第十四章
鳥島が飛びこんだ時、キャビン内では賑やかにパーティが進行していた。
なんといっても中心は新人イリュージョニストの吉川聖だ。
ホストのバイオリニストは傍らの友人と談笑しつつ、やや呆れ気味な視線を吉川の回りに群がっている妻や妻の友人たちへ向けている。どうやらすっかり元気になったみたいだ、と皮肉のこもった声が聞こえた。
鳥島は息を調えて、堂上玲の白いタキシード姿を探した。
―――最近仲良くしている女‥?
まったく心あたりはない。自慢ではないが鳥島の身辺には女っ気はゼロだ。
最初に頭に浮かんだのは茉莉花だったが―――部屋の奥まった席で艶やかな振袖を纏い、静かに座っている姿が目に入ってほっと安堵した。
「どうしたんです、鳥島さん? 小橋と坂上は大人しく連行されたみたいだけど、何かあったの?」
後ろから聞こえた声に、慌てて振り向いた。玲が立っていた。
「いや‥。坂上が気になることを‥。」
急いで説明しながらも、最初に茉莉花を思い浮かべたのはややこしくなるので内緒にしておいた。そして話しているうちに、咲乃のことだと気づく。
咲乃とは先週、亜沙美の一周忌に連れだって出かけたばかりだし、春からは一人になった彼女を心配して何かと連絡したりしていた。鳥島からすれば咲乃の両親に遺言で頼まれたわけで、保護者代わりのつもりだったが、第三者から見れば女子大生に入れあげている三十男にしか見えなかったかもしれない。
玲は眉をひそめた。
「青山の‥知人? まだそんなのがいたのか‥。やんなっちゃうな。」
「とりあえず咲乃さんに連絡しないと。」
「無理だよ。港湾内とはいえ、携帯は圏外だ。咲乃さんを欲しがってるなら能力者か物の怪だろうから、警察じゃだめだしね。‥‥健吾に頼もうか。今、困ってるみたいだからちょうどいいし。」
玲の視線の先では、吉川聖が女性たちの攻勢に辟易している最中だった。玲の手招きに気づくと、あからさまにほっとした感じでこちらへ戻ってくる。
玲は手短かに咲乃の様子を見てきて欲しいと頼んだ。
「狙っているヤツがまだいたみたいなんだよ。こき使って悪いけど、とりあえず見にいってくれないか? 俺たちもすぐ追いかけるから。」
はい、と返事をしてすうっと消えた。
そこへ来合わせた桂崎 真実は、目をぱちくりさせた。
「またイリュージョン‥? ね、堂上さんてもしかしてほんとうに‥人ではない人を雇ってるの?」
玲は答えずに微笑を返して、そのドレス似合ってますよ、と言った。彼女は玲が用意したというピンクのイブニングドレスを着ていた。
「まあ‥ピンクって年齢でもないけどね。でもほんとにこれ着るのに意味があったの?」
「ばっちりですよ。ね、鳥島さん?」
鳥島は返答に困って曖昧にうなずく。玲は真実に向き直った。
「ところで桂崎さん。ちょっと緊急事態なんだけど、警察の高速艇でぼくを先に上陸させてもらえませんか?」
「ああ、その話で来たのよ。磯貝くんから伝言、待たせてるから早くって。鳥島さんもでしょ? 磯貝くんとあたしは『懐古堂』さんと後発のランチで戻るから。」
「ありがとうございます。」
玲はさっと身を翻して、ホストへ挨拶をするとさっさとデッキへ向かった。
後に続きながら、鳥島は訊ねる。
「茉莉花さんに伝えなくていいのか?」
「あとで叱られるよ。今言えばついてくるって言うから。物の怪なら彼女のほうが適任だけどさ、人間だったら彼女はいないほうがいいんだ。」
「なんで‥?」
「咲乃さんも人のやり方で護ってみせるって若さまに見得切ったんだ。だから二度と手出しできないようにしなきゃ意味ないでしょ? ‥‥始末をつけるとこ、見られたくないじゃない?」
やれやれ、いったい何をするつもりなのか。鳥島は心の中で溜息をついた。
健吾は瞬時に白崎健吾へ戻ると、咲乃の部屋の前に下りたった。
チャイムを鳴らそうかどうしようかと迷ったあげく、心の中ですみません、と詫びて、姿と気配を消して部屋の中に入る。
咲乃は机に向かって、勉強しているようだった。気配は安定していて、何かが起きた様子はない。しばらく見守ることにして、部屋の隅の物陰にたたずんだ。
咲乃の気配は少しだけ花穂と似ている。
温かくて優しい、春の日溜まりみたいな感じだ。花穂のはその中で咲き乱れる花のようにもっと強い芳香を放っている。
いずれにしても咲乃の香りは物の怪にしてみたら垂涎ものだろう。物の怪である健吾には感覚的に理解できる。
―――俺のだよ。手を出すなよ、健吾。
心の深い底から声がした。白炎か、と微かに戸惑った。出てくるつもりなのだろうか。
―――出てこなくていい。咲乃さんを護るのは俺の仕事なんだから。
―――咲乃は俺のものだから、俺が護るさ。おまえみたいなガキに任せておけるか。
―――だってあんたがいちばん、咲乃さんにとって危険なんじゃないか?
ふふふ、と白炎が微笑った。
―――言うようになったな。たかが俺の残留霊力から派生した分際で。だが‥幻術も巧くなったし、たった三ヶ月ですごい成長ぶりだ。やっぱり俺とあの男は相性がいいんだよ。
健吾はちょっとためらってから、白炎に訊ねた。
―――あんたがやったこと‥つい最近聞いた。なんで‥あんなひどいことを‥?
―――退屈だったからだよ。退屈だから人間界へ行って、つい力を持て余しちゃったんだな‥。おまえは幸運なんだぜ? 持て余すほどの力じゃないからな。
―――解らない‥。誰かの悲しんだり苦しんだりする感情は‥気持ち悪くないのか? 俺は嫌だ。喜んだり楽しんでいる感情のほうが、ずっと心地いいよ。
健吾は素直に感じるままを言葉にしたのだが、白炎はややたじろいだようだった。
―――気持ち悪い‥か。おまえは案外と、鬼人の本質を継いでいるようだ。
―――鬼人の本質?
―――そうだ。俺だって生まれたての頃は、清涼な空気を快く感じたもんだよ。だが百年も同じことを繰り返しているとうんざりしてくるのさ。この手で滅茶苦茶に破壊したくなる。
遠い場所で白炎が溜息をついた気がした。
―――解るか、健吾。俺は生まれた時から唯一の存在だった。たった一人で鬼人界を背負えと言われて‥。育ての親たちを遙かに超えてしまったあとでは、あっという間にすべてにおいて俺より上の存在はいなくなったんだ。鬼人界は閉じた世界だ、何も起こらない。小さなトラブルなど俺がひと言争うなと命じれば誰も逆らえなかった。平和で清浄で‥。人間界のように必死で均衡を保つまでもなく、力はさざ波程度しか動かない。そして少しずつ‥縮んでいる。
―――縮んでいる‥? 世界が縮むって‥?
健吾の口調があまりに無邪気だったせいか、白炎は屈託ない笑い声を上げた。
―――おまえは生まれたてだから解らないのさ。人間界だってあちこち、広がったり縮んだりしているんだぜ? だから夜鴉どももバランスを保つのに躍起になってるんだ。‥とにかくそんな終わった世界で、俺は使うあてもない霊力を持て余して百年も過ごした。白鬼の寿命は七百年だ。爺いどもが死んだあと、俺は一人で四百年を過ごす。それで俺は気づいたんだよ。俺は‥鬼人界の終焉を見届けるために生まれたんだ、って。
世界の終焉を見届けるため。言葉どおりならそれはずいぶんと苛酷で孤独な運命だ。
―――もしかして‥。それで先に、壊してしまおうなんて考えたわけじゃ‥?
白炎はくすくす笑った。
―――鬼人の霊力で鬼人界は壊せない。走ってる車でよその車に突っこめば壊せるが、自分に突っこめやしないだろう? だから俺は俺自身を鬼人界から消してしまうことにしたんだ。扇の要がなくなれば滅亡は早まる。鬼人界には力のバランスを束ねる霊山というのがあって、主が必要なんだ。爺いどもがいるうちはまだいいが、いずれ誰もいなくなれば鬼人界はドミノ崩し的に崩壊していくだろう。俺は見届け人なんてまっぴらごめんだからね。
健吾は黙って白炎の言葉を噛みしめた。
白炎の存在意義が、鬼人界の最後の一人が無事に生涯を終えたあとたった一人で終焉を見届けることにあるのならば、確かにそこに生きる意味があるのだろうか。
健吾はたまたま生まれたモノであって、白炎のように最初から存在意義を持って生まれたわけではないけれど、玲は生きろと言ってくれた。生きる理由は探せばいいし、その都度変わってもいいのだと。生まれたから生きる、生きものはすべからくそういうものだと玲は健吾に教えてくれた。鬼人界と人間界では生きものの定義が違うのか?
たどたどしい言葉で健吾は白炎に伝えてみた。
結果は同じだったとしても―――とりあえず理由を探すことだけでも、意味があるのではないのか? 滅びに向かう世界であっても、その中で多くの人が生まれたり死んだりするのだから、世界が続くことそのものに意味があるのではないのか?
―――つまり言いたいのは‥。壊すより生み出すほうが‥継続するほうがずっと難しくて楽しいことじゃないのか、ってこと。死ねばそれでお終いだけど生き続けていれば何かが生まれる。破壊だって同じだよ。それで終わってしまうからまた退屈になるんだ。いつまでたっても満足はできないよ。
白炎は再び軽やかな笑い声を上げた。
―――赤ん坊のくせによく解ってるな‥。主人どのの受け売りか? だがおまえの言うとおりなのだろう。霊力を失って身動きもできなくなって、今まで見下ろすだけだったものを見上げてみると違う面がよく見える。幸い、俺はもう霊山の礎石になる運命からは解放されたんだ。残ったのはやたら長い寿命だけだがね‥。
その時、咲乃の部屋で何かが動いた。
部屋じゅうに闇が立ちこめ始める。咲乃は不穏な気配を感じ取って、机から顔を上げた。
窓ガラスが突然、バリバリと音を立てて割れた。
「きゃあっ‥!」
咲乃の体が爆風で吹っ飛ぶ。かろうじて健吾は間に合って、無傷で受けとめた。
「‥‥健吾さん?」
咲乃は震えながらしがみついてきた。
「はい。主人の言いつけで‥。」
しかし相手が見えない。複数の気配が蠢いているのは解るが、部屋じゅうを押し包んで動き回っていて所在がつかみにくい。
「これは‥。春先のファミレスの地下に蠢いていたモノと同じだ‥。いったい何なんだろう?」
「春先って‥。瑞穂さんたちが襲われた、あの事件‥?」
健吾はうなずく。とにかく咲乃を連れて逃げなくては、と思うのだが、この空間の突破口が察知できない。
―――健吾。体を俺に貸せ。おまえじゃ無理だ、咲乃を護りきれない。
白炎の真剣な声がした。
「でも‥。主人の許可がなくちゃ‥。」
―――いつもみたいに俺が勝手に出てきたことにしろ。でもおまえの協力が要る。早くしろ、ためらってる暇はないぜ‥!
「咲乃さんを‥怖がらせないで‥。」
あたりまえだ、と声がして、健吾の髪がみるみる白く変わった。
「咲乃、しっかりつかまってろ。強行突破するぞ‥!」
叫ぶが早いか、白炎は妖力を全身に漲らせて、真っ黒に開いた異空間の闇へと飛びこんだ。
玲と鳥島が桜の誘導でたどりついた場所は、咲乃の部屋であって違う場所だった。
窓ガラスは粉々に割れていて、真っ黒な穴がそこから異空間へと続いている。
「咲乃さんは‥ここから連れていかれたのか‥?」
「はい。健吾さまの気配も‥。この先へまいりますか、ご主人さま?」
「行けそうなら行こう。」
玲について鳥島も穴に入った。奥から風が微かに吹いてくる。
「この通路を開いたのは物の怪かな、桜?」
「人の気配を感じますので、何らかの術かと‥。一人ではないようです。ですが‥どうやら健吾さまが破ったようですね、すぐ近くに出口があるようです。」
「健吾が‥?」
桜は不安げに首をかしげた。
確かに健吾の妖力なのだとすれば―――白炎か。また出てきたならちょっと都合が悪い。
ほんの数歩先で突然出口に出た。春に傀儡師が咲乃を襲った公園だ。
「‥‥遅かったな、主人どの。片づけちまったよ。」
「白炎。勝手に出るなと言ってるのに‥。」
玲は溜息をついた。背後で鳥島が息をのんでいる。
「鳥島さん。説明はあとでゆっくりするから。あれは健吾の体なんだ、危険はとりあえずないよ。‥‥咲乃さん、大丈夫? 怪我はない?」
ベンチに座りこんで茫然としていた咲乃は、青ざめた顔を上げて玲と鳥島を見た。黙ったまま小さくうなずく。彼女の回りには見知らぬ男たちが伸びていた。
「おい‥。まさか殺してないだろうね?」
立ったままの白炎がからからと笑った。
「健吾が殺すなって言うからね、手加減したよ。」
男たちは気絶しているだけのようだ。数えてみると七人もいる。
春の事件の際に四宮本家内で見た顔があるかどうか、念のために確認した。玲は一度見た顔は忘れない。彼らは初めて見る連中だ。
玲の考えを読み取ったかのように白炎が薄く笑った。
「こいつらは能力者じゃないぜ。俺がのした途端、体から妖気が消えやがった。遠隔操作で操っていたんだろう。‥‥憑依の術だよ。」
「憑依‥? 他人に乗り移る術か。こんなに大勢に‥?」
「以前の俺なら同時に二、三百人くらい別々に操れたけどな‥。健吾じゃ三十人がやっとだろうよ。人間じゃ、鈴の女だって三人がいいとこだな。人間は体の感覚に依存しすぎるから、憑依するほうも消耗が激しいんだ。」
「じゃ、相手は物の怪の可能性が高いっていうのか‥?」
白炎は肩を竦めた。
「さあな‥。物の怪なら大したヤツじゃない。人間なら侮れねェヤツだ。分が悪いと見て、すぐに引いたあたりはなかなか冷静だしね。‥俺が残っておまえを待ってたのはさ。この先もまだ、咲乃は襲われそうなのかどうか訊くためだよ。どうなんだ?」
「‥黒鬼が戻ってこない限り、咲乃さんは狙われる。四宮本家の敵や物の怪、とにかく人の世のバランスを崩したがってる連中にね。最悪の場合を避けるために、夜鴉の若さまは咲乃さんを自分の庇護下に入れることも考えてる。」
玲の言葉に咲乃は驚いて顔を上げた。
白炎は思い切り顔をしかめた。
「庇護下って‥。妾にする気かよ、あの鴉め‥!」
「人のやり方で護ってみせるって啖呵切った手前上、咲乃さんは『懐古堂』で保護する。世の中の均衡がどうこう以前に、咲乃さんを護るのはうちの姫さまの固い意志だからね。‥初めての友だちなんだってさ、咲乃さん?」
微笑みかけると咲乃の強張った顔が少し緩んだ。
白炎はそんな咲乃を見やって、口もとに皮肉な嘲笑を浮かべた。
「ふふん‥。用は済んだ、俺は消えるよ。あばよ、咲乃。」
「あ‥。」
すうっと白い髪が黒く変わって、白炎の姿は健吾に戻った。何か言いかけて咲乃は黙りこんだ。
健吾は玲の顔を見て、気まずそうに目を伏せた。
「すみません、主人‥。俺‥俺じゃ、咲乃さんをどうやって助ければいいか‥解らなかったので‥。そのう、白炎に譲れって言われて‥譲ってしまいました‥。」
玲はつかつかと健吾に近づくと、その肩を両腕でしっかりと抱きしめた。
「俺こそごめん。この間、証言を取るのに長い時間呼び出したせいで、出やすくなっちゃったのかも‥。嫌な思いさせて、ごめん。」
「主人‥‥」
健吾の顔を見てにっこりと微笑むと、玲は闇の通路をつくづくと見た。
「咲乃さんの部屋に戻ろうか。‥桜、先導頼むよ。」
「ご主人さま。お待ちください‥。姫さまの気配がこちらへ近づいておられますゆえ。」
桜の声にトンネルの向こうをのぞくと、振袖姿の茉莉花が金色の結界に包まれて早足で歩いてくるのが見えた。常にもまして冷ややかな―――凍りつきそうなほどの冷たさを体現している。黙って置いてきたのを怒っているのか、咲乃を心配しているのか。たぶん両方だろうな、と玲は目を逸らした。
茉莉花は玲に目もくれず、まっすぐに咲乃の傍へと向かった。
「咲乃さん‥大丈夫だった?」
「ありがとう‥。ごめんね、いつもいつもお世話をかけて‥。」
茉莉花の背後からすたすたと出てきたのは桂崎真実だ。その後ろに恐る恐るといった顔の磯貝誠が続く。
「すごい‥。磯貝くん、あたしたちもとうとう不思議体験しちゃったみたいよ? これ、何なのかしら‥。あ、人がいっぱい倒れてる。」
「咲乃さんの部屋に入りこんで襲撃した連中なんですけど‥。どうやら操られてただけみたいですよ。今度は憑依の術だとか。」
憑依、と茉莉花が振り返る。
目が合うとつんと逸らして黙りこんだ。半端なく怒っているのか? 憑依の術について教えてもらうのはあとでうんと叱られてからでなければ無理か、と諦める。
誠がおずおずと訊ねた。
「あの。あちらの部屋で爆発の痕跡があったんですけど‥。あれは誰が‥?」
「あ、あれはこの人たちです。ていうか、操っていた人なんですけど‥。」
健吾の説明では彼らは全員で一つのモノみたいに動いて、妖力の塊をぶつけてきたそうだ。誠は複雑な顔をした。
「妖力‥の塊‥?」
「今はもう、普通の人間に戻っていますからできないと思いますけど‥。」
「ふうん‥。とりあえず、家宅侵入、器物損壊、婦女暴行未遂で現行犯逮捕しとこうか。ね、磯貝くん。身元くらい調べておかないと。」
「‥あとで教えてもらえますかね、桂崎さん?」
携帯を取り出しながら玲のほうを向いて、真実はにまっと微笑った。
「今度はディナーで、どうかしら?」
桂崎さん、と誠のたしなめる声が空しく響く。鳥島はふきだしそうな顔でこらえている。
「いつでもどうぞ。最高級のディナーを用意して、ご連絡お待ちしてます。」
玲は優雅に微笑んだ。
咲乃を連れて『懐古堂』に戻ったあと、着替えるために納戸へ向かった茉莉花をつかまえてごめん、と玲は謝った。
「説明もなく置いてきてごめん。急いでたからさ‥‥。」
茉莉花は意外にもびっくりした顔をして、え、と見返した。
「いえ。事情は桂崎さんに聞いたし‥。あの場合、仕方がないから‥。」
「‥‥怒ってるんじゃないの?」
「は?」
「だってさっきから、目も合わせてくれないし、黙ったままだし‥。」
茉莉花はうつむいて少し赤くなった。
「ごめんなさい。考えごとをしていたから‥。無視したつもりじゃないんだけど。」
心の底から安堵して、玲は訊ねた。
「‥憑依の術のこと?」
「ん‥。他にもいろいろとね‥。」
微かに眉をひそめて、茉莉花は吐息をついた。そして背を向ける。
「明日、ちゃんと話すわ。お休みなさい。」
待ってよ、と玲は後ろから抱きすくめた。
「‥‥何?」
「何、じゃなくて。今回、俺はずいぶん頑張ったと思わないか?」
「あ‥。そうね、ええと‥。どうもありがとう。うまく言えないけど、とても感謝しています‥」
「じゃあさ。‥キスしていい?」
茉莉花は呆れた顔でつくづくとこちらを見返した。
「あの‥。この間からそればかりだけど、他にないの?」
「なくもないけど‥。口説き文句なんかうっかり言うと軽蔑の目を向けるじゃないか?」
「嘘っぽいから仕方ないでしょ。全部からかってるだけにしか聞こえないし‥。」
「ひどいな。じゃ、今夜もご褒美はなし?」
茉莉花は疲れたと言わんばかりに大きく吐息をつき、玲の腕をやんわりと振りほどいた。
「‥‥着替えるから。」
すかさず頬にキスした。再び呆れ返った視線。玲はにこっと微笑んだ。
「今夜はこれだけで我慢する。じゃ、お休み。‥‥愛してるよ、茉莉花。」
ぴょんと跳びのいて、階段のほうへ向かう。
まったくもう、とつぶやく声が聞こえた。
―――でも今夜は結界がまったく感じられなかったな‥。
玲は思わずこみあげた想いのままに微笑んだ。そして一気に階段を駆け上がった。
咲乃は茉莉花の寝室に並べて敷かれた布団の中で、悄然と吐息をついた。
自分で自分の身を護るにはいったいどうしたらいいのだろう?
―――初めての友だちなんだってさ。
玲の言葉を思い出して複雑な気分になる。
茉莉花は咲乃にとっても大切な、初めての友人だ。護ってくれると彼女が言うのなら、変に遠慮するより素直に従うほうが迷惑をかけずにすむだろう。これだけ何度も襲われれば、さすがに鈍感な咲乃でもそのくらいは理解できる。
しかし気になるのは以前煌夜が言っていた言葉だ。
咲乃の霊力は四宮本家にも『懐古堂』にも依存すべきではない力であって、どこかへ傾けば人の世の均衡を崩しかねないほど大きいのだと。
「ま。俺といれば問題はないから、おまえは考えなくていいよ。」
彼はそう言って髪を撫でた。だから咲乃は考えなかった。ついさっきまでは、何も。
玲と白炎の会話の内容が、だんだん時間が経つにつれて咲乃の胸にしみこんでくる。
―――煌夜を待ち続けたい。でもそのためには‥一人で闘えるようにならなくてはいけないんだ。
茉莉花のように、瑞穂のように、霊力を駆使して闘う能力を身につけないと、愛しい人を待つ自由さえないのか。四宮に生まれた女の宿命を、咲乃はしみじみと感じた。
母の紫は霊力を捨て、普通の女としての幸せを望んでいたと言う。咲乃も同じ気持ちだけれど、あいにくと咲乃の場合は恋した相手が普通の人間ではない。霊力を捨てる―――それが可能だとしても、捨ててしまえば二度と煌夜に逢うことは叶わない。
溜息ばかりがこぼれる。
就職も決まらないし、この先どうやって生きていけばいいのか。何もかもが行き詰まっている。
いつのまにかうとうとと夢を見ていた。
咲乃は煌夜を探して夜の街をさまよっている。夜の化身のように美しい妖しを知りませんか、と小さな邪気のない物の怪に訊ね回っている。すると一匹の大きな鼠が、知っていると答えた。
あの時は墨染鼠の中に父がいたなんて、全然知らなかった。わずかに残存している意識だけで、必死に咲乃を護ろうとしてくれていたなんて。
鼠は夜鴉の若さまを東京じゅうでいちばん強くて美しい方だと咲乃に説明した。
「きっとお嬢さまを護ってくださいますから‥。」
「ふん。庇護下って、妾にする気かよ?」
不意に白炎の声が混じる。
鼠が手を引いて、さあまいりましょう、と咲乃を促す。
「でもだめ‥。この先には‥煌夜がいないの。若さまは夜の化身のように美しい方だけど、あたしの探してる人じゃない。ごめんなさい、お父さん。あたしは‥煌夜じゃなきゃだめなの。」
すると今度は目の前に煌夜が現れた。
優しい瞳で見つめ、しっかりと腕に抱いてくれる。懐かしい伽羅の香りに包まれながら、咲乃は煌夜、と名を呼んで縋りついた。
煌夜は咲乃の髪をかきあげた。
抱きしめてくれる腕の中で、咲乃は顔を上げて微笑んだ。
夢の中の幻影のはずなのに、妙にリアルな質感を感じる。力強い腕にすっぽりとくるまって、咲乃は目を閉じた。生温かい唇がきゅっと重なって、頭の芯がくらくらしてくる。全身が痺れて陶酔感に酔いしれる。
「咲乃‥。おまえは俺のものだ。他の誰にも渡さない。」
夢だと思いつつも、嬉しくて体じゅうが震える。
「うん‥。あたしは‥あなただけのもの。約束する。ずっと待ってるから‥。」
そのまま咲乃は夢の中なのに意識が遠くなった。
茉莉花が入浴をすませて部屋に戻ってきた時には、咲乃はすやすやと幸せそうな微笑を浮かべて寝入っていた。仄かに全身が銀色の光を放っている。
夢を見ているのだろうと茉莉花は微かに頬笑んだ。
きっとまた、夢で煌夜に逢っているのだろう。彼が戻るまで何とか咲乃を護る手立てを考えなくては、と茉莉花は強く思う。
若頭領や玲は煌夜は戻る気がないと言うけれど、茉莉花はそうは思わなかった。理屈ではない。四宮の女の直感だ。
しかし。やっと片づいたと思ったら、今度は憑依だなどとは。春の事件の際に感じた、あれが手始めだという茉莉花の直感は当たっていたらしい。
憑依の術は、十五年前の祖父の日誌に出ていた。
明日は弐ノ蔵から日誌を出してきて、茉莉花の懸念について玲に相談しようと思っている。どうせ彼をまきこむのは避けられないのなら、あらかじめ知らせておいたほうが結果として彼のためになる。
川井春奈のナイフは茉莉花を目がけて突進してきたのだ。
はっ、と思った時には目の前に背中があった。頭の中が真っ白になって霊力が暴走しそうになる感覚、あれは怖ろしかった。
あとになって落ち着いて考えてみれば、茉莉花が一人で何とかしようと考えたのが危険な状況を生んだのだと理解できる。茉莉花の霊力はとっくの昔に玲をまきこむ選択をしてしまったわけで、どう小細工しても彼をまきこもうとする流れは止められないのだ。ならば逆らわず、初めから二人で協力し合うべきなのだと思い知った。
そっと頬を押さえた。つんと胸が痛くなる。
何だか身の置きどころがない気がして、茉莉花は急いで布団にもぐった。麻の軽い感触が余計な熱を冷ましてくれる。
―――いったい、何を待ってる?
若頭領に訊ねられた時は解らなかったけれど、今は自分が何を待っているのかよく解る。
最期に残った霊力をかき集めて逢いにいったあの日。言いたい言葉を伝えるのがやっとで、返してくれたはずの言葉を聞き取れないまま命を終えた。もちろんその記憶は茉莉花であって茉莉花ではない人のものだ。けれども約束はあの瞬間になされたのだと気づいた時から、たぶん茉莉花は返事の言葉を探している。
一年が過ぎて一緒にいるのがあたりまえになってしまったから、失うのが怖い。これ以上離れがたくなれば、きっともっと怖くなる。しかし茉莉花の霊力は立ち止まることを望んでいないようだった。より強い絆を結ぶよう迫っている。
今夜、初めてその理由が理解できた。五百年の均衡は崩れたのだ。人の世のパワーバランスは乱世に突入し、これからもっと激しい闘いが始まる。境界の場所も、人の世にあるからにはその流れと無縁ではいられないだろう。
明日、四宮本家は大結界を張り直す。しかしその効果は不確定だと茉莉花の直感は伝えている。五百年前の四宮の敵は、夜鴉一族を頂点とする物の怪たちだった。今度は嫌なことに人間同士の争いになるのだろう。あるいは人間とも物の怪ともつかない存在との。
霊力の在りようと気持ちの在りようを重ねる、とはなんて難しいのだろう。
霊力の流れに添って生きるのは四宮の女の宿命だけれど、その在りように玲と一緒にいたいと願う気持ちを重ね合わせるのは―――傲慢ではないのか。止められない想いで彼の今生を縛ってしまったのと同じ過ちを繰り返すだけではないのか。茉莉花の迷いはそこにある。
伝えたかった言葉を思い出した時、自分の心は決まった。
だから今度は待っている。じっと見返していた透徹な瞳が何と答えたのか、あの夢の続きを。
鳥島は深夜のワインバーで一人、献杯を捧げていた。
口にしているワインはリズが好きだった銘柄で、一本十数万円もする。鳥島の懐具合で浴びるように飲める代物ではなかった。だが今夜は特別だ。
坂上久志に関する証拠は、ほとんど鳥島の独自調査によるものだった。教団より『メルサ』に物的証拠が残っているのではと目をつけたのも鳥島だ。
店長を買収できないかと玲に持ちかけたら、玲はついでに店ごと買い上げて資産を押収しようと言い出した。店長や店のスタッフを懐柔するにもそのほうが都合がいいし、危険が少ない。更に船上パーティをもう一度強制的に開かせよう、とアンジュの顧客から『メルサ』と接点のあったバイオリニストを選んで話を持ちかけた。費用はいくらかかったのか、鳥島は知らない。短時間での結着が肝心だからと彼は言った。
それにしても怖いもの知らずの大胆な策だ、とつい思い出し笑いを浮かべる。
堂上玲がこの世で怖れるのは、四宮茉莉花の瞳だけだ。彼には時々ついていけなくなる面もあるが、その一点だけで鳥島はすべてが許せる気がする。
―――リズ。リズは俺のことを‥許してくれるだろうか‥?
坂上が摘発されたと知ればリズはあの世で悲しむかもしれない。それでも仕方がなかったとリズは許してくれるだろうか。
坂上を刑務所に送ったところであの男は何も変わらないだろう。
他人に言われるまでもなく、後悔と自責の念は鳥島の胸から消えることはない。鳥島にできるのは彼女を決して忘れないことだけだ。
深い吐息とともに、鳥島は血のような色のワインを飲みほした。




