第一章
四宮本家では本屋敷落成式をいよいよ翌六月十五日に控え、誰も彼もが忙しく立ち働いていた。
新しい本屋敷に設けられた百畳敷の大広間に、しつらえられた膳の数は百十六。
四宮姓の分家十三、姓の違う分家八の他に、傘下の有力な霊能力者がざっと二十。加えて本家家人の霊能力者が出席しての総代会を兼ねている。
成人の儀と当主襲名をも執行するため、四宮瑞穂は一応、真紅の大振袖を身につける予定になっている。ついでに妹たちにも振袖を着せようと画策したけれど、そっちはうまく逃げられてしまった。
「ほら、あたしの場合、主役を奪っちゃうかもしれないでしょ? 遠慮しておくわ。」
笑っている次妹の花穂を後目に、瑞穂はどうにも落ち着かない。
まっすぐなくせのない髪を高い位置でポニーテールにし、飾り紐で結んで鏡の中をのぞいてみた。何だか茉莉花の真似みたいに見える。瑞穂はがっかりして紐をほどいた。
「いっそのこと、額を出して結い上げたほうがいいかな‥。どう思う、早穂?」
「ポニーのほうが瑞穂らしいよ。額を出すとお祖母さまに似てる。」
スマホ片手に画面を指で操作しながら、末妹の早穂があっさりと言う。
瑞穂は顔をしかめた。泉に似ているという印象は望むところではない。
「だけどさ‥。赤い振袖だし、茉莉花さんの真似みたいじゃない?」
「そんなことないよ。雰囲気が全然違うもん。それに茉莉花さんはいつも下げ髪だし。結ぶにしても低い位置だから、似てないよ。」
全然似てないと言われるのはそれでまた、ちょっと不服だ。瑞穂の中では茉莉花への憧憬と敵愾心がいつもせめぎ合っている。
「それに‥誰が茉莉花さんの真似みたいとか思うわけ? 明日の出席者の中で『懐古堂』さんと知り合いの人なんか一人もいないと思うわよ。」
花穂はペディキュアを塗りながら、軽い調子で笑いとばす。
確かにそうだと瑞穂は下を向いて、溜息をついた。
「まあ衣装はいいや。明日の儀式のほうの準備を、夕食前までに見回っておこう。」
本屋敷落成に伴い、明日は新しい四宮の大結界を張る儀式を行う段取りにもなっている。
祭祀の中心である三姉妹は夜明け前から禊ぎ場で潔斎し、日の出とともに始まる三時間の儀式を滞りなく執り行わねばならない。同時刻に四家では四門の結界を結び直す。それから本家家人に加え、到着した分家衆他の総力を結集して大結界を完成させるのだ。
儀式の完了予定が午前十時頃になっており、落成式は正午開始の予定だった。結構慌ただしい。
「無事に結界が結べればいいけど‥。とにかく今の知識と技倆じゃ、毎年張り直すしかないのは仕方ないわね。」
「それでも結界が完成すればトラブルはかなり減るはずだもん。頑張ろうよ、瑞穂。」
早穂の言葉に瑞穂はうん、とうなずいた。
「そうね。今はできることを全力でやるしかないもんね。」
そこへインターフォンが鳴って、家令の磯貝が来客を告げた。
「‥‥ん。執務室へ通しておいて。今すぐ行くから。」
「誰なの? この忙しい時に。」
立ち上がった瑞穂に、花穂が訊ねる。瑞穂は顔をしかめた。
「警察。‥警察庁から、長官官房室審議官とかいう訳解らない役職のヤツ。明日の儀式についてだってさ。」
肩を竦めて部屋を出る瑞穂の後ろから、花穂と早穂はやや不安げな顔で続いた。
ちょうど同じ頃、『アスカ探偵事務所』の依頼客用のブースで、玲は鳥島祐一と話しこんでいた。
春先のファミレス爆発事件の後、玲は鳥島に、事件に関する警察の動向を継続して探ってくれるよう依頼しておいた。その何度目かの報告を聞きに来たところだ。
あの事件では最初、健吾が容疑者だったこともあり、どう結着するのかは玲にとって非常に気になるところだった。
「爆発事件については、証人がことごとく証言を翻して、犯人は見ていない、どうしてあんな発言をしたのか解らない、と言い出したので捜査現場は混乱したままだ。しかも最初の容疑者である男の風貌その他については、駆けつけた警官も含めて誰一人記憶にないときてる。ほんとうにそんな男が存在したかどうかさえ、はっきりしなくなってしまったわけだから、捜査は行き詰まっていると言えるね。」
鳥島の言葉に玲は黙ってうなずいた。
健吾はもともと人ではないので、妖力を遣って自分の痕跡や記憶をくらますのは得意だった。その点に関しては今のところうまくいっているようだ、と安心する。
「それで‥これは内部情報なんだけどね。警視庁に特殊能力捜査課というのがこの春に発足したらしいんだ。」
「‥特殊能力捜査課?」
「そう。昨年来、頻発している能力者がらみの犯罪事件を捜査するために、超能力者の刑事を起用する予定だとか。あの事件もそこの担当に移るだろうともっぱらの噂だ。」
「ふうん‥。今までは四宮本家に依頼してきたんじゃないの?」
「うん。俺みたいな下っ端は知らなかったけど、警察庁と四宮本家とは長く裏で密接に連携を取ってきたようで、物の怪や霊力がらみの事件はずっと表には出さずに処理してきたんだ。だけど昨夏の本屋敷消失事件以来、四宮の側の不手際でマスコミに報道されることも多くなったと不満が出ていて、その結果として特殊能力捜査官の任用となったわけだよ。」
「へえ‥。自分たちなら四宮よりうまく処理できるとでも? そりゃ‥すごいね。」
玲は皮肉っぽい冷笑を浮かべた。
鳥島は苦笑して、話を続ける。
「見えないとね、現実が狭くなるんだよ。人間てそう、想像力があるわけじゃないしね。現に特殊能力捜査官は、霊力というより超能力のほうらしい。透視能力とか念動力とか聞いたな。透視と言っても人でないモノが見えるわけではないようだよ。‥それでどうやって四宮の向こうを張るつもりなんだか‥。」
四宮本家の仕事を増やすだけだろうにな、と玲は瑞穂の苦労を思いやった。
「それでさ。警察は傀儡師の件はどう捉えているんだろう? そもそも警察が三日前の桐原邸で真宮寺森彦を逃がさなかったら、爆発事件なんか起きなかったかもしれないんだけどね。しかもなぜ、四宮家を狙ったテロだなんて公表したんだ? 表に出したくないなら四宮の名を出すのは逆効果だと思うんだけど‥。」
口にしながらますます冷ややかな気分になった。身を乗りだして、小声で確認する。
「もしかして‥警察上層部の狙いってさ。四宮潰しじゃないの?」
鳥島は同じ結論に達していたらしく、大いにあり得るね、と肩を竦めた。
「見えないってことは、そういうことだ。自分の現実にない現実は平気で否定する、という人間はごろごろいるしね。特に頭で考えてから行動する人間に多いから‥。」
玲はふん、と椅子の背にもたれかかり、兄に叱言を言われて拗ねている大学生みたいな表情を浮かべた。
「面倒だなあ‥! 神さまより始末が悪いよね、ほんと。」
「神さまよりって‥。ずいぶんと罰当たりなセリフだな。」
足を組んで頬杖をつき、冷笑を浮かべる。
「力のある存在は一般市民に傲慢だってことだよ。しかも神さまと違って、扱うのにルールがないからね。‥‥鳥島さん。警察庁は四宮本家が、警察官僚の現実にある理屈に従って大人しく潰されなかった時のことを考えてるかな?」
「どういう意味?」
「霊能力者の集団と一戦交える覚悟があるのか、って意味。」
「覚悟なんぞないだろうな‥。いい機会だからじぶんたちに理解できる現実で塗りつぶそうと思ってるだけだし、できると思ってる。」
玲は椅子の背にもたれかかって、大きく吐息をついた。
「‥‥すっごく嫌だけど。夜鴉一族に情報を入れておくのが賢明かもね。」
「夜鴉一族に‥?」
「うん。若さまは東京の闇を全部仕切っているって聞いているからね。つまり‥人の世の裏権力にも通じているんだろう。」
「ああ‥なるほど。」
鳥島は玲の冴え冴えとした視線を見返し、うなずいた。
「以前若さまは、四宮本家と夜鴉一族の存在は表裏一体だ、みたいなことを言ってたんだ。だから四宮潰しなんて話は容認しない方向で動くはずだと思うんだけど‥。若さまに逢うのは気が重いんだよね。俺って嫌われてるからさ、ちゃんと聞いてもらえるかどうか。」
「『懐古堂』さんから伝えてもらえばいいじゃないか? 人間どうしのことではあるけど、物の怪の世界にも大きな影響があるって説得してもらえば‥。彼女の話なら若さまはちゃんと聞いてくれるだろう。」
玲はあからさまに顔をしかめた。
「それが嫌なんだよ‥! できれば彼女と若さまを接触させずに、夜鴉一族の協力を取りつける方法はないかなって考えてるの。」
「‥‥なんで?」
「嫉妬。」
鳥島はまじまじと玲の顔を見ていたが、いきなりぶっと吹きだした。
「それじゃ‥。近々剣羽と酒を飲んだ時にでも、俺が情報を流しておくよ。とりあえずはそれでいいだろう?」
笑いながら鳥島はそう言った。
ありがとう、と玲はにこやかに答えた。
『アスカ探偵事務所』を出て、玲は茉莉花と待ち合わせた場所へ向かった。
「桜。鳥島さんと会ったことも話した内容も、とりあえず姫さまには内緒だよ。俺からちゃんと話すから。」
茉莉花が玲の行動をいちいち桜に訊ねるはずはないし、訊かれもしない話を桜がするはずもないとは解っていたが、念のために口止めした。
桜は無邪気にはい、と答える。
今夜は外で食事をする約束で、玲としてはデートのつもりだ。でもたったそれだけの約束を取りつけるのにさえとても苦労した。
花見以来、茉莉花は茉莉花なりに玲に好意を示しているつもりらしいのだが、その好意を汲み取るためには多大な想像力とかなりの自惚れで補う必要がある。時には本気で夜鴉に嫁に行くつもりじゃないかと思わせられたりして、気が気じゃない。
玲が思うに―――女の子というのは年頃になれば、いつか恋に落ちる瞬間がくると信じて心の準備を整えているものじゃないのだろうか。なのに茉莉花はまったく準備をしていなかったどころか、今もまだ考えていないようだった。
花見の時には半ば強引にキスしたけれども、あれからしばらく罪悪感が消えなかった。だからあんまり可愛く見える時には、なるべく離れているように心がけている。また許可なしで何をするか、自分でも抑えるのがしんどいからだ。
「許可もらわなければキスしないって約束しちゃったけど‥。いったいいつになったら、許可してくれるんだろうな‥?」
思わず溜息が洩れる。
結界に強く弾かれなくなったのは、彼女の霊力が玲の存在を受け入れているからだと解る。しかし彼女の気持ちはと言えば―――玲の希望どおりにはほど遠いようだった。
雨が降りだしそうな空模様だ。
もったりと蒸し暑い空気が街を押し包んでいる。いっそのこと降ってしまえば少しは涼しくなるのに、と暮れなずむ空を見上げた。
「ご主人さま‥! ほら、姫さまですよ。」
先に茉莉花の姿を見つけたらしい桜は、嬉しそうに飛んでいった。姫さまぁ、とまるで何日も会っていないみたいに胸に抱きついている。
早足でそちらへ向かいながら、玲は茉莉花が珍しくワンピースを着ているのに気づいた。ベビーピンクの淡い色合いとシンプルなデザインがしっくり似合っている。
どうやらデートだとの認識はあるらしい。思わず微笑が浮かんだ。
「ごめん、待った?」
「いえ‥。早めに着きすぎてしまって‥。」
振り向いた茉莉花は仄かに口もとを緩める。これが微笑だとは自分以外誰も解らないだろうな、と思えば更に明るい気分になった。
「君がスカートって珍しいよね。‥すごく似合ってる。」
少しだけ頬が赤くなったように見える。
「‥咲乃さんに見たててもらったんだけど‥。なんだか落ち着かない感じ。高校の制服以来だから。」
並んで歩き出しながら、玲はにこっと微笑んだ。
「涼しそうで可愛いよ。今度咲乃さんにはお礼を言っておこう。」
「‥‥お礼? どうして?」
訝しげな視線に内緒、と答えて、玲は茉莉花の柔らかい手を取って繋いだ。
学校帰りの制服のまま同級生二人と歩いていた四宮了は、通りの反対側を歩く姉の姿を見つけて立ち止まった。
「あれ‥‥茉莉花だよな‥?」
友人が誰、と問い返す。
「いや‥。姉なんだけどさ。あそこ、ほらピンクの服着てる女。」
「あれ? 凄ェ美人じゃん‥! そういや顔が似てる。一緒に歩いてるの、彼氏?」
「そうなのかな‥? 今、一緒に住んでねェからさ‥。でもびっくり。あんな可愛い格好するんだ? 家にいた時には黒っぽい服ばっかり着てスカートなんかはかなかったし、ろくに喋らない暗ーい女だったんだけど‥。何があったんだろ?」
「何がって‥彼氏ができたからだろ?」
友人が可笑しそうに笑った。
「ふうん‥。」
了はしばらく遠ざかっていく姉の姿を見ていた。
姉には不思議な力があって、確か一緒に住んでいると家族に迷惑がかかるからと家を出たはずだった。現に了は何度かまきこまれて怪我をしたりしているので、実感として理解している。なのに―――彼氏なんか作って平気なんだろうか? 同じ力を持っていた祖父は、祖母を同様の事情で失い、一人息子である父とも別れて暮らしていたと聞いた。だから茉莉花は親しい友人を作ることさえ意識的に避けていたようだったのに。
「おいおい‥。姉ちゃんに彼氏ができたのが、そんなにショックなのかぁ? シスコンとは知らなかったけど。」
「シスコン? バカ言ってんじゃねェよ。」
苦笑して歩き出した。
まああの姉だって年頃なんだし、好きな男の一人や二人いるのが普通だろう。帰って母にだけこっそり教えてやろうかな。了はそう考えた。
ところが話を聞いた母は、了が面食らうほど嬉しげな顔をして、茉莉花の相手はどんな人だったかとしつこく訊いてきた。
「ちらっと見ただけだからなあ‥。どんなって‥。女にやたらもてそうなヤツ?」
「なあにそれ? イケメンだってこと? ‥軽薄そうな人じゃないわよね?」
「だからちょろっと見ただけなの。ずいぶん雰囲気変わったなあって茉莉花のほうばっか見てたから、相手の男なんか見てねェって‥。」
了は夕飯のおかずのエビフライを一つ、ぺろっとつまみ食いした。
「まったくしょうがないわねえ‥。そういう時はしっかり見ておくものでしょ。姉さんが心配じゃないの?」
「別に‥? 茉莉花なら怖いモンなんかねーだろうし。痴漢のほうが震えて逃げるよ。」
「あんたときたら、もう‥。冷たい弟ね。」
母は大仰に吐息をついて、二つめに伸ばした手をびしっと叩いた。
「きっとその人は‥お父さんの夢でお祖父ちゃんが言ってた人よ。」
「夢で死んだ祖父ちゃんが言ってた? なんだ、そのオカルトは‥?」
「去年の夏頃、お祖父ちゃんが夢でお父さんのところへ来てね。茉莉花を護ってくれる人が見つかったから安心するようにって言ってたんですって‥。」
「へえ?」
「ところがね。お父さんたら、秋に茉莉花を家に呼んだでしょ、あの時言い出せなくてどんな人か訊けなかったのよ。あの子も自分からは何にも話さないし‥。」
そこへただいま、と兄の薫の声がした。
「何騒いでんの? 母さんの声、デカいよ。」
リビングに入って来るなり、気難しそうな声を出す。
「失礼ね、デカくなんかないわよ。薫こそ何よ、また凶悪犯みたいな顔しちゃって‥。眉間の皺、今に取れなくなっちゃっても知らないからね。」
ふん、とダイニングの椅子に腰を下ろし、薫は了にビール、と命令した。
冷蔵庫から缶ビールを一つ出して放り投げてやると、かろうじてサンキュ、とつぶやく。こいつには茉莉花の話はタブーだな、と了が思っていると、母が暢気な声で今日の目撃談を話してしまった。
案の定、薫の機嫌はますます悪化した。
「なんで黙って見てたんだよ? そいつの素性を確かめなくてどうするんだ、この役立たず‥!」
「いいじゃん。別に楽しそうにデートしてただけだよ? 茉莉花だってデートくらいするよ、一応年頃の女なんだしさ。」
ムカッとして言い返した。
「あいつは普通じゃないだろ? へんな男に瞞されたらどうすんだよ?」
「普通じゃないから、瞞されるはずないんじゃんか。‥祖父ちゃんの夢のお告げもあることだし、放っておけばいいんだよ。」
「祖父さんのお告げ?」
母は次に父が見た夢の話をした。
「護ってくれるって‥‥何だ? じゃ、茉莉花は危険なのかよ?」
「さあ? そうは言ってなかったわよ。詳しい話はお父さんに訊いて。」
母は明らかに面倒くさいという顔で、台所へ逃げこんだ。
兄は険悪な表情で黙りこんだ。
―――こいつ、やっぱり‥シスコンだよな。
コーラを飲みながら横目で兄の顔をつくづく眺め、了は昔からの疑惑を心中ひそかに上書きした。
了にとって姉の茉莉花は、幼い頃には話だけで十歳の時に急に実体化した、そんな印象の人だ。ちょうど了が生まれた頃に事情があって祖父の家に入ったと聞いてはいたが、中学入学と同時に戻ってくるまで会ったことがなかった。
第一印象は暗い女、それだけだった。
静かな視線でいつもどこか違う場所を見ていて、少し怖い感じがしたものの、不思議と姉だという実感はすんなりと胸におさまった。面立ちが兄や自分とよく似ていたせいもあるかもしれない。
祖父の家に預けられていた事情を理解したのは、物の怪がらみで腕を折った体験をした時だ。理由も解らずに冷や汗が出て気分が悪くなり、痛いと思ったら右の手首を骨折していた。茉莉花がすまなそうに言うには、自分に話しかけてきた物の怪が弟だと知って悪さをしたのだそうだ。そう言えば茉莉花が不意に現れて鈴を鳴らしたら、気分は良くなったなと思いだした。
一緒に暮らしたのは六年だけだが、兄のように気難しくもないし傲慢でもないし、空気みたいにあっさりしていた。両親が、特に父親がべたべたと溺愛していなければ、いるのを忘れるほど静かだったと思う。
了にとっては姉はそんな女だったが、兄の薫にはまた違っていたようだ。
茉莉花が帰ってきた日、兄はいつものように眉間に皺を刻んでいたが心なしか嬉しそうだった。当時も今も変わらず、世の中全部に喧嘩を売って生きているような男が、二つ下の妹を見てほんのわずかだけ頬笑んだのにはびっくりした。了にとっては初対面の姉に、お帰り、と聞いたこともない優しげな声を出したりして、何が起きたかと思ったものだ。
あとで母に聞いたのだが、茉莉花が祖父の家に預けられた日も四歳の薫はバカ泣きしたそうだった。無愛想で面倒くさい性格の兄だが、妹弟に対する身びいきがメチャクチャに強いのは了も体感的によく知っている。
だが身びいきが嵩じての茉莉花への偏愛は少し度を超している。
兄にしてみれば普通ではない力を持って生まれた妹が不憫で仕方がないのだろうが、性根が偏屈なだけに、父の親バカ溺愛のような微笑ましさが不足している、と了は思う。
当の茉莉花は父や兄の過保護な愛情など、あまり意に介していない様子で―――というよりあれが普通の家族愛だと誤解していたようだったが、とにかく昨年の春あっさりと振り切って独り立ちしてしまった。
あれから一年余り過ぎて、薫も茉莉花のことは諦めたように見えたけれども、口に出さないだけでまだ気にかけていたのだろうか。
晩になって帰宅した父の話では、茉莉花の相手は前世からの約束があった男だとかで、父とても本心は穏やかではないらしかったが、夢の中で祖父に釘を刺されたらしい。
「この縁を切っちまえば‥茉莉花はたぶん人でいられなくなるだろうよ。だがもしも、前世の約束より固い縁を結べれば、人の世でごくまっとうな人生が送れるようになるだろう。おまえたち家族との縁も普通に繋げるようになる。今は辛抱して静かに見守ってやりなよ。」
話そのものがオカルト的だが、姉に関する限り了の中では十分納得できる内容だ。
薫も父に余計な真似をするなと言われたので、それ以上素性を突きとめるとは言い張らなかったが、そもそも父自身が気になって気になって仕方ないようだった。
「茉莉花が‥ピンクのワンピース‥? 手を繋いでいたのか‥‥。」
ぶつぶつつぶやいているのがうっかり聞こえてしまった。
―――やれやれ‥。親バカとシスコンと、どっちがやっかいだろうな?
了は姉の後ろ姿を思い浮かべ、黙っていてやればよかったとちょっぴり後悔していた。
月のない暗い庭をひっそりと歩くモノがいた。
モノは百五十年の間ずっとこの屋敷内に棲んでいる。暗くても歩きなれた場所だ。
昨年の夏に大きな事件があったせいで、しばらくの間は力がひどく弱まり、記憶も頭も混乱して半分眠っている感覚でいたけれど、桜の花が咲く頃に漸く主人にめぐり逢えたので力が戻ってきた。今は主人の言いつけで仕事をしている。
屋敷に遺してきた姫さまがたが心配なので、様子をまめに知らせてほしいと主人は言う。だからモノはせっせと知らせているのだけれど、どうして主人が屋敷に戻ってこないのかがよく理解できない。主人は事情があって今はまだ時期ではないのだと言う。だからおまえも屋敷 裡の者に存在を知られてはいけないよ、と。
今夜の務めはとても重要だと主人は言った。モノの働き如何では主人は屋敷に戻れる。だから決して失敗のないよう、精確に慎重になさねばいけない、と。
モノは指定された場所にたどりついた。
どんよりと暗い空の、雲の切れ間から一条の月光が注がれる。
主人に渡された術具でゆっくりと目当ての場所を探す。間違えればたいへんなことになるので、くれぐれも慎重に行えと言い含められている。
やがて術具が仄かに光った。古えの陣の痕跡がぼうっと白く浮かびあがる。
―――ああ、ここだ。
モノは指先に霊力を集め、命令どおりに古えの陣の上に新しい陣を上書きした。
もとよりモノはこの屋敷に属するモノだから、古えの陣がモノの霊力を拒絶することはない。仕上げとしてモノは中心に小さな鏡を置き、主人より預かった札を貼った。
これで仕掛けは万全だ。
―――ご主人さまが、早くお屋敷に戻れますよう。
雲を透かして映る月影をそっと見上げた。
ぼうとにじむような柔らかな光が、じっと見ているうちにモノの記憶を混乱させる。
―――わたしは‥。何か大切なことを忘れているような‥。
月が隠れ、再び闇におおわれた。モノはひっそりと吐息を漏らした。