんど記憶がないのも、麻酔で眠っていたせいだろう。夢だけは何だかひっきりなしに見ていたなあ、と考えて、その夢の中で必死に瑞穂に頭を下げて謝っていたのを思い出した。

「そうだ‥。お嬢さまに報告しなくちゃいけないんだけど‥。お祖母ちゃん、お祖父ちゃんに連絡取れない?」

 要しか見ていないはずの、あの魔法陣と呪符について瑞穂に告げなければいけない。

 母と祖母は再び顔を見合わせた。

「‥お父さんは仕事中に電話すると怒る人だからねえ‥。」

「仕事だってば。瑞穂お嬢さまにすぐに知らせなきゃいけない大事な話があるんだよ。」

「あんたが‥‥?」

「そう。すぐ連絡してよ。‥それからお母さん、紙と鉛筆、用意して。」

 やはり右利きでよかった。逆だったらとても目にした紋様を描けない。

 病室から祖母が気の進まない顔で電話をかけている間に、要は母にもらった紙にぎこちない手つきで何枚も陣と呪符の紋様を描いた。曖昧な記憶が次第にはっきりしてくる。母はそんな要を不思議そうに見ていた。

「驚いた‥。要が目を覚ましたと言ったら、それだけですぐに瑞穂さまが直々にお見えになるって‥。」

 祖母の当惑した声に、母はえっ、と叫んだ。

「瑞穂さまが‥ご自分で?」

 ええ、と祖母はうなずく。

 母はまじまじと要を見た。

「じゃ‥お父さんの言ってたのは妄想じゃなくて‥ほんとにこれが重用(ちようよう)されてたの?」

 声をひそめているつもりらしいが丸聞こえだ。いくら親でも『これ』呼ばわりはないだろう、とちょっとムッとした。

 しばらくして病室を訪れた瑞穂に、要は描き上げた図を見せ、呪符が焦げついていたことを報告した。瑞穂は厳しい表情で聞いていたが、静かにうなずいて、ゆっくり休むようにと告げて病室を去った。


 それから三日後、要はリハビリ病院への転院を断ってさっさと本家へ戻った。

 失った左手のせいでいろいろと不便なことも多かったが―――たとえば歩く時にバランスを崩すので早足ができないとか、箸と茶碗を一緒に持てないとか―――明日から七月という現在、元気に犬の世話と蔵の掃除をこなしている。まだ薬の服用と週に一度の通院は義務づけられているものの、自分の感覚では大したこともなく、他の人の同情的な視線にはむしろ戸惑っているくらいだ。

 要のいない間、メリーとリッキーの世話は瑞穂が自らしてくれていたそうだった。

 だが四宮のおかれている状況はあまりよくないようで、あの日出席していた小橋審議官に、本家敷地内で魔物が出た不始末の責任をどう取るつもりかと、瑞穂は強く責められたらしい。

 瑞穂はむろんにべもなく、警察庁に責を問われる筋ではないと一蹴したそうだが、さすがに本家衆だけでなく分家一門、傘下の能力者たちも冷たい視線を送ったようだ。本家の能力に難癖をつけて警察庁がしゃしゃり出るのを望む者など、通常ではまずいない。

 昼食のあとで本屋敷の新しい執務室へ来るよう伝言を受けた要は、久しぶりに瑞穂直々の指導だと思い、春いらい肌身離さず持ち歩いているノートを持って本屋敷へ向かった。

 ノートにはあれから一生懸命聞き出した、精霊たちの特性や生まれた年代などが記してある。彼らは物として生まれた年代はまちまちだったが、精霊となった年代は同じだ。そのままでは単なる付喪(つくも)だった彼らを、およそ百五十年前の先代の精霊遣いが四宮に仕えるモノとしたそうだ。

 この聞き書きを作成している時、白磁の香炉の精霊から切々とした訴えがあった。

 彼女は白菊の小袖を身につけた黒髪の楚々(そそ)たる美女で、特別誂えのお香を焚いてもらわないと妖力を遣えないのだと言う。お香を焚いてほしいという彼女の涙にほだされて、要は昔の記録から調合のレシピを探し出すと、東京じゅうの香道家を訪ね、やっとのことで調合してくれる人を探して何とか彼女のお香を手に入れてあげた。

 香炉の精は感激して、それ以来要のことを主人と呼んで仕えてくれるようになった。

 ちなみに要をご主人さまと呼んでくれるのは、今のところ白菊と名づけた彼女ただ一人だ。それでも大きな進歩には違いなかった。


 執務室に入ると、いたのは瑞穂だけではなかった。いつものように祖父と椎名悟、それから椎名と同年の三橋(みはし)明人(あきと)他幹部数人がいた。兄の譲と忍もいる。

「遅くなりまして‥すみません。」

 会議だったのかと恐縮して頭を下げると、瑞穂は珍しくいたわるように微笑んだ。

「いいのよ‥。ほんとうはまだ、病院にいなきゃいけないのに悪いわね。要くんの代わりは誰もできないから。」

 瑞穂の言葉に兄たちが疑わしげな顔をする。顔色には出さないが、三橋たちもたぶん同様だろう。何しろ四宮の精霊は、霊力のある者にさえ姿が見えないからだ。

 どちらにしてもまだ彼らを使いこなせない半人前の精霊遣いでは、役立たずと同義だと自分でも思うから、軽く扱われても全然問題ない。三人のお嬢さま方がちゃんと理解してくれているだけでも、実家より本家のほうが断然居心地がいい。

 控えめに大丈夫ですと答えて、瑞穂の言葉のその先を待った。

 瑞穂は全員に座るようにと告げて、ゆっくりと慎重に話し始めた。

「では本題に入るわね。まずは警察庁から四宮本家を外部委託機関として承認したいとの申し出があった件。何でも予算をつけてくれるそうよ。」

「委託、ですか‥。協力ではなく?」

 忍がぽつりとつぶやく。

「そう。平たく言えば傘下に組みこんでやるから有難く思えって恩着せがましい話。事後報告になるけど、即、断りました。従って今後、警察庁との繋がりはなくなるのだけど‥。椎名と三橋にはその場合、どれくらい活動に支障がでるか予測してほしいの。それに関しては磯貝、事務方は最優先で全面協力してね。」

 瑞穂は厳しい顔で命じた。皆が一様にうなずく。

「何しろ、警察庁はこの機会に四宮を掌握する気なの。霊力が権力闘争の道具にされたらどんなひどい状況になるかは想像できるでしょ? だから断ったけど、当然今度は潰しにかかると思うわ。四宮の掟は一般人を霊力で攻撃してはならないと定めているから、少々回りくどいやり方しかできないけど、とにかくこの先は警察庁に一方的に責難(せきなん)される状況を作るのをなるべく回避したいの。交渉が必要ならば、交渉の材料を集めることもしなければね。‥そこで要くん。あなたの配下の精霊に情報探索の任務をさせたいのだけど、遣える子はいる?」

 いっせいに視線が集まって、要は緊張した。

「‥‥具体的にはどのような任務になりますか?」

「そうね。とりあえず、青山参事官に気づかれずに小橋審議官の身辺を探って、有り体に言っちゃうと弱味を握ってほしいの。嫌な役目だけど、たぶんあの人は山ほど後ろ暗いところがあるはずだから。どう、できそう?」

「‥‥やってみます。まだそう多くは遣えないので‥当面小橋審議官一人でもいいでしょうか‥?」

 自信は全然ないけれども、いろいろな意味で危機感は十分にある。

 瑞穂は軽くうなずいて、それでいい、と答えた。そして話を続ける。

「次は、十五日の物の怪騒動。‥古い記録を調べてくれたかしら、譲くん?」

「あ‥はい。お嬢さまに言われたとおり、二百年前の記録を調べたところ、確かに本家敷地内の鬼門にあたる場所へ、守護のために妖しを封じたとありました。封じたのは当時の当主を中心とした五人の術者で‥ここに写してきたんですけど、これが封印の陣の模写です。‥要の描いたのとは全然違っています。」

 譲が掲げてみせた陣はお手本として教科書に載っているような、定番の四宮式封印結界陣だった。

「更に記録によれば‥封印されたのは、もとは人だったそうで‥。」

「‥人?」

「はい。『旗本 野上(のがみ)某の次男清二郎と申す者、鬼に心を喰われて魂を失くす。妖力のみの存在と成り果てり。ゆえに鬼門に封じ、災い転じて福と成す』そう書いてありました。」

「‥‥鬼に心を喰われて‥魂を失くす。妖力だけの‥存在‥。」

 瑞穂はうつむいて、噛みしめるように譲の言葉を繰り返した。

 磯貝が気遣わしげな目を向け、お嬢さま、とそっと声をかける。瑞穂は顔を上げ、大丈夫、と笑顔を見せた。

「‥‥その記録が正しければ、鬼門に封じられたのは心を持たない妖力だけなのね。二百年も経っているわけだし、とっくに形は留めていないでしょう。」

 それから瑞穂は要の描いた陣を広げてみせた。

「これは要くんがあの物の怪の足下で見た陣。中心には‥呪符があった。要くんが目撃した呪符は半分陣に吸収されたあとだから、こんな紋様だけど。恐らくこれはこういう札だったと思うの。」

 瑞穂は要の呪符の図を見せたあと、自分の描いた呪符を出してみせた。要はもちろん、兄たちもちんぷんかんぷんの顔をしている。だが椎名と三橋は顔色を変えた。

「これは‥葛城(かつらぎ)(しき)隷属(れいぞく)()‥?」

「うん‥。ま、葛城式隷属符は式神を使うなら誰でも当然遣う呪符だから、必ずしも葛城家の関与を示唆するものではないけど、真宮寺と四宮孝彦は葛城家の出身だったわね?」

「はい。春の事件では、葛城家はまったく関与していないと申し立てました。実際に姻戚とは言え、親密なつき合いどころか縁切りに近い状態だったことが判明しています。」

 三橋が答えると、磯貝老人が補足した。

「お嬢さま。先々代より分家同士の勝手な交流は厳しく禁じております。婚姻関係も本家の裁可を待たねば結べません。更に四家はそれぞれ、他の分家より一段高いと自負しておりますので、四宮の名さえ持たない葛城家など歯牙にもかけなかったと思います。」

「そう‥。じゃ、葛城は後にして。術の説明に戻ると、あの物の怪は本体が鏡だったの。椎名と三橋はもう解ってると思うけど、この陣は妖力を中心点に集中して呼びこむためのもの。そして中心には呪符を貼った鏡があった。つまり鬼門に封じられてた妖力を集めて物の怪もどきを作りだし、騒ぎを起こす目的だったのでしょう。」

「物の怪もどき、ですか‥? 物の怪ではない?」

 譲の質問に瑞穂ははっきりとうなずいた。

「ええ。本体は鏡で、陣の範囲内しか動けない影みたいなモノ。妖力は半端なかったけど、あの場所から動き回ったりはできなかったのよ。」

 椎名は首をかしげた。

「なぜ‥そんなことを? 騒ぎが起きればよかっただけですか?」

「目的はまだ解らない。でも肝心な点はね、椎名。あの場所に妖力が溜まっていると見抜いて仕掛けができるほど術に()けた能力者で、本家内部をよく知っている者だということ。蛇足だけど‥この仕掛けは禁術に近いの。封印の陣に上書きして妖力だけを吸い出す陣なんて、一つ間違えたら暴走しかねない危険な術だから。」

 三橋が思いきり嫌そうな顔をして言った。

「つまり、お嬢さま。本家内部にまだ禁術遣いの内通者が残っていると‥?」

「その可能性が強いと思うわ。そう何組も本家潰しを考えている禁術遣いのグループがあって、しかもその全部に内通者を送りこまれているだなんて思いたくないでしょ?」

「四宮 立夏(りつか)が‥全部喋らないのもそいつが残っているからですかね?」

 三橋の眉間の皺が伝染したみたいに、瑞穂の額にも皺がくっきり刻まれた。

「‥‥そうかもしれない。嫌な話ばかりで暗い気分になっちゃうわね。でも推測が当たっているとしたら、要くんは狙われたのかもしれないの。傀儡師に乗っ取られた時、要くんだけが糸をつけられなかったでしょう? 邪魔な精霊遣いを先に始末しておいて、再び禁術を行使しようと考えても不思議はないから。」

「えっ!」

 要は心からびっくりした。

「いや‥でもあれは‥。発動している陣のニメートル以内には近づくなという基本の教えをすっかり忘れて、呪符の紋様をのぞきこんでいたせいなので‥。」

 しどろもどろに言い訳すると、兄たちの呆れ顔が目に入った。

 椎名が微かに頬笑んだ。

「しかし‥要が基本を学んだばかりだというのも、本家の人間だけが知っていることです。分家をも含めて外部の人間は知らないはずでしょう。北家さんは別でしょうが‥。」

「どちらにしてもあの日にあの場所に仕掛けられる機会があったのは、内部の人間だけ。疑いたくはないけど‥つきとめなければいけない。糸がまだ残っている人がいるのかもしれないし。」

 瑞穂は全員の顔を見回して、お願い、と頼んだ。

「方法は任せる。早急に協力して、調べてちょうだい。」

 はい、と皆がうなずくのに合わせて、要もうなずいた。


「すみません‥四宮(よつみや)さん?」

 一次面接を終えた会社のロビーで、緊張のあまり疲れ切ってぼうっと座っていた咲乃は、不意に耳に飛びこんできた女性の声にはい、と勢いよく立ち上がった。

 声の主はどこだろうかと回りを見回す。

 するとすぐ脇で、びっくりした顔で立ち竦んでいる男女に気づいた。

 社員らしい女性は運転免許証を手に、傍らの男子学生と咲乃の顔を見比べて苦笑した。

「あなたも‥四宮さん?」

 咲乃の顔を見て訊ねる。はい、と咲乃がうなずくと、再び苦笑して、

「ごめんなさい。でも‥違うみたい。免許証を拾ったのだけど、こちらの彼のものだったみたいなの。驚かせてごめんなさいね。」

 と言って、男子学生に免許証を手渡した。

 勘違いに気づいて、思わず真っ赤になった。すみません、とぺこぺこ頭を下げると、男子学生はいえ、と無愛想に軽く会釈した。その顔を見て咲乃は再び驚いた。

「あ‥茉莉花さん‥?」

「は?」

 彼は思いきり不機嫌そうに顔をしかめた。

 またも咲乃はぺこぺこ頭を下げて、立ち去ろうとした。すると彼は咲乃の肩をつかんだ。

「ちょっと待って‥。茉莉花って‥四宮茉莉花?」

「ええと‥ごめんなさい。お友だちに似てると‥。でも女性なので、似てるなんて失礼でした、ごめんなさい‥。」

 咲乃は混乱して、自分でも何を言っているか解らない有様だ。とにかく相手がひどく怒っているようなので、失礼な真似をしてしまったのだろうとびくびくしていた。

「いや‥。その‥妹なんだよ。」

「‥え?」

「だから四宮茉莉花は俺の妹。」

「ま‥茉莉花さんのお兄さん‥?」

 そう言えば兄弟がいると聞いたような。

「茉莉花さんには‥いつもお世話になっています。」

 咲乃は三度(みたび)頭を下げた。

 彼は眉間に皺を刻んだままで、首をかしげた。

「それが‥不思議。あいつに友人がいるはずないんだけど。他人の世話なんか焼くタイプでもないし。あんたも四宮なんだよな? ってことは‥‥もしや本家の人か?」

「‥‥ええと。」

「違うよな。分家でも本家でも‥四宮の女が就活なんかしてるはずないし。‥あんた、ほんとは何者?」

 怖い顔でぶっきらぼうに問い質されて、咲乃はおろおろしてしまった。

「あたしは‥本家の生まれなんですけど‥。いろいろあって、今は本家と縁切り状態なので‥。それで困っているのを茉莉花さんに助けてもらったりなんかして‥。」

「縁切り? へえ。うちの(ひい)祖父(じい)さん以外でも本家と縁切りするような家があるのか。」「はあ、まあ‥。縁切りしたっていうより‥切られたって言うか‥。」

 咲乃は口ごもった。育ててくれた祖母と伯父に放逐されたとか、煌夜(こうや)と恋に落ちたせいで戻れなかったとか。初対面の人に話せる内容ではない。

 しかし彼は、咲乃の逡巡を別の意味に取ったらしかった。

「や‥ごめん。いきなり質問攻めにして‥悪い。妹とはもう半年以上も会ってないんで、友だちだって聞いてちょっと気になって‥。あいつ、元気にしてるかな?」

「はい‥。先週も一緒にショッピングに‥そのう、あたし、他に友人がいないもので、いつもつき合わせてしまって‥。」

「ふうん‥。あの。悪いけどさ、もう少し妹の話、聞かせてもらってもいいかな? どっかでお茶でもしながら。」

「え‥‥。いいですけど‥。」

「そっか、サンキュ。それで、名前は? 四宮、何?」

「‥‥咲乃です。四宮咲乃。」

「咲乃さんね。俺は四宮薫。」

 にこりともしないまま、彼はすたすたと先に立って歩いて行く。戸惑いつつ咲乃は、なりゆき上一生懸命小走りでついていった。


 コーヒーショップの奥のボックスで緊張して座っていると、薫が二人分のアイスコーヒーを持ってやってきた。

 茉莉花によく似た印象的な美貌は非常に目立っていて、店内にいる他の女性客がちらほらとこちらを振り向く。ところが本人はまったく気にしていないどころか、気づいてさえいないようだった。同じ無愛想でも茉莉花が物静かな雰囲気なのに比べて、薫はどこか猛々しい感じで、つい咲乃はおどおどしてしまう。

 黙ったまま咲乃の前にコーヒーをおくので、咲乃は礼を言い、お財布を取りだしてコーヒー代を払おうとした。すると薫は手振りで要らないと示した。

「はあ‥。じゃあ、ごちそうさまです。」

 そう言ってすするものの、何となく気まずい。だいたいが咲乃は人見知りが激しくて、初対面の人とは会話にならないのだ。だが目の前の薫は咲乃と違って、ぎこちない空気など全然意に介していないようだ。

「それで‥妹のことだけど。どこで知り合ったの?」

「どこでと言われても‥。あのう、薫さん、霊力のことは‥‥?」

 薫は首を振った。

「いや。そっち方面はさっぱり。」

「そうですか‥。じゃ、『懐古堂』のことは‥?」

「もともとが祖父さんの店だから名前は知ってる。やっぱそっちがらみでのつき合い?」

 はい、と咲乃はかしこまってうなずいた。

「あたしも昨年まで自分にそんな力があるって知らなかったもので‥。急にヘンなモノが見えたり襲われたりしてたいへんで‥。それで‥茉莉花さんに助けてもらってから、制御の仕方とか教わって、お友だちにもなってもらって‥。」

「‥‥襲われたりする?」

「あ、今は大丈夫ですけど‥。この猫も‥茉莉花さんちの子なんです。ほら、ここに『懐古堂』って書いた鈴をつけてるでしょう?」

 ノワールはぐんと伸びをして、テーブルの上にぴょんと跳び乗ると、薫の前にちょこんと座った。薫は驚いて体を引いた。

「ひえっ‥? 今までそれ、ストラップだったよな‥?」

「ノワール、だめ。人前でいきなり猫になっちゃ、驚くでしょう。」

 小さい声で叱ると、ノワールは首をかしげて不思議そうに薫を見た。

「あれ‥? 姫しゃま‥‥じゃない?」

「しゃ‥喋った?」

「ご‥ごめんなさい、この子、まだ幼いので‥。薫さんと茉莉花さんを間違えて出てきたみたい‥。ノワール、ほら戻って。」

 ノワールははあい、と返事をして咲乃にスリスリしてから、ストラップに戻った。

 薫はまじまじと咲乃のバッグを見ている。

「‥‥驚いた。初めて見た。そいつは‥物の怪ってヤツ?」

「本体は猫なんです。だから猫の姿の時は普通の人にも見えます。今は茉莉花さんに言われて、わたしの‥護衛についていてくれてるんです。」

「そうだ、それ。護衛ってさ‥。あんたも茉莉花も見えるだけじゃなくて、見えると危険なの?」

 気を取り直した様子で、薫は訊ねた。

「普通は‥見えたからって危険とは限りませんけど‥。今は本家がたいへんな情況なので、四宮の女だというだけで狙われたりするみたいなんです‥。」

「物の怪‥‥に?」

「いえ。今回は人間だそうです。‥あたし、事情がちょっとよくのみこめてなくて‥。」

「ちょっと待って‥。今回ってことは‥前回がある?」

「はあ‥。」

 咲乃はまずいなあと思いつつ、首をかしげた。

 薫は明らかに茉莉花の身を案じているようだ。茉莉花が何も言っていないのに、咲乃がだらだらと喋っていいとは思えない。

「あのう‥。ごめんなさい。あたしが勝手に喋っちゃいけないと思うんです。茉莉花さんは、ご家族をまきこみたくなくて家を出たんですよね‥? だから何も知らせていないのに‥‥あたしが言うわけには‥。」

 ぶっきらぼうな口調でそうか、とつぶやくと、薫はあっさりうなずいた。

「じゃあ、別の話。あいつ‥つき合ってる男がいるみたいなんだけど‥。知ってる?」

「あ‥はい。たぶん、堂上さんのことですよね‥?」

 咲乃はほっとして無邪気に答えた。

 ところが薫は身を乗りだして、ひどく険しい顔になった。

「やっぱりいるんだ‥。そいつってさ、どんなヤツ? 名前と年齢、職業は? どこに住んでるんだろう?」

 咲乃はたじたじとなった。

「ごめんなさい‥。名前は知ってますけど‥年齢と職業までは‥。住んでるのは‥‥」

 『懐古堂』と言いかけてやめた。さすがに鈍い咲乃でも直感的にまずい気がしたからだ。

「名前は‥堂上玲さんといって‥とてもいい方ですよ。‥茉莉花さんともすごく仲がいいですし。」

 咲乃の取りなしも虚しく、薫の顔は更に険悪になった。

「どうかな‥? 妹はだいたい世間知らずだから、男を見る目なんかあるわけない。」

 咲乃は曖昧に微笑した。

 これはだめだ。咲乃の下手な弁明では、玲のために何らかの効果があるとは思えない。

 どうしようかと困惑した結果、咲乃は茉莉花を呼ぶことを思いついた。

「あのう‥。薫さん、直接茉莉花さんに訊いてみたらどうですか?」

「‥‥直接?」

「はい。ずっと会ってないんなら、会ってみれば‥‥? あたし、電話しましょうか。」

 薫は微妙な表情を浮かべ、首を振った。

「‥‥顔見るとつい‥どなっちゃうんだよな‥。」

「え? なぜですか‥? そんなに心配してるのに。」

「だからついだよ、つい。心配が先に立って‥あいつの平然とした顔見ると、何だか無性に腹が立ってきてさ‥。」

 咲乃は呆気に取られて、気恥ずかしそうな薫の顔を見た。思わず微笑が浮かぶ。

 ―――まるで‥煌夜みたい。

 つと溜息がこぼれた。


 茉莉花はその頃、弐ノ蔵の前で呪術に関する文書をひっくり返していた。すると壱ノ蔵の奥から黒達磨の呼ぶ声がした。

「嬢ちゃん、嬢ちゃん‥。ちょっと来なせいやし。面白いモノがありやしたよ。」

「‥‥面白いモノ?」

 呼ばれるままに蔵の中へ入ると、黒達磨が手にしていたのは青いガラスでできた小瓶と煙管(きせる)のセットだった。

「ガラスの煙管って‥珍しい。」

「違いやすよ。煙管じゃありやせん。形を真似してあるだけでやす。こいつはシャボン玉でやんすよ。」

「シャボン玉‥‥? でも小瓶は空っぽよ。」

 黒達磨はにこにこしながら、茉莉花に手渡した。

「空っぽに見えるだけでやんす。吹いてごらんなせいやし、嬢ちゃんならきれいなシャボン玉ができやすから。」

 ためしに煙管みたいな管の先を小瓶に浸して、ふうっと吹いてみる。

 するとみるみるうちに大きなシャボン玉ができた。直径五十センチはあるほんのりと淡い桜色のきれいな珠が、ふわふわと蔵から漂い出て、薄暗い店の中を飛んでいる。

「何だか発光しているみたい。お店の中が明るくなったよう。‥‥達磨のおじさん、これは何なの?」

「嬢ちゃんの分身でやんすよ。正しくは霊力で作る嬢ちゃんの気配の分身、てとこでやすかね? 能力者に感知されたくない時なんぞに、惑わせるのに使うんでやす。」

「それは便利だけど‥。どうしてうちに蔵入りしてたの?」

「もとはぎやまん兎が持っていたんでやす。ぎやまん兎は壊れやすいうえに弱い生きモノでやんすから、生みの親のぎやまん吹きが持たせてくれたそうで。‥ぎやまん兎は月に昇るのが夢でやんしてね、彦市ちゃんが月夜見の迦具耶(かぐや)さまにお頼みして、月に上げてやっていただいたわけなんでやす。これはその御礼として受け取ったもんで。」

「きれいなお話ね。じゃ、ぎやまん兎さんは今も月夜見神社にいるの?」

「いや‥。確か迦具耶(かぐや)さまのお父上の神殿へ上げていただいたと聞きやした。‥ほら、夜空に輝いている、あのお月さんでやんすよ。」

 そうなのね、と返事をしながら、ふと気づくとシャボン玉はまだ飛んでいる。

「達磨のおじさん‥。これ、どうやって消せばいいのかしら?」

 黒達磨はくすくすと笑った。

「嬢ちゃん、シャボン玉でやんすよ? パチンと叩けば消えやす。」

 恐る恐る指先で弾いてみた。淡い桜色の珠はぷるぷると震えて、しゅわん、と消えた。痛いのではと思ったけれど、何ともない。

 黒達磨は壱ノ蔵の扉を閉めながら、心配そうに言った。

「これで少しは禁術遣いとやらを、惑わせられればいいんでやんすがね。」

「ありがと、おじさん。‥‥お礼に美味しい紅茶を淹れるわね。」

 茉莉花はゆるりと微笑んだ。


 茶の間で黒達磨とティータイムにしながら、今日は昨日みたいに意識を失うことはなかったなと思った。

 最初は突然意識が途切れた。まるで電灯のスイッチを消すみたいに。

 次のは闇に心を侵蝕される感覚だった。不意に恐怖を感じたせいで、自分の霊力が反作用したのかもしれない。

 たぶん店から出なければあんなことは起こらないだろう。ここは境界の場所。茉莉花の霊力がいちばん安定する場所なのだから。

 茉莉花は当分『懐古堂』も休業にして、閉じこもることにした。

 川井春奈の件が誰かの企んだ呪術でターゲットが玲であるならば、春の傀儡師事件に関わる禁術遣いの仕業に違いない。玲の身の保護は桜と健吾に任せ、茉莉花は今の自分にできることをするのだと胸に言い聞かせる。

 早穂がこっそり教えてくれた話によれば、本家に仕掛けられた術は封印結界に妖力を吸い出す陣を重ね書きして、呪符で物の怪の形を取らせるという禁術の組み合わせ技だ。

 まず封印結界の場所を的確につきとめ、その上に恐らくは物の怪ではなく怨霊の召喚陣をかぶせたのだろう。怨霊の召喚陣では、陣の中心に人の世での依代となるモノを置く。更に依代に呪符をつけて、式神となした。少なくとも三つの技を組み合わせている高度な術だが、問題はすべてが禁術であることだ。

 封印結界の場所をつきとめるには封印を施した者に教えてもらうか、その者の血が必要だ。二百年前の封印であれば術者は既に死亡している。とすれば直系の子孫の血を用いて探索する必要がある。本人の承諾なしで血を用いるのは当然ながら禁術。

 次に怨霊の召喚陣だが、これは言うまでもなく明らかな禁術だ。しかも封印結界陣に召喚陣を重ね書きする技は、よほどの上級者にしか許されない危険な術に分類されている。

 更に近代に入ってからは、人でないモノを召喚して式神と為すのも禁術となった。物の怪の召喚に危険が伴いすぎるとの見地からで、付喪や精霊、使役獣などを使うのは禁じられていない。

「傀儡の技といい、今回の禁術の勢揃いといい、禁術全書とかいうマニュアルが出回っていてもおかしくないわね。聞いたことない、達磨のおじさん?」

「そりゃ、ありそうなこってすな。禁術というのはいつの時代も興味をそそるもんでございやすからね。能力の高い者ほど、取り憑かれるもんでやんす。」

 黒達磨はすまして答えた。

「確かに‥。でも本家に仕掛けられた術の凄いところはね、おじさん。自分の霊力はそれほど必要じゃないってこと。精確な知識があって周到で緻密な計算ができれば、一般人レベルでも十分可能よ。発動のタイミングまで計算されているなんて、術者としてかなり手慣れている人だと思う。」

 茉莉花は紅茶をすすりながら、ふうっと吐息をついた。

「なぜそれほどの技術を‥良いほうへ使わないのかしら?」

「良いほう、とは‥どんなほうでやんす?」

「ん。たとえば‥妖気の溜まりやすい場所とかあるでしょ。そういうところへ、溜まりすぎたら放散してあげるような陣を組みこむとか。これだけの術力があれば可能なのに。」

「嬢ちゃんは面白いことを思いつきやすなあ? 何だか旦那に似てきたようでやんすね。」

「‥‥そうかしら?」

 玲のことは当面考えないようにしていたのに、黒達磨の言葉につい意識してしまった。

 何しろ昨日は自分から抱きついてしまった。しかもあとからよくよく思い起こせば、人混みのど真ん中でだ。

 いや、あれは急に気分が悪くなったせいであって別に照れるような理由ではないし、彼だって珍しくからかおうともしなかった。

 だから思い出して赤くなる必要は何もない―――はずなのだけれど。

 あの時感じた恐怖。今から思えば喪失感から来るものだ。茉莉花の霊力は二者択一を迫ってきているのだろうか。約束が果たされないのであれば呪いは自分へ帰る。

 そうであっても茉莉花は、茉莉花の気持ちは―――

 突然メールの着信音が鳴った。

 慌てて見ると咲乃からだ。内容を読んでみて驚いた。何と偶然、兄の薫と知り合ったと言う。

 ―――茉莉花さんをすごく心配していました。お節介と思うでしょうけど、できたら一度連絡してみたらいかがでしょう? 堂上さんのことをご存知で、とても気にしていましたよ。あたしからはほとんど話していません。

 なぜ兄が知っているのだろう? 茉莉花の結界はどうなっているのか。これも霊力が選択を迫っている証しなのだろうか。

 知らず知らず、吐息ばかりが出てくる。

「嬢ちゃん‥‥。何であれ、考えすぎないこってすよ。」

 黒達磨の温かいまなざしに、少しだけ楽な気分になった。


 自分のデスクで、携帯からサイトのメールボックスをチェックした男は、微かに眉をひそめた。

 女からのメールは苛立ちを隠さずに、三週間以上過ぎたのにいっこうに()の男が自分を振り向いてくれる気配がない、と不満たらたらの文句が並んでいた。それどころか最近はしばしば見失ってしまうのはなぜなのか、と。

 男は失笑した。ターゲットには『懐古堂』の四宮茉莉花がついているのだ。怨霊の雫を貼りつけたところで浄化されてしまうのは初めから解りきっている。

 ―――いい感じだ。このまま‥苛立ちが憎悪に膨らめば、必ず暴発するだろう。

 男は冷たく、初めの手順を間違えたせいで効果が薄いのだ、と女への返信を送った。

 これ以上の効果を望むのならば、自己流ではなく『御霊の会』教団へ出向いて教祖の力に縋るしかない。教祖に祈祷を願えば、必ず()の男が振り向いて話しかけてくるであろう。

 数分後に異様にテンションの高い、喜びと愚かしさにあふれたメールがきた。

 女は明日にでも教団へ出向くつもりらしい。教祖と面談の予約が取れた、と書いてある。

 男はしごく満足してサイトへの接続を切断した。

 ―――さて。次の餌を撒こうか。なるべく慎重にしないと‥。

 四宮本家を手に入れるには、当主の瑞穂を手に入れるのが最も手っ取り早い。

 だが瑞穂はどうしてなかなか侮れない相手のようだ。それでも少女は少女、信頼している者に裏切られていると知れば動揺するだろうし、猜疑心も湧くだろう。その隙をすかさずつく。

 物心ついた頃から常に、男の心中には四宮の女への憧れと憎しみがせめぎ合って存在していた。その四宮の女の中でも最上位の女を自分のものにするのだ。

 脳裏に四宮瑞穂のまっすぐな黒髪と凛とした瞳が浮かんだ。

 ―――あの瞳が恐怖に怯えて、泣きながら縋りついてくる様は‥さぞ美しいだろう。

 男はこみあげた微笑をそっとのみこんだ。

 

 その晩、咲乃は久しぶりに煌夜の夢を見た。

 煌夜は別れた時の顔で、咲乃、と名前を呼んだ。

「煌夜‥。あたしのこと、憶えてるの‥‥?」

「忘れるはずないだろう。おまえ、何寝ぼけたこと言ってるんだ?」

 咲乃は涙が止められなかった。あとからあとからあふれてくる。

「相変わらず泣き虫だな。‥そんなに俺に逢いたかったか?」

 うん、と咲乃はうなずいた。すっぽりと抱きかかえられて、あの懐かしい、圧倒されるほどの霊気に包まれて―――霊気が感じられない?

「そうか‥‥これは夢。あたしの‥願望なのね? ほんとに煌夜が帰ってきたわけじゃないんだ‥。」

「悪いな、咲乃。ちょっと用が長引いてる。だから体はまだ帰ってきてないんだが、意識だけでおまえの夢に入ったんだ。逢いたかったよ、俺も。」

「ほんと‥‥? でも‥いいんだよ、煌夜。あたしは大丈夫‥ちゃんと一人でもやってるの‥。いつまでだって待っていられるからね、煌夜がほんとに望むことをして‥。」

 咲乃、と煌夜は微笑んだ。

「おまえが待っていてくれると信じられるから‥俺は生きていける。いずれ必ずケリをつけて戻るから‥咲乃、それまで待っていてくれ。」

「煌夜‥。」

 咲乃は幸せだった。微かしか気配はしなくても、夢でしか逢えなくても、煌夜がいるというだけで幸せだった。

「待ってる‥。」


 うまくいった、と白炎はほくそ笑んだ。

 黒鬼から抜きとった僅かな霊力を使って、何とか咲乃に直接繋がることができた。この方法ならば危険を冒して健吾の体を使わなくてもいいし、主人(マスター)の制約も受けなくてすむ。

 しかも咲乃の霊力を奪い放題だ。もう少し黒鬼の霊力を溜めて、実体に近いモノを送りこめれば、咲乃は無防備にすべてを捧げてくれるだろう。意外と早く、ここから抜け出られるかもしれない。

 ―――しかし。黒鬼のヤツ‥。完全に咲乃を忘れきっていないのか?

 白炎の送りこんだ影が最後に言った言葉。咲乃が待っていると信じられるから生きていける、と言っていた。あの言葉は白炎が仕込んだものではない。

 ―――そうだとしたらかえって好都合だ。

 再び白炎はうっすら微笑を浮かべた。

 黒鬼の心の深層部分に咲乃への想いが残っているなら、今後彼の霊力で作った影はより本物に近いモノになるだろう。そうであればあるほど、まったく疑われることなく咲乃の近くへ送りこむことができる。

 まあ―――白炎が復活するその瞬間まで、咲乃にはせいぜい幸せな夢を見てもらおう。気づいた時には契りは完了し、泣こうが喚こうが二度と白炎から離れられなくなる。万が一、黒鬼が帰ってきたとしてもその時には既に遅い。咲乃は白炎のものなのだから。

 不意に白炎は、茉莉花に言われた言葉を思い出した。

 ―――たかが女一人だって、あなたには決して手に入れられない。

 あの時は可愛い吠え声だとしか思わなかったが、これっぽっちの霊力しかない存在に成り果ててみると、女一人が貴重な宝物みたいに思えてくるから不思議だ。

 いや。女一人ではない。咲乃だから欲しいのだ、と白炎は思い直した。

 あふれるほどの蕩けるように甘い霊力を、たった一人の男に余すところなくすべて捧げてしまうような、愚かな咲乃だから。

 ―――待ってる。

 そう言った彼女の潤んだ瞳。

―――待っているがいい。俺は黒鬼とは違う、決して手放したりはしないから。

 暗い牢の中で白炎は、ふふ、と微かに声を立てて笑った。


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