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第十章

 最初のメールを受け取ってから二日後、椎名悟は指定された場所に一人で赴いた。そこは都心にあるビルの一室で、広いフロアはがらんとしていた。

 中で待ち受けていたのは旧知の人物だった。一時期は共に史の側近として心を許し合い活動していた仲だけに、椎名はまず驚いたものの、次に激しい怒りがこみあげてきた。

「なぜ‥‥こんなことを? 君だって史さまにはずいぶん世話になったはずだ。どうして史さまの名を騙ったりするんだ?」

 だが彼は椎名に、ここに四宮本家に代わる組織の事務所を構えるつもりだと告げた。

「わたしは史さまの遺志を継ぐつもりです。日本じゅうの霊能力者たちを、四宮の女の支配下から解放することが史さまの願いでした。そして新たに統制の取れた組織を築くのです。椎名さん。そのためにはあなたの知識と技術が必要不可欠なのですよ。ぜひ協力してください。わたしと一緒に史さまの遺志を実現させましょう。」

 椎名の怒りに慌てることなく、彼は穏やかな声で滔々と史の理想とやらを語り続ける。

 椎名の胸にはやりきれない想いがふつふつと湧いてきた。

 敬愛していた前当主が、母や娘たちへの下らぬ嫉妬に囚われていたなどと思いたくなかった。事実嫉妬はあったかもしれないが―――実際に四宮本家を解体してしまおうなどと浅はかな考えを持つだろうか? 史は鬼に心を喰われたと瑞穂は言った。それでも史が四宮を潰そうと考えるはずはない、と椎名は思う。認めたくないだけだとしても信じている。

 だから目の前の人物に対してはただ軽蔑の視線だけを返した。

「協力なんてありえない。わたしは四宮本家の人間だ。君の主張は何があっても認められない。」

 彼は薄い笑みを向けた。

「殊勝な心がけだけど‥。椎名さんのほうが四宮本家に見限られてるようですよ? あなたには尾行がついています。四宮瑞穂は椎名さんを疑っているってわけだ。」

 言われて初めて、三橋明人の微かな気配に気づいた。

 では瑞穂は―――あの組み合わせ術が椎名の考案した術だと見抜いたわけだ。さすがによく勉強している、と椎名は誇らしくさえ感じた。

 この一年、必死で当主になろうとする瑞穂の近くでずっと支えてきた。おこがましいが、ひそかに父代わりのつもりでずっと見守ってきたのだ。こんな輩に―――四宮の女に生まれた辛苦など何一つ理解できない人間に、あの気高い少女を踏みにじらせてたまるものか。椎名はとっさに心を決めた。

 腕時計を外し、目の前の相手とのちょうど真ん中地点に放り投げた。

 腕時計には万が一の時のために四宮式封印結界陣を仕込んである。陣はたちまち発動し、椎名と相手をぼうっと青白い光で包みこんだ。

「封印結界‥‥?」

 椎名は黙って仕込んである二つめの陣を発動させた。陣の中央の時計からゆらゆらと青い炎が立ち上ったかと思うと、すぐに激しい炎の柱が陣全体に広がった。

「これがあなたの返事ですか‥。」

 相手は体を包んでいる青い炎を訝しげに眺めている。

 椎名は静かに印を結び、指で螺旋を描いた。描かれた螺旋は青い紐となって、相手の体をぐるぐる巻きに縛りあげた。

「‥禁術の研究などすべきではなかった。わたしは罪を命であがなうつもりだ。君には最後までつきあってもらう。」

 すうっと青ざめ、相手は激しく抵抗したが、彼の霊力の程度は知っている。椎名の術をほどくことはできないはずだ。

 二つめの陣は、椎名の生命力を陣中央に集め、相手を緊縛する攻撃力へ変換する禁術だった。封印結界を組み合わせることで空間を仕切り、相手の力を抑制して閉じこめ、効率よく攻撃を加えられるように工夫してある。最終段階にはもう一つ、自分の体を核にして相手ごと自爆する術を組みこんであるが、それはぎりぎりまで隠しておかねば効果はない。

 椎名は急速に体の力が抜けていくのを感じつつ、緊縛術をしっかりとかけ続けた。

 ―――もう少し。最後の術を‥‥。

 突然、相手の体を怪しいどろどろした影が包み始めた。

 何が起きたのか。封印結界の中に侵入できるモノなどいないはずだ、とよくよく見ればどす黒い影は彼の体からにじみ出てきているようだった。

「椎名さん。悪いけどわたしは昔のわたしではないんですよ。こんな術、通用しません。」

 にやりと虚ろな瞳で薄ら笑うと、相手は体をぶるっと震わせた。

 あっという間に封印陣の中を黒い靄のようなモノがたちこめていく。

 椎名は思わず、膝をついた。息苦しさがこみあげて、呼吸がし難くなってくる。口を開けて、はあはあ、と荒い息を吐いた。

「残念です。‥‥さようなら、先輩。」

 黒い影が触手のようにどろどろと椎名を逆に縛りあげてくる。

 ―――これは‥妖力。物の怪と契約したのか‥‥。

 息苦しさに急速に薄れゆく意識の奥で、必死に最後の自爆術を発動しようと試みた。しかしうまく発動できない。

 これまでかと諦めた瞬間だった、

 不意に体が解放され、反動で相手が大きくふっとんだ。咳きこんで倒れかけた椎名を誰かの腕が受け取り、別の誰かの背中が見えた。

 ―――長い髪と‥紅い光‥。お嬢さま‥?

 ぶはっ、と空気の塊を吐き出して、呼吸が戻ってきた。耳に音が、目に光が徐々に戻り始める。三橋のしっかりしろ、と叫ぶ声がはっきり聞こえた。

「‥三橋か。」

「このバカ‥! 生命力変換陣なんか使いやがって‥死ぬつもりか? お嬢さまの言うとおりだった。椎名は責任感が人一倍強いから、命と引き換えにしてでも自分で始末をつけようとするかもしれないって‥‥。」

 三橋は少年の頃のように、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしていた。

「決して‥一人にするなって‥。お、お嬢さまが間に合ってくださってよかった‥。俺ではとても、あんな術は破れないし‥。」

 ―――ああ。そうか‥。

 椎名は三橋の腕の中で、体の力をどっと抜いた。

 龍笛の音が高らかに、涼やかに響いてくる。美しい調べだとつくづく思った。

 結着は難なくついたようだった。怒濤のごとく繰りだされた破邪の力と浄化の紅い光が虹のようにきらめいている。

 龍笛の調べが聞こえなくなった時、床に気を失って伸びている男の姿があった。

「お嬢さま‥。申しわけございません。」

 振り向いた瑞穂に、ふらつきながら畏まって椎名は頭を下げた。

 瑞穂は泣き笑いのような表情を浮かべ、低い声で椎名を叱責した。

「何考えてるの。自分一人の命だと思ったの? ‥冗談じゃないわ。」

「お嬢さま‥。」

「どうして一人で会おうとしたの? ‥お父さまが生きてらっしゃるかもしれないと‥本気で思ったの?」

 椎名はうなだれて、小さくうなずいた。

「史さまが生きておいでなら‥‥いえ、たとえ幽霊であっても‥。わたしは命を救っていただいた恩を返さなければと‥。」

 瑞穂は片膝をついて椎名の前に屈みこんだ。

「あのね‥。言わなかったけれど‥お父さまはあたしと妹たちの目の前で、鬼人に焼かれて一瞬で灰になってしまったの。体だけじゃなくて‥魂もすべて‥。だから幽霊にさえもなれないのよ。どこにももう‥いらっしゃらないの。」

 驚いて顔を上げた椎名の手を取って、瑞穂は優しく立たせた。

「ごめんなさい。思い出すと今でも、ただ見ているしかできなかった無力な自分が‥悲しくて‥。どうしても言葉にできずにいたの。ちゃんと説明しておけば、瞞されたりしなかったのにね。」

「いいえ‥わたしが浅はかでした。ほんとうに申しわけありません‥。」

 椎名は急いで首を振った。その肩を三橋がぽんぽん、と叩く。

 瑞穂はほのかに微笑を浮かべ、気絶している男を見遣った。

「この人も真宮寺森彦と同じね。邪気の塊を浄化したら、ひとかけらしか魂が残らなかったわ。‥‥職場復帰は無理でしょうね。青山参事官さん。」

 三橋が複雑な表情で眺め、一応救急車を呼びましょうか、とつぶやいた。


 手元に引いていた太い糸がぷつん、と切れた。

 ―――また失敗したのか‥。約束の魂がわが手に入らぬとは。四宮は(ようよ)う我の存在に気づいたと見ゆる。さて‥‥この先、如何いたそうか?

 教団本部の奥座敷に座っている着物姿の女は、手元の水晶珠をとっくりと眺めた。

 四宮立夏に酷似した面差しに四宮の紋入りの黒羽織。水晶珠に映し出した光景によって、表情がくるくると変わる。その度に気配も変わった。

「四宮立夏の面ももう利用価値はなさそうだし‥。ここにある禁術書や術具の類は四宮にくれてやるには惜しいが、逃げ出す頃合いであろうの。」

 ぶつぶつとひとりごとを言いつつ、女の顔は少しずつ鬼女の面に変貌していく。

 鬼女は蒔絵の手文庫を手に取った。静かに開けてみて、にんまりとほくそ笑む。その中には血判を押した証書が入っていた。四宮史の名が記してある。

「直系の血を軽々しく押すとは‥。四宮も焼きが回ったものよな。いちかばちか、これで本家に討ち入ろうか? それより‥‥別の依代を探して出直すがよいか‥。」

 ふうん、としばらく考えこむ。

 やがて鬼女ははた、と手を打ってにんまりと(わら)った。

「そうじゃ。お誂え向きの女がいたではないか。我をよみがえらせる手伝いをしてくれた女が‥。あれを依代にすればよい。」

 すうっと立ち上がって、体をしゅん、と震わせる。

 四宮立夏の体がほろほろと崩れ落ち、畳の上に倒れた。息は既に絶えている。横には黒い着物を着た下げ髪の人形が立っていた。

 人形は蒔絵の文箱から証書を取りだし、懐に押しこんでとことこと歩き出す。障子を開けて広縁へ出ると、きょろきょろとあたりを見回した。庭へぴょんと下りたち、一目散にまっすぐ裏口へと走り出した。

 ―――明日にも我を捉えに四宮の姫がここへ来る。その前に逃げ出さねば‥。

 四宮の姫の力は怖ろしい。恨みを晴らすどころか、逆に五百年も封じられる羽目になった記憶は人形の中にまだ残っている。

 人形は無事に外へ出ると、人目につかない茂みの中へ隠れた。

 袂からいろいろな糸の束をつかみだし、撚り合わさった中から濃いピンク色の糸を引き抜く。印を結んで呪文を唱えると、ピンクの糸は人形の両手にしっかりと吸いついた。

「さて‥。まもなくここへ迎えにくるであろうから、今しばらく隠れていようか‥。」

 人形は歪んだ笑みを浮かべ、つぶやいた。


 特殊能力捜査課室の隅で祖父から連絡を受けた誠は、短い返事を返して電話を切った。

「‥‥ほんとなのかよ。人形が‥操る?」

 理解できたのは、堂上玲の組み立てた推理は概ね的を射ていたという点だけだ。

 誠が四宮と半縁切り状態なのは事実だが、実は祖父個人から内々に小橋一也を探ってほしいと依頼されていた。春から今まで既に数回報告している。昨晩は堂上から聞いた内容を、念のためにとそっくりそのまま告げた。

 今しがたの祖父からの電話は、昨晩の情報が非常に役に立って椎名を救うのに間に合った、との礼だ。相手は誠の推測どおり、青山芳明参事官で間違いなかったそうだった。

 そこへ緊張した様子で真実が外出から戻ってきた。唇をぎゅっとかみしめて、何やらたくらんでいるような顔だ。

 真実は静かに誠に近づくと、小声で話しかけてきた。

「磯貝くん‥。青山参事官が急に倒れたんですって。命には別条ないらしいけど、職場復帰の見こみはないそうよ。」

「‥‥どこで聞いてきたんですか?」

 警察庁、と真実はすまして答えた。

「小橋審議官のお部屋にちょっと報告書を出しにいってね、たまたま聞いちゃった。小橋ったらものすごく怯えてたの。なのに来客があって、その男と話してるうちにみるみる落ち着いてきたのよ。‥‥堂上さんの話って真実だったのかもね。だってその男、坂上久志だったんだもん。」

「坂上? 確かなんですか?」

「もちろん。偽名使ってたけど、わたしは担当捜査官だったのよ。ひと目見ればすぐ解るわよ。あいつ海外高飛びしたって聞いたから、散々変装モンタージュ作ったしね。多少眼鏡をかけたり、髪を染め直したりしたって解るの。」

 真実はにやりと笑った。

「これはもう彼の話を真実とした上での、調書の書き方を検討しないとね。うまくいけば美味しいところだけをもらえそう。そう思わない?」

 誠はつくづく呆れて真実を見た。

「それよりぼくは、桂崎さんが堂上の話をまだ疑ってたってほうが驚きですけど? あの時にはすっかり彼のペースに填まっちゃって、ぼくを犯人扱いしたくらいなのに。」

「ああ‥あれはごめん。能力者だって以外は条件にぴったりだったし、血筋から考えれば実は能力者だったとしてもおかしくないって思って‥。それに磯貝くんがやたら返事を渋るから、会話の展開がミステリ小説で探偵が犯人を追いつめる感じとそっくりになってきて、あそこはやはりピタッと犯人を言い当てるのはわたしの役目だ、と‥‥。」

「ぼくはね、彼の話を慎重に検討してたんですよ。雰囲気と勢いだけで警察庁の参事官を犯罪者として告発するわけにいかないでしょう? まして部外者に‥。」

「あら。意気地がないわね。冗談のつもりでした、ですむわよ。わたしたちには手をつけられないんだから、部外者さんに動いてもらうほうが何かと都合がいいし。」

「桂崎さん‥。あなたってたいがいな人ですよね。本音はデザートで買収されたんじゃないんですか?」

「美味しかったわね‥。いつでも招待するって、本気かしら、それとも社交辞令かしらね?」

 真実は、呆れ返ってそれ以上の言葉が出ない誠ににこっと微笑むと、小声で話を続けた。

「それでね、坂上だけど‥。のんびり証拠固めしてたら逮捕する前にまた行方をくらませちゃうと思うの。さっき小耳にはさんだんだけど、どうやら七日後の夜に船上接待があるようよ。横浜港、ブルーアイズ号。大型クルーザーだって。それに小橋を誘ってた。」

「審議官を‥?」

「そう。客はひと組。最近注目を浴びている音楽家夫妻よ。」

 真実はテレビでもよく見かける、バイオリニストと声楽家の夫妻の名を口にした。

「あの二人が‥麻薬ですかね?」

「解らないわ。取引じゃないのかも。でも奥さんのほうはスランプらしいし‥。とにかく潜入捜査しましょう。罪名は何でもいいから現行犯逮捕するのよ。」

 誠は思い切り拒否の構えで、嫌です、と答えた。

「ふふん。警視命令。警察ってのは上下社会なんだから、平刑事に人権はないの。」

 絶句して見上げたものの、真実の表情は揺るがない。諦めて不承不承うなずいた。


 ちょうどその頃、四宮本家内の要のもとへ飛び帰ってきたモノがあった。

「どうしたんだ、小羽(さう)? そんなに慌てて‥。何かあったの?」

 小羽は白い文鳥の姿をしている精霊だ。本体は文鳥の彫り物がある、象牙の小箱だった。

 小さいけれど元気がよくて、本体を離れて本家の外へいくのを怖がらなかったので、瑞穂にもらった護符をつけてやって小橋を監視させた。小羽は任務を楽しんでいるようで、毎日何度も何度も、事細かで些細な内容を報告に戻ってきてはいたが、こんなに怯えた様子で帰ってきたのは初めてだった。

 小羽は小さな羽をふるふる震わせて、しくしくと泣き出した。

「‥‥何か、ヘンなモノが憑いちゃったんです‥。」

「小橋一也に?」

「はい‥。黒くて‥すっごく怖いモノです。要さまぁ、もう戻りたくありません‥。今までは普通の人間だったのに‥。」

「うん。戻らなくてもいいから、落ち着いて事情を説明しなさい。」

 戻らなくていいと聞いて、小羽は少しずつ落ち着いてきた。

 彼の説明するところによれば、青山が記憶を失い、幼児のような知能に退化してしまったと聞いてから小橋はずっと怯えていたそうだ。電話をかけて誰かとしきりに連絡を取ろうとしていたという。午後になってやっと現れたその相手を小橋は、おまえのせいだ、と散々罵り(なじ)っていたが、相手が取りだした札束を見た途端に機嫌を直した。そして何やら七日後の予定を取り決めしていたそうだった。

「‥そのお金にどす黒い塊がついていたんです。取りだしたほうも渡されたほうも、全然気づいていないみたいで‥。それがひょい、とあの人の肩に貼りついちゃって、みるみるうちに根を張っていくのが見えました。ぼくはもう、怖くって‥。慌てて護符を握って、帰ってきちゃった。」

「そうか‥。でもそれでよかったんだよ。そんなモノに触れられたらおまえだって取りこまれちゃうかもしれないもの。よく帰ってきたね、小羽。」

 小羽は嬉しげに、要の掌に羽をこすりつけた。


 小羽の話を一応報告して、瑞穂のいる執務室から蔵へ帰る途中で、要は微かな竪琴の音に足を止めた。

 ―――翡翠‥? では翡翠は形を変えられたのか。

 音のするほうへと進むと、奥庭の誰もいない空き棟の縁側で花穂と早穂が座っているのが見えた。ヴェールのような、霞んだ柔らかな緑色の光を放った小さな竪琴が、花穂の腕の中で音を鳴らしている。翡翠はその膝ではにかんだ表情を浮かべ、やはり光っていた。瑠璃は早穂の肩に座って少々羨ましそうだ。

「あら‥。要くん? やだ、見つかっちゃった。」

 花穂の顔にいつものごとくふわっと微笑が広がる。可愛いなあ、と思わず胸が高鳴った。

 近づくと、花穂と早穂は唇に指を立ててしいっ、と、静かにするように言った。

「結界を張って誰にも気づかれないようにしてるはずなのに‥。翡翠と瑠璃がいるから精霊遣いさんには解っちゃうのかしらね?」

「いや‥。竪琴の音が聞こえたので‥。練習ですか?」

「練習なんだけど‥。全然駄目なのよ。ちょっと休憩にしようっと。」

 花穂はそう言うと、傍らの早穂を見遣った。

 要にも腰を下ろすよう手振りで示す。

「ね、要くん。あたしたちね、ちょうどあなたに聞きたいことがあったの。教えてくれないかな?」

「何ですか‥?」

「ん。新しい四宮の結界のことよ。忍くんが瑞穂にちらっと言ってたんだけど‥瑞穂ったら、煕さまの前で刀が見つからなかったら自分を封印するって宣言したって‥ほんと?」

 ああ、と要はうつむいた。

 ―――そなたに人を封じる覚悟があるか。

 四宮煕の残像に問われた時、瑞穂はほんのわずかだけ逡巡した。そしてキッと顔を上げ、どうしてもその必要がある場合は自分を封印する、と言い切ったのだった。

 しかし煕は冷徹な視線を向け、首をかしげた。

「そなたの現在の霊力ではとても、夜鴉の闇から人の世を護り切れまいよ。必要なのはより大きい霊力。わたしにも感じられるが‥そなたより大きく、四宮の血を引く霊力が二つ現世に存在している。先ほどの話に出てきた二人であろうか? 一つは破邪よりも受容の資質が大きいゆえ結界には向かぬが、今一つは十分だ。なにゆえその者に命じない?」

 瑞穂はすうっと青ざめて、次に真っ赤になった。それから再び頬から血の気が失せて、悄然とうなだれつつ、静かに答えた。

「‥‥それはどちらも四宮と縁を切って久しい存在です。犠牲にするのが嫌だなどと感傷的なことを言うつもりはありませんが‥。二人は四宮とは関わりない他者との縁を強く結んでいる存在ですから、そちらを断ち切って不自然に本家へ戻せば、その事実が必ず本家にとって仇となるだろうとわたしは思います。‥不足であれば霊力を補う方法を考えます。けれどわたしほど四宮を護りたいと願っている者はどこにもいないはずですから、その想いがあらゆる欠点を補うと信じています。」

 決意に満ちた瑞穂の横顔を思い出すと、胸が痛くてたまらなくなる。だから要はずうっと蔵の精霊たちを急きたてて、煕の刀を探しているのだ。

 話を聞いた花穂と早穂はしゅんとうなだれた。

「それって‥茉莉花さんのことよね? 瑞穂の答はすごくもっともだけど、少しくらい迷わなかったのかな? だって‥‥。」

 早穂が複雑な表情で唇を噛んだ。

「ありえないわ‥。迷ってたらあんなにきれいな魂してるはずないでしょ。今頃胸の中に真っ黒な穴が開いてるもの。」

 そうだね、と早穂は辛そうに微笑んだ。

「でも‥あたしは嫌だ。瑞穂の命と引き換えにしなきゃ護れないなんて‥。何とかなるはずでしょう、今は五百年前みたいに物の怪が闊歩している時代じゃないんだから。」

 ん、とうなずいて花穂はしばらく考えこんでいた。

「やっぱり‥。あたし、今夜『御霊の会』教団に潜入して、刀を探してくる。」

「じゃ、あたしも行く。」

「ちょっと待って‥危険ですよ‥! 教団には呪い人形がいるんですよ?」

 思わず叫ぶと、花穂と早穂はじろりと要を見た。

「あたしたちを誰だと思ってるの? 四宮本家の姫よ。呪い人形なんか、その場で滅してやるわよ。二度と傀儡の糸なんかに遅れは取らないわ。」

 早穂も強くうなずく。

 要はたじたじとなりながらも何とか言葉を付け加えた。

「‥‥解りましたよ。瑞穂お嬢さまには黙って行くんでしょ? だったら俺もついていきますから。」

「え? なんで?」

「傀儡の糸が見えるのは翡翠と瑠璃ですから。いざという時、翡翠と瑠璃を遣える者が他にいたほうが便利でしょう? 連れていってくれないなら瑞穂お嬢さまに全部話します。」

 花穂と早穂は顔を見合わせ、ふふっと微笑った。

「仕方ないわね‥。叱られるのは三人一緒よ、いいわね?」


 夏の夜風がもわりと漂う上空から、切羽は一人の女を追いかけていた。

 女は既に人とは呼べないモノになりはてている。妄念だけで動く、闇の塊だ。

 しかし女はつい先ほどから新たな動きを見せ始めた。何かに吸い寄せられるように、まっすぐどこかへ向かっていく。

 ―――姫の気配を追っているのか。それとも‥‥あいつか?

 怨霊のエネルギーで膨れあがった女の魂は、まもなくすべて闇に喰われる。切羽は夜鴉の務めとして、その時を待って処理するつもりだ。でもその前に彼の男を道連れに暴発するならそれはそれで都合が良かった。ちっぽけで浅ましい人間の女の魂など、闇に滅しようがかろうじて成仏しようが切羽にはどうでもいい。

 ―――だがあの女はあいつへ燃やすべき憎悪を、なぜか姫に向けている。もともとの怨霊の念は裏切った男への恨みだったはずなのに‥。

 だから切羽はここ数日あの女を見張っている。姫に危害を加えそうなら、すぐにも回収するつもりだ。でなければ若頭領の怒りが爆発するだろう。

 女は自分の欲望のために、最初に実の母親に怨霊を取り憑かせた。

 哀れな母親の卑小で弱い魂はあっというまに押し潰され、怨霊に体を乗っ取られたが、体は三日と保たなかった。女が母親の遺骸をゴミのように捨てた時、怨霊は雫を女に植えつけた。

 女は知らなかったが、召喚術を教えた術師はそもそも女を利用して、呪い人形を作った術者の怨霊を呼び出したかっただけだ。呪い人形の妖力をより高めるために。

 女の母親の魂を喰らいつくした怨霊は、本来の呪い人形と合体して人の皮を被った。そして傀儡の術を駆使して女の家族を始め、教団信者など次々と魂を喰らい、人へと近づいていった。怨霊の目的は人としてよみがえり、昔日の恨みを晴らすことだ。

 女は『御霊の会』教団の裏門近くで立ち止まった。あたりを見回して、鬱蒼と茂った雑木林のほうへ向かう。その背中に微かに光る糸が見えた。

 ―――なるほど。十分育ったと見て、人形が回収にきたか。

 展開が変わった。では女の妄念はどちらへ天秤が傾くだろう? 本体の怨霊の遺恨により近い方向へいくはずだ。愛しい男へか、それとも男を奪った女へだろうか。

 その時切羽は塀の中、教団本部の中庭近くで見知った気配が動くのを感知した。

「花穂‥‥? あいつ何をしてるんだ、まったく‥!」

 切羽は舌打ちをして、迷った末に雑木林へ羽を一本飛ばすと、翼を翻して塀の中へと舞い降りた。


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