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第三章

 白炎は寝ている健吾の体に意識を繋ぐと、健吾の妖力を使って四宮(よつみや)咲乃(さくの)の部屋へ飛んだ。

 深夜三時。ひっそりと暗い部屋には、咲乃の安らかな寝息だけが響いている。

 白炎は夢に入るでもなく、ベッドのそばに腕組みをして立ち、ただ何となく咲乃の寝顔を見ていた。

 ベッドの中には黒猫がいた。すやすやと咲乃に寄りそって眠っている。

 黒猫はふと気づいて目を開けた。じっとこちらを見て、首をかしげる。白炎には咲乃を傷つける意志は今のところないので、寝ぼけた黒猫が感じ取っているのは主人を同じくしている健吾の常態だけだ。なぜここにいるのかと不思議に思っているのだろう。

 白炎は健吾の気配のままで黙って微笑んだ。すると黒猫は安心したのか、また再び寝入った。その首についた小さな金色の鈴を見て、白炎は苦笑いを浮かべる。

 ―――咲乃を護ってやるつもりなのか‥。鈴の女も主人(マスター)どのもお節介なことだ。

 つくづくと寝顔を見る。

 人間の愚かしさを体現しているような女。白炎はそう思う。

 これだけの霊力を持っているくせに、ろくに使い方も解らず持て余している。逆に物の怪にも人間にも狙われる始末だ。

 ―――黒鬼なんぞに惚れて‥。あいつのためだけに霊力を捧げた結果が‥紙屑みたいに捨てられただけだ。なのにまだあいつを想っている。

 なぜなのだろう。白炎には理解できない。利用されただけとしか思えないのに、咲乃はたくさんの大切なものをもらったなどと言う。愚かな女だから、たとえ白炎相手にであっても嘘一つつけない女だから―――本心なのだろう。

 愚かさは罪だと白炎は考える。愚かさゆえに身を滅ぼす者は多いが、それは物事の摂理だ。愚か者は死のうが瞞されて泣こうが、自分の愚かしさをこそ恨むべきなのであって、誰かが責任を取る必要などない。愚か者のためには正義などという概念は存在しない。

 なのに目の前の愚かな女が傷つけられるのは、全然面白くなかった。

 白炎はいいのだ。咲乃を傷つけて泣かせるのは、白炎の役どころだから。

 だがカスみたいな力しか持たない人間や物の怪どもが、彼女の回りをガツガツした顔でうろつくのは筋違いだと―――分不相応だと腹立たしい気分になる。霊力が存在の根源にある鬼人の白炎から見れば、どれほど愚かで無知で無防備でも咲乃はやはり姫なのであって、下賤の者が触れていい存在ではない。

 ―――護ってやりたいのか。黒鬼の代わりに‥?

 自問してみるが、はっきりしない。

 それより咲乃が黒鬼を忘れて代わりに白炎を想うように仕向けられれば、その霊力で白炎は鬼人界を脱出し、人間界へ戻ることができる。フルパワーには及びもつかない力で我慢しなければならないとしても、何と言っても自由なのだからメリットは多大だ。

 ―――その情況は‥‥何を俺にくれる? 退屈か、それとも満足か。せっかく自由を得ても、自由を満喫できるのか?

 少なくとも現在の状況よりましではあるだろう。パワーが戻れば、幻術で咲乃の感情を繋ぎとめるなど雑作もない。そうすればやがては復活できる。やっかいなのは月神がまたしゃしゃり出てくることだが、窓口である主人(マスター)どのを始末してしまえば問題ない。

 だが白炎は胸に描いてみたその未来図に、あまり興味をそそられなかった。

 その先に続くのは、また果てのない退屈なのではないだろうか。いっそのこと別の存在になってしまえば―――そのほうがずっと面白いかもしれない、そんな気がする。

 ―――では別の存在とは何だ? 俺じゃない俺とは‥いったいどんなものだろう?

 咲乃がふっと息をついて、寝返りを打った。

 カーテンの隙間から一条の月光がすっと入ってくる。

 月神に悟られないよう、白炎は気配を殺し、健吾の体を『懐古堂』へと戻した。そして意識を鬼人界の自分へと戻す。

 黒鬼に繋いだ霊力糸をつたって様子を探ってみる。

 黒鬼は完全に記憶をすりかえられているようだった。生まれた時から『黒鋼(くろがね)』として、この霊山(りようざん)で生きているつもりのようだ。

 ―――バカなやつだ。霊山の力にすっかり侵蝕されちまいやがって‥。

 はたしてこの情況は白炎に何を求めているのだろう? 

 黒鬼は最初から統治者となるべく生まれたと思いこまされている。いわば白炎の身代わりだ。白炎が放り投げた責務とやらを、自分のものとして遂行するつもりらしい。

 では白炎は黒鬼の代わりを務めてやるべきだろうか?

 咲乃を護って、人間界で黒鬼のいた場所を埋めてやれば、その先に別の存在としての白炎ができるのだろうか。可能性はあるように思える。

 ―――ふふん。それはそれで‥面白そうだ。

 白炎は健吾との間に繋いだ糸を一本だけ残して、あとは全部引き揚げた。それから黒鬼に繋いだ糸を通して、彼の霊気を気づかれないほどわずかに抜き取る。

 必要な霊力を蓄えるまで時間はかかりそうだが―――時間はたっぷりある。白炎はほくそ笑んだ。


 雑踏の中を絶え間なく後を尾けてくる足音に、玲はうんざりしていた。

 もう一時間にもなる。隠れるつもりがあるのかも解らないほど、見え透いた尾行者。

 ポツポツと雨が落ちてきた。六月末の空はどんよりと曇っている。

 玲はビルの陰に入って、携帯で健吾を呼んだ。入れ替わってまいてもらうつもりだ。

 この先には最近アンジュとして借りた事務所がある。その場所を尾行者に知られるのだけは何としても避けたい。

 ショッピングビルの化粧室で入れ替わり、尾行者が健吾の後をついていったのを桜に確認してもらってから事務所に向かった。

「‥‥営業妨害だ。困るよ、ほんと。」

 事務所で吉川聖に変身しながら、玲は思い切り険悪な表情を浮かべた。

「‥どういうつもりなのでございましょう? ほんとに困りますね。」

 桜の可愛い顔が心配そうにくもった。

「ご用があるとも思えませぬし‥。本気で隠れるつもりがあるとも見えません。変わったお方ですね、ほんとうに。」

「‥‥嫌になるほど相変わらずだ。成長しない女だな、まったく。」

 しつこくあとをつけてくるのは、川井春奈という女だ。

 中学の同級生で、当時も玲の印象ではストーカーだった。ロッカーから勝手にペンだのタオルだのを持ち出されて困った記憶がある。

 一昨日、今日、と外へ出るたびになぜか見つかるのも不思議なのだが、桜の話では背中に何やらおぞましいモノをつけているというのが気になる。

「やはり‥姫さまにご相談なさったほうがいいのではありませんか?」

「そうだね‥。桜の結界が効かないなんて、ヘンだもんね。気は進まないけど、他に方法はないだろうな。‥‥去年みたいに夜鴉の仕業じゃないんだよね?」

 桜はどうでしょうか、と小首をかしげた。

「夜鴉の羽が絡んでいる気配はございませんけれど‥。夜鴉の闇に囚われていても不思議ではないお方ではありますから‥。」

「夜鴉の闇に囚われるって‥?」

「自分から心に闇を住まわせてしまうのですよ。(こう)じれば闇に喰われて、人ではないモノとなりはてます。姫さまの鈴で浄化される人と、そうでない人がいるのですが‥あのお方は後者だと感じます。」

 心の闇を茉莉花の鈴で浄化できない人間。それはどういう(たぐい)の人間なのだろう?

 訊ねてみると、桜は困った顔になった。

「うまく説明できません‥。見ればそうと解るのですけれど‥‥」

 やはり茉莉花に訊くしかないようだ。あの女が背中につけているらしい怨霊の雫とやらが何なのかも含めて、さっさと相談するべきだろう。

 小一時間ほどして健吾が姿を現した。

 玲そっくりの薄茶色の瞳と髪が、瞬き一つで漆黒に変わる。

「問題ありません。町田まで行って、街中(まちなか)で迷うように仕向けてきました。たぶん今も迷子になってると思いますけど‥‥。あの人は‥人間ですか?」

「健吾もそう感じる? 桜もヘンだって言うんだよ。」

 健吾は不安げに玲を見た。

「ものすごく‥主人(マスター)に執着してるのを感じました。背中に貼りついてる不気味なモノが、それを増幅してるんじゃないかと‥。迷子にしてから気配を消して様子を見てたんですけど、見失ったせいで苛々して‥怒っていましたよ。凶暴というか‥あの人は危険です。」

「昔から偏執的な性格だったけどね、まさか人間をやめてるとは思わなかったな。」

 玲は苦笑気味に笑いとばしたが、健吾の表情は変わらなかった。

「‥‥しばらく俺も主人(マスター)とご一緒します。いいでしょう?」

 あまりに真剣に詰めよられて、玲は少々たじろいだ。

 内心ではたかが女一人のことで、それほど大仰に警戒しなくてもという気持ちがある。同時に断る理由も見当たらないのでうなずいた。

「よろしく。頼りにしてるよ。」

 微笑んで肩をぽんと叩くと、健吾はようやくほっとした顔になった。


 その晩は帰宅したのが十時を過ぎてしまったので、茉莉花に声をかけるのはためらわれた。だが玲の躊躇などお構いなく、桜が茉莉花の部屋へ飛んでいって洗いざらい喋ったらしい。茉莉花はすぐに二階へ上がってきて、襖をノックした。

 吉川の紅い髪を見て茉莉花は一瞬たじろいだものの、すぐにいつもの生真面目な顔になって大丈夫なのかと訊ねた。

「大丈夫かって訊かれてもさ‥。今のところ五体満足ではあるけど?」

「でも‥。怨霊の雫だなんてただごとではないもの。どうしてあなたを狙うのかしら?」

 玲は吉川の低い声で、さあね、と答える。

「だいたい、怨霊の雫って何? ぼくにはさっぱり理解できないんだ。教えてくれる?」

「‥‥話は吉川さんじゃない時にしましょう。面倒くさいから。」

 冷ややかな声が凛と響く。そして彼女は返事を待たずに背を向けた。

 待って、と腕をつかんだ。

「じゃあさ。少し時間がかかるけど、寝ないで待っててくれる?」

「‥‥いいわ。」

 少し怒ったようなふくれたような顔で、茉莉花は答えた。

 愛してる、と耳に口を寄せて囁くとふくれたままで真っ赤になる。

 勢いよく階段を下りていく背中を見送って、思わず忍び笑いをこぼした。


 しばらくしてパジャマに湿った髪のまま茶の間へいくと、茉莉花は桜や健吾と何か話しこんでいた。

 玲に気づいて視線を上げる。

 頬にかかったまっすぐな黒髪がさらりと揺れた。

「‥‥寝間着じゃないの?」

「は?」

「もう遅いからさ、寝間着で迎えてくれるかなとちょっと期待したのに。」

 茉莉花は呆れるのを通りこしたようで、黙って無視した。

「‥‥怨霊の雫というのはね。名前のとおり、怨霊の一部分なの。その人はどこかで怨霊と関わって、一部分を体に取り憑かせてしまったのでしょうね。けれどそんなものを背中につけて平気で歩いていられる人というのは‥心の中に怨念や邪気を抱えている人。健吾さんの危惧するように危険な人だと言えるわ。」

「危険て、具体的にはどういう‥?」

「何をするか解らないという意味。普通の人間ならば躊躇するような行為とか、思いつきもしない行動を取るの。そのう‥玲に執着していると言うから‥。」

「俺に執着しているから?」

 たかが名前を呼ぶくらいで、うつむく純情さが可愛い。

「執着が嵩じて‥恨みや憎しみに変わらなければいいのだけれど‥。」

 心配そうに眉をひそめる。

 冷静に考えれば誰かがこんな状況に陥ったならば、彼女はやはりこんな顔をして身を案じるのだろう。初めて会った他人に対してさえも。

「で‥。彼女には君の鈴は効かないのかな?」

「実際に見てみないと解らない。力ずくで怨霊の雫を剥がすのは可能だと思うけど‥。それで状況が好転するかどうかは‥場合によるわ。」

「好転しないのか?」

「怨霊に取り憑かれて自分のではない強い念に支配された場合なら、取り憑いたモノを剥がせば霧消するけれど‥。もともと自分の中にある邪念みたいなモノに、取り憑いたモノの負のエネルギーを取りこんでいる場合は‥暴発してから解消することが多いの。一気に邪念に支配されて、信じがたい行動へ発展するかも‥。今回の場合、あなたに理不尽な憎悪が向く可能性が高いわ。できれば自然に消滅してくれるといいんだけど‥。」

 ますます心配そうな顔になる。

「じゃあ‥。君が四六時中一緒にいてガードしてくれるってのはどう?」

「それは‥逆効果だと思う。桜と健吾さんの話じゃ、その人、あなたに片想いしているのでしょ? 女性連れでは暴発を煽ってしまうだけ。だからといって‥期待させる言動も逆効果よ。背中の怨霊の雫を元気づかせてしまうでしょうから。」

「期待させる言動なんてするわけないじゃん。‥信用ないなあ。」

 手を振って大仰に否定すると、茉莉花は冷ややかに見返した。やりかねないと思ったようだ。嫉妬で疑われるのは大いに歓迎なのだが、単なる不信からでは全然笑えない。

「‥‥それで結局、俺はどうすればいいの?」

「しばらくは健吾さんと離れないで。様子を見ようと思うから。」

 了解、と答えて玲は腰を上げた。


 茉莉花は二階へ上がる足音をぼんやりと聞きながら、茶の間でまだ考えこんでいた。

「姫さま‥。ご主人さまは潔白ですよ‥?」

 桜が膝によじのぼっておずおずと言った。

「え‥? 何の話?」

「だって‥姫さま、怖いお顔をなさって‥。ご主人さまは、決してあの方とお親しくなすっていたわけではございません。以前は確かにご婦人を悲しませるようなことも多々ございましたけれど、この頃は姫さまひとすじでおられます。桜が保証いたします。」

「桜‥。」

 主人の弁護のつもりであろうが、あまり有用な弁明にはなっていない。

 しかし茉莉花の懸念は、桜の気にしている(たぐい)とは少し違う。

 茉莉花は説明するのも弁解するのも何かちぐはぐな気がしたので、桜の頭を撫でてただにっこりと微笑んだ。桜はやっと安心したらしく、お休みなさい、と二階へ上っていった。


 翌日茉莉花は『アスカ探偵事務所』に鳥島を訪ねた。

 電話で連絡を取ったら、午前中ならば事務所にいると言うので急いで出かけてきたのだ。まずは川井春奈という女性の経歴を調べてもらい、彼女がどこで怨霊と関わったのか明らかにするつもりだった。

 鳥島は茉莉花の依頼を聞くと、珍しく忍び笑いをした。

「‥‥浮気調査?」

 違います、と茉莉花は思わず赤くなる。

「残念だな。しがいがありそうなのに。‥‥冗談はともかく。川井春奈という名前‥最近聞いた記憶があるなあ‥。」

「ほんとうですか‥?」

 鳥島は考えこみながら、立ち上がってキャビネットのファイルをぱらぱらとめくった。

 そしてあるページで指を止めた。

「‥‥ん。何だか微妙な関連になってきたな。」

「微妙‥ですか。」

「そう。憶えてるかな、春先の桐原事件。『懐古堂』さんで解決してくれたヤツだけど、あの時の被害者の六人の女性のうちの一人が、川井春奈二十二歳だ。」

 あ、と茉莉花は顔を上げた。

 首に紐をかけられた女性。そう言えば春奈と呼ばれていた。

「では‥わたしが桐原邸を訪ねた時に居合わせた‥あの人。」

 長身でスタイリッシュな美人だった。テレビや雑誌で見かけそうな、華やかなタイプ。

 茉莉花は眉間に皺を寄せた。彼女みたいな女性がストーカーとはまるでピンとこない。

 念のために鳥島の調書にある写真を確認してみたが、間違いなくあの時の『春奈さん』だ。しかし実際に桐原森彦みたいな輩に引っかかったりもしているわけで、心に闇を抱えている可能性は十分ある。

「鳥島さん。川井さんはどこで、桐原と知り合ったのかご存知でしょうか‥?」

「ネット上にあるオカルト系サークルだよ。女子大生の間で流行(はや)ってるそうなんだが、怪異現象や幽霊の目撃談を報告し合って、パワースポットの認定だとかランキングだとかを決めたり‥。月に一回、オフ会も開かれてる。」

「桐原森彦はそこの会員だったんですか?」

「そう。桐原森彦の名前で会員登録されてる。資産家の一人息子で独身、三十二歳。ルックスもそこそこということで、彼と親しくなりたがる会員女性は多かったそうだ。‥現に川井春奈だけじゃなく、六人のうちあと三人、このサークルの会員だった。」

「‥‥目撃談などから霊力のある女性を物色していたんでしょうね。彼の場合、他人から奪った力で自分の力を大きくしていたから‥。」

 鳥島は怪訝そうに茉莉花を見遣った。

「‥‥もしかして。川井春奈と堂上が再会したのは、偶然じゃないと思ってるのか?」

「何も証拠はないんですけど‥。堂上さんには守護精霊がついているので、普通は彼が望まない人は彼を見つけられないはずなんです。それに堂上さんは‥素顔の自分は無意識のうちに隠そうとしてますから、なおさら‥。」

 未だかって玲を見つけ出すことができたのは瑞穂だけだ。けれど彼女ほどの霊力を以てしても、いつも見つけられるわけではない。まして口には出せないが―――茉莉花の霊力も彼を護ると言うか隠すべく働いているはずだった。川井春奈の執着心がどれほど強かろうと、玲にストーカー行為を働くこと自体が、本来不可能なのに。

 考えこんでうつむいた茉莉花を、鳥島は心配そうにのぞきこんだ。

「まさか‥。本人が望んでいると考えてるわけじゃないよな?」

「ええと‥。それはありえません。それなら解りますから。」

 あっさりと答えた横で、鳥島はほっと頬を緩めた。遅まきながら、心配されていたのだと気づいて、気恥ずかしくなる。

「わたしが懸念しているのは‥単なるストーカー行為ではなくて、堂上さんを狙った呪術でなければいいと思っているんです。ここへ来る前までは‥小さな疑念に過ぎなかったのですが、川井さんがあの事件に深く関わっていたと知って、何だか嫌な予感がしてきました。真宮寺にはまだ隠れている仲間がいたのかもしれません。」

「捕まっていない仲間か?」

「はい‥。いたとしたら本家内部の可能性も‥。彼が瑞穂さんたちを助けた場にいた人ではないかと‥。」

 ふうん、と鳥島は顎を撫でた。

「つまり‥。真宮寺の共犯者かあるいは黒幕が、あの時に邪魔をした堂上玲を狙って呪術を仕掛けているかもしれないと、茉莉花さんは思うわけだ。」

「考えすぎかもしれませんけど‥。」

「いや。あり得るよ。‥でもその場合、川井春奈のストーカー行為は今後どう展開すると予想できる?」

「彼女には怨霊の雫がついていますから‥恐らく、最悪の場合までいかないと憑き物は落ちません。」

「最悪と言うと‥たとえば、危害を加えられる可能性があるってことか?」

「危害どころか‥殺意ではないかと思うのです。怨霊の雫というのはそれくらい、怖ろしいモノなんです。」

 茉莉花は無意識に唇を噛みしめた。

「怨霊の雫の大もとの怨霊を浄化するか、もしも呪術なら術者を止めることができれば、二人とも無事で事態の収拾が図れますけど‥。彼女の雫を剥がしただけでは感情の暴走を止めることはできません。」

 鳥島はふうっと大きく息をついた。

 茉莉花は慌てて顔を上げて、無理に微笑んだ。というより自分では微笑のつもりで口もとを緩ませた。

「あの‥ごめんなさい。ほんとにわたしの考えすぎかもしれません‥。」

 他の誰でもなく鳥島に、嫉妬で妄想を膨らませたと思われるのはちょっと辛い。でももしかしたら、そういうことかもしれない。茉莉花の霊力は嫉妬―――実感はないが嫉妬で狂わされているのかもしれない。

 しかし茉莉花のほうへ向き直った鳥島は、いつになく厳しい表情をしていた。

「いや。考えすぎじゃないかもしれないよ。実はね‥偶然耳にしたんだが、四日前に四宮本家で事故があったそうなんだ。」

「四日前‥十五日ですか。」

 十五日は大結界の儀式があった日だ。結界は無事に張られて今もなお健在なのに、事故とは?

「新しい本屋敷の落成式で、祝宴の真っ最中に敷地内に魔物が出たんだそうだ。むろん当主の瑞穂さんがすぐに収めたんだが、怪我人が出てね‥。磯貝要といって本家直属の能力者だと聞いた。確か彼は‥春の事件で傀儡師の術を破った男だったよね?」

「ええ‥。精霊遣いの人でしたね。家令のお孫さんだとか。‥‥その人が怪我、ですか。」

「ああ‥。左腕の肘から先を失ったそうだよ。瑞穂さんの駆けつけるのがあと数秒遅かったら、命も危なかったらしい。」

 茉莉花は自分の顔からすうっと血の気が引いてゆくのを感じた。落ち着いて、と必死に胸に言い聞かせる。

「それは‥‥いったい、どこからの情報ですか?」

「‥‥一昨日、警察が来たんだ。警視庁に新設された特殊能力捜査課の刑事で、春の桐原邸事件及びファミレス爆破事件を担当しているそうだ。でもね、傀儡師どころか真宮寺森彦の名前も知らなかったよ。もちろん桐原森彦の本名が真宮寺だってこともね。」

 鳥島は不可解だと言わんばかりに肩を竦めた。

「だが‥。あんたの懸念が事実ならば、なぜ唐突に本家に魔物が現れたか納得できる。狙われたのが磯貝要だというのも。ならば次のターゲットは、堂上玲で間違いない‥‥って。茉莉花さん、大丈夫か‥?」

 はい、と答えた自分の声は聞こえた。しかしそれからあとの記憶が途切れた。


 茉莉花が意識を飛ばしていたのはほんの数分のことだった。

 額に当てられた濡れたタオルがひんやりと心地よい。

「ここのところ、過労気味で‥。」

 霊力の遣いすぎで貧血を起こしただけだとの茉莉花の説明に、鳥島は半信半疑の顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。

 実際に『懐古堂』に持ちこまれるトラブルが、春先からこっち異様に増えている。四宮本家の大結界が完成したので、これからは少しずつ減るのではないかと思うけれど、本家も安泰とは言えない状況下では、まだまだしばらくは茉莉花も忙しいだろう。

 そんな言い訳をしたあとで、茉莉花はつい溜息を漏らした。

 鳥島は茉莉花のうつむいた顔を心配そうに見ていた。

「さっきの話だけど‥。サークルについてはもう少し深く調査してみるよ。他の被害者についてもね。桐原森彦以外に共通点がないかどうか。」

「すみません‥。あの、費用はちゃんとお支払いしますので請求してくださいね。」

 茉莉花の言葉に鳥島は大丈夫、とにやっと笑った。視線を上げて、茉莉花の背後のドアを見遣る。

「あっちに請求するから、問題ない。」

 振り返ると、玲が苦笑して立っていた。

「浮気調査なら、倍額払うから何もなしって報告しといて。漂白したみたいにきれいな身だって。」

 鳥島はくすくす笑って、椅子を勧めた。

「浮気調査はするまでもないだろ? 彼女はあんたを心配して、ストーカーの調査依頼に来ただけだよ。」

「なんで鳥島さんに頼るかな‥? ちょっと腹が立つ。」

 茉莉花の隣に腰を下ろしながら、玲は子どもみたいな拗ねた顔をして頬杖をついた。

「それより‥どうしてここにいるの? お仕事は?」

「達磨のおじさんが、君が鳥島さんと密会に行ったって言うからね。邪魔しに来たの。」

 いつものように本気なんだか冗談なんだか解らない言葉だ。ふくれっ面もどこまで真実やらつかめない。

 だが彼の肩からすとんと茉莉花の膝に下りた桜が、袖を振りしぼってしくしく泣いている。どうやら先ほど意識を失ったのを感知して、来てくれたらしいけれど―――桜の泣き方は普通ではない。何を感じたのだろう?

 一方では鳥島が川井春奈について、茉莉花に語ったのと同じ内容を話していた。しかし呪術ではないかとの茉莉花の懸念については、自分の言うべきことではないと判断したようで一切触れず、代わりに磯貝要の怪我と警察の訪問があった話をした。

 その間玲は黙ったままで、冷静な表情を崩さなかった。

 何となく茉莉花はほっとする。なぜだかはっきりしないが、最悪の場合ばかりへ傾きがちな意識が、玲といれば明るい面へ向くのを感じる。なぜなのだろう?

「なるほどね、話は解った。‥あらためて俺からそのサークルの調査を依頼させてもらうよ。川井春奈の身辺調査もね。忙しそうだけど‥受けてくれるかな?」

「『懐古堂』さんには世話になってるからね。最優先でさせてもらうよ。」

 ありがと、と微笑んで、玲は腰を上げた。そして茉莉花のほうを振り向く。

「行こうよ。用は終わったんだろう?」

 茉莉花は鳥島にもう一度頭を下げ、よろしくお願いしますと頼んで立ち上がった。まだべそをかいている桜を胸に抱いて、玲のあとへ続く。鳥島は苦笑していた。

 『アスカ探偵事務所』の入っているビルから外へ出るなり、玲は不機嫌そうな顔で茉莉花を振り返った。

「俺の問題だよ? どうして内緒にするの?」

「別に内緒にしたわけでは‥。鳥島さんに川井さんという人の居場所を探してもらおうと思っただけ。怨霊の雫を直接確認したかったから。」

 彼の不機嫌な理由が解らず、茉莉花は少々面食らった気分だ。

「川井春奈の居場所なんか、まず俺に訊けばいいじゃん? 二度もつきまとわれて調べておかないはずないだろう?」

「‥‥そうなの? と言うより‥なぜ怒ってるの?」

 ますます怒った顔で口を開きかけ、すぐに噤むと、いきなり手首をつかんだ。

「とにかく‥どこかゆっくり話せるところに入ろう。さっき何があったのか、説明してもらいたいからね。」

「さっき‥?」

 貧血を起こした時のことだろうか。それならばむしろ、桜が何を感知したのか茉莉花が訊きたいくらいだ。

「桜が‥‥君の気配がまったくしないと言った。ほんの数分だったけど‥その間、俺たちがどんな気持ちだったか想像できる?」

「気配が‥‥しない?」

 桜は胸に取りすがって、またしくしくと泣き始めた。

 とりあえず怒っているのではなくて、ものすごく心配してくれたのだという点だけがのみこめた。あとは何が起きたものか自分でもさっぱり解らない。手を引かれたまま、茫然と彼のあとをついていく。

 気配がないのは―――魂を失ったモノだ。

 肉体を失くした幽霊だって、微弱ながら気配はある。人間が魂を失う場合は死んで成仏するか、心を物の怪に喰われた時かいずれかしかないはずなのだけれど。

 不意に心の底から恐怖がこみあげた。人でなくなるより魂を失うほうがずっと怖い。

 周りじゅうが闇に包まれ始めた。何も見えない。茉莉花は立ち竦んで一歩も歩けなくなった。不気味な静寂がたちこめて体を取りまいていく。

 ふと掌にほのかな温もりが残っているのを感じた。

 夢中でその温もりに意識を集中すると、しっかりと絡めた指の感触が浮き出てきた。たどっていくと、腕がある。茉莉花は両手でその腕に縋りつき、体を寄せた。

 しばらくして耳に街のざわめきが戻ってきた。

 自分の心臓の音がどくんどくんと大きく響く。顔を上げると、じっとこちらを見ている静かな視線とぶつかった。

「‥ごめんなさい。ちょっと、気分が‥。」

 離れようとした体をそのまま胸に抱えこんで、玲は茉莉花の背中をさすった。

 抱えられた安堵感に身を委ね、身じろぎ一つできなかった。

「家に帰ろう。話はそれからだ。」

「‥でもお仕事があるんじゃ‥?」

「問題ないよ。どうにでもなるから。」

 玲は茉莉花を抱えて大通りへ踏み出すと、タクシーをとめた。

 ―――霊力が‥わたしをのみこもうとしている‥?

 ひしひしとこみあげる予感に、茉莉花は思わず身震いをした。


 その日の夜。

 男は一人暮らしの豪華なマンションに戻ると、ノートパソコンの電源を入れた。

 窓の外には東京の夜景がきらびやかに輝いている。

 この部屋には週に一度のクリーニングサービス以外、誰も入れたことはない。だが別に孤独とは感じなかった。ここにあふれている数々の贅沢な調度品が、男にとっては人生の成功の証しで、何より心を満たしてくれるものだ。

 ムートンを敷き詰めた革張りのソファにゆったりともたれ、運営しているサイトにアクセスして、隠しページを開いた。

 メールボックスに数件のメールが入っている。同じ女からだ。

 興奮気味に綴られたテンションの高い文章には、いつもながら苛々させられたが、内容には至極満足した。

 ―――思惑どおりに進行中のようだ。ふふ‥。

 男は薄笑いを浮かべてサイトを閉じ、立ち上がると、重厚なサイドボードから一本数十万もするワインを出してグラスに注いだ。赤い血のような色が美しい。

 女は胸をわくわくさせて恋しい男を追いかけているのだろう。浅はかで愚かな女だ。いったいどこの世界に縁結びをする怨霊など存在する? 少し考えれば解るのに。

 ―――まあ‥。邪魔者の姓名が判明しただけでもあの女に感謝しなきゃな‥。

 男は嘲りをこめてくすくすと笑い、ワインを飲みほした。


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