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序章

 都心のリバーサイド高層タワービル、三十二階と三十三階。専有面積は二フロア合計八百六十六平方メートルという高級邸宅で、六月初めのある晩、主人夫妻の銀婚式パーティが開かれていた。

 内階段と吹き抜けのある大広間は、東南側が一面の嵌め殺しの窓になっていて、ライトアップされたスカイツリーと東京の夜景がよく見える。

 ゆったりとした贅沢な空間。

 ゆうに百人は入れそうなスペースに、わずか二十名余りの出席者。

 中央にはケータリンクサービスによるビュッフェテーブルが置かれていて、美味しそうな料理に囲まれた特大の三段アニバーサリーケーキが一際目立つ。

 出席者同士はみなほとんどが旧知のようで、BGMが流れる中を思い思いの場所に陣取り、くつろいだ様子で会話に興じていた。その間を白手袋に執事服を着用した二名の給仕が、飲み物の盆を片手にゆったりと回っている。

 一段下がった隅にはグランドピアノが置かれ、吹き抜けの天井に設置されたスポットライトが照らす、ちょっとした舞台がしつらえてある。

 階段脇にあるアンティークの大時計が八時を打った時、主人が余興を用意してある、と人々に声をかけた。

「手近な椅子に腰を下ろして‥。少しの間、照明が消えるから。」

「余興って‥何ですの?」

 夫人の友人の一人が、窓辺の椅子に腰を下ろしながらにこやかに訊ねた。

 隣に座ったこの家の夫人が、苦笑しながら答える。

「何でも‥無名のマジシャンらしいの。この人、どこかでまた見つけてきたのよ。あまり期待しないでね。」

 カクテルグラスを手に近づいてきた主人は、夫人の椅子の肘掛けに軽く腰掛け、茶目っ気たっぷりの顔で余裕の笑みを返した。

「何を言ってる。彼はすばらしいよ。まったく仕掛けが読めないんだ。それに何しろね、今日は女性が多いだろう? 女性向けのファンタジックなイリュージョンだから、君もきっと夢中になるよ。」

 そうかしら、と夫人がまったく信用していない顔で夫を見返した瞬間、広間の照明が消え、真っ暗になった。

 窓ごしの夜景の灯りだけがきらきらと宝石のように輝いている。

 暗闇の中で突然ピアノの曲が流れた。

 人々の視線が、いっせいにグランドピアノが置かれているはずの場所に注がれる。

 すると蓋の閉まったグランドピアノの上に、唐突に真紅の薔薇が一輪出現した。仄かにぼうっと光を放っている。

 息を呑む気配の中で、薔薇の花は二本に増えた。微かに声が上がる間に、三本四本と増えていき、最後にレースのリボンに括られた花束に変わる。ぱらぱらと沸き起こった拍手が終わらぬ間に、花束の薔薇は淡いピンク色に変わった。

 ピアノの真上のスポットライトがパンとついて、いつのまにか花束は白のタキシード姿の男の腕に抱かれていた。

 男は真紅の髪に紫色の瞳、中性的で端正な顔立ちをしている。アイラインをくっきり引いた目の下にスパンコールとシャドーが煌めく化粧顔で、艶然(えんぜん)と頬笑んだ。

「今晩はお招きありがとうございます。まずはこれを‥。」

 優美な物腰でまっすぐに夫人の前へ行くと、ピンクの薔薇の花束を手渡し、お辞儀をする。

「銀婚式おめでとうございます。お美しい奥さまに、ますますのご多幸をお祈り申し上げます。」

「ま‥。ありがとう。」

 マジシャンは夫人の手を取って、手袋の上から軽く甲に口づけをすると再び微笑んだ。間近で見ると、透けるように白い肌が薄闇に浮かびあがる。

 それから彼はバチンと指を鳴らした。

 すると夫人の膝に置かれた花束は跡形なく消え失せ、代わりに鍵のついた黒革の箱が出現した。

「きゃっ! なあに‥これ?」

 マジシャンは一歩ずつ後じさりしながら、夫人に向かって唇に指を立て、(とろ)けるような微笑を浮かべた。

 再び照明が落ち、マジシャンの姿が消えた。

 と思う間もなく、ピアノ横の小舞台に現れる。手には一組のトランプがあった。

 彼はトランプを近くに座っていた客に渡し、三つの山に分けてもらうと、いきなり上に放り投げた。カードは空中でぴたりと停止し、マジシャンのジェスチャーに合わせて、なぜかどんどん大きくなっていく。

 三つの大きなカードが宙に浮いた形で並んだところで、マジシャンは手を叩いた。

 するとカードの三つの山がスロットマシンよろしく、すごい速さでぱらぱらめくられていく。

「さて。どなたか、このカードを止めてくださいませんか? ‥あ。ではそこの青いドレスのお嬢さん、お願いします。ストップ、と声をかけてください。」

 可愛らしい声がストップ、と響いた。すると宙に浮いたカードは三枚のカードを表示して止まった。左からスペードのエース、ダイヤのクイーン、ハートの七だ。

「ではここで‥。お客さまに参加をお願いいたしましょう。」

 パチン、と指を鳴らすと、もう一つスポットライトがついて小さなカフェテーブルを照らした。封を切っていないトランプが一組、ぽつんと置かれている。

「どなたか、このトランプを確認してくださる方。‥ああ、ではあなたにお願いしましょう。」

 スポットライトの下に出て来たのは恰幅のいい、年配の紳士だ。夫人らしい女性と二人で、テーブルの上にトランプを広げ、確かに正規のトランプが一組だと確認するために一枚一枚数え始めた。

 その間マジシャンはもう一つのライトの下で、悠然と微笑み、微動だにせず立っていた。何か仕込むのはまったく無理だと、注視していた客たちは思う。

「確認が終了いたしましたら、次にカードを伏せてざっと広げていただけますか? こんなふうに。」

 マジシャンは離れた場所で、手にしたもう一組のカードでやってみせた。

 確認した客は見まねでテーブルの上にカードをざっと広げる。

「ありがとうございました。では‥そこからカードを無作為に一枚引いて、スペードのエースを当てていただきましょう。ぼくはいっさいさわりませんので、どなたか引きたい方、いらっしゃいませんか?」

 若い男性がさっと立ち上がった。

 主人夫婦の息子らしい。主人は小声で、びっくりするぞ、とくすくす笑った。

「では皆さまによく見える位置で、ぼくがはい、と声をかけましたら一枚だけ引いてください。一度引いたら二度は引かないでくださいね。‥‥はい!」

 カードをすっと引いた男はそれを見て、狐につままれたような顔をした。そしてまわりじゅうに引いたカードを見せる。スペードのエースだった。

 なぜ、という声とともに拍手が沸く。

 引いた本人がいちばん信じられないらしく、壁際に立つマジシャンに、テーブルの上のトランプを確認させてくれと頼んだ。マジシャンはあっさりと承諾した。

 彼と彼の友人らしい数人が、トランプを再び確認する。ごく普通のトランプだ、と広間に通る声で叫んだ。

「では、よろしければ次に引く方を決めていただけますか? 次はダイヤのクイーンを上手に引き当ててください。‥‥はい。」

 ざわめきが止んだところで、マジシャンの低めの甘い声が室内に響く。

 再び次の瞬間、拍手が沸いた。

 同じように最後のハートの七も、別の少年が引き当てた。

 膝に箱を抱えた夫人は、その間宙に浮いた大きなカードのほうばかり見入っていた。だいたいがあのカードはなぜ大きくなったのだろう? しかもライトの当たらない位置なのに、ぼうっとカード自体が光っている。

 スポットライトの中のマジシャンは、掌をかざし、宙に浮いた大きなカードのほうへ向けた。すぽん、と音がしてまず一山が掌に戻る。彼はそれをテーブルに置き、また掌を向けて順々に三つの山を普通のトランプに戻した。

 盛大に拍手が沸く。どんなに目を凝らしてみても、宙に浮いていたカードの場所にはピアノ線一本さえ見えない。夫人は心底感動して、手を叩いた。

「すごい‥。どんなトリックなのかしら‥?」

 傍らの夫は妻の無邪気に喜ぶ顔を見て、満足げだ。

「いよいよメインのイリュージョンだよ。君が主役なんだから、心の準備して。」

「え?」

 三方へお辞儀を繰り返していたマジシャンは、再び小舞台から降りて客席を回る。

 握手を求める老婦人に丁寧に挨拶を返したあと、扇子を貸してもらえないかと頼んだ。老婦人が手に持った扇子を差しだすと、その手に口づけをして綺麗な顔で微笑んだ。

 それからまた会釈をして歩き出し、今度は別の女性のところで足を止める。

「奥さま。その胸の椿の花を少しの間だけ貸していただけませんか?」

 椿の花のコサージュを所望して、隣に控えている夫らしい男性にも会釈した。白椿のコサージュを左手でさっと開いた扇子で受け取る。

「ありがとうございます。ではお借りする間、これを‥。」

 右手で一瞬のうちに紅椿の花を出し、にこっと微笑んで差しだした。女性はうっとりと彼を見返しながら受け取り、驚いた声を出した。

「これ‥。生花だわ。どうしてこんな季節に‥?」

 彼は艶然と微笑し、指を唇に当てた。

「これはあだ花です。ショーが終われば消える、幻の花なんですよ。でも今だけ本物みたいでしょう?」

 女性はわくわくした表情で、胸にいそいそと飾った。他の女性たちはやや羨ましげだ。

「では‥道具立ては揃いました。このままでも十分美しい二つの品を使って、これより幻想的なイリュージョンをお見せしましょう。束の間の夢をお楽しみくださいませ。」

 マジシャンは観客に囲まれたその位置から、吹き抜けの天井へ向かってまずはコサージュをぽうんと放りなげた。コサージュは天井近くまで上がり、そこで突然ぱあん、と音を立てて弾けた。

「あ‥!」

 コサージュの持ち主の悲鳴が聞こえる。

 そちらへ向かってマジシャンは安心させるように微笑んだ。そして扇子を広げて暗い天井を(あお)ぎ始める。すると天井からひらひらと紙吹雪が舞い降りてきた。

 上方に向かって静かに差しだされた彼の手から、扇子がすうっと離れて宙に舞い始めた。一閃ごとに扇子は大きくなり、淡い色合いの友禅模様が暗闇にくっきりと浮かびあがる。

 扇子の動きに合わせて、あとからあとから紙吹雪が部屋じゅうに舞い散った。

「落ちてくる紙は、くれぐれも拾わないでください。あとでもう一度、コサージュに戻さなければいけませんので‥。」

 マジシャンはにっこりと微笑んで、一同にそう言った。

 やがて紙吹雪が止んだ。辺り一面の床が、闇の中で白く浮き上がって見える。

 マジシャンは宙に浮かんだ扇子に向かって、指をバチンと鳴らした。すると扇子は巨大化して大きく一閃した。一瞬、突風のような風が部屋じゅうを駆けめぐり、みなが気づくと床を覆いつくしていた白い紙は一枚も見当たらなかった。

「紙は‥‥どこへいったの?」

 夫人の声に主人はほら、と上を指さした。

 紙吹雪の小さな紙がモザイクのように宙に漂い、椿の花を描いていた。巨大扇子はいつのまにかマジシャンの手の内にあって普通の扇子に戻っている。

 見上げていると紙の一片一片が次第に丸みを帯びて、椿の花へと変わっていく。ぼうっと鈍い光を放つ花のイリュージョンに目を奪われて、感嘆の溜息がそこかしこで洩れた。

「いよいよ最後です。」

 無数の椿の花は一つ、また一つとゆらめきながら客席に落ちてくる。

 一瞬だけ手に乗せた、と思うとシャボン玉のようにふわっと消える。みなが夢中になって手を伸ばして歓声をあげているうちに、夫人の膝に抱えた黒革の小箱の上にだけ真っ赤な紅椿が下りてきた。

「あら‥。これだけ赤い椿だわ‥まあ、消えないわ。」

「ちゃんと持っていて。」

 傍らの夫がにこにこしている。

 その時、コサージュの持ち主の女性が大きな声を上げた。

「これ‥! わたしのコサージュ‥。どうして‥?」

 降りそそぐ椿の中に本物が混じっていて、彼女の手元に降ってきたらしい。

 マジシャンはにこにこっと微笑んで、彼女に会釈した。

「確かに借りたお花でしょうか? ‥お返ししたと認めていただけますね?」

 彼女は興奮気味で、ええ、ええ、と何度もうなずいた。

「では‥本物の花が持ち主の手に無事戻ったので、幻想の花は退場します。」

 マジシャンが扇子を一閃すると、あっという間に天井に咲いた花々はしゅんと消えた。

 マジシャンは丁寧に扇子をたたむと、老婦人のもとへ行き、礼をいって手渡した。そして小舞台へと戻る。

「さて‥闇に咲いた幻の花はすべて闇に帰りました。ですが一つだけ、まだ本来の姿に戻っていない花があるのです。」

 夫人の膝にいきなりスポットが当てられた。

「奥さま。その花はご主人さまよりのアニバーサリープレゼントだそうです。今はまだ花に姿を変えていますが、先ほどお手元に渡した『真実の小箱』に入れてみてください。鍵はご主人が持っていらっしゃいます。」

 客の視線がいっせいに夫人の手元に集まる。主人はみんなに軽く手を振って、ポケットから思わせぶりなしぐさで真鍮の鍵を出し、夫人に手渡した。

 夫人は小箱の鍵穴に鍵を差しこみ、ゆっくりと回した。カチッ、とはっきり音がした。箱の中は絹張りになっていたが空っぽだった。

 それからマジシャンの指示に従い、夫人は全員の目の前で赤い椿の花を箱に入れた。再び箱を閉じ、鍵を隣にいた友人にしっかり閉めてもらう。

 マジシャンは一人離れた壁際で、にっこりと微笑んだ。

「では五秒数えたら、もう一度開けてください。いいですか? 五、四、三、二、一! はい、どうぞ。」

 鍵を開けて出てきたのは、血のように赤いルビーの指輪だった。

「まあ‥!」

「気に入ったかな? これからもよろしく。」

 わあっという歓声と拍手が沸いた。夫人は誇らしげに指にはめ、手を高々と差しあげた。

 不意に部屋の照明がついて、まぶしいほどに明るくなった。

「あら‥‥? マジシャンさんはどこ?」

 どこだ、どこなの、と声が飛びかう中で、夫人が素っ頓狂な声を出した。

「あの黒革の小箱がない‥! うそ、どうやって‥‥」

 代わりに名刺が一枚、彼女の膝から落ちた。

「名刺‥?」

「あ‥。わたしの手にも名刺が‥。」

「こっちも、椅子の上に‥。」

 主人が上機嫌で、客に向かって叫んだ。

「ほらほら‥。幻想の時間はお終い。カナッペを作らせたから、もう一度飲み直そう。‥その名刺はただいまのイリュージョンマジックを見せてくれた彼のものだよ。気に入ったならぜひ贔屓(ひいき)にしてあげてくれ。」

 主人が言い終わったちょうどその時、大時計が九時を打った。


「最初にしちゃボロ儲けだな‥。一時間で三百万。打ち合わせの時間を入れても時給百五十万。練習時間を入れても‥‥」

「ちょっと‥。それってどう考えてもインチキ、ペテン、詐欺と呼ばれる(たぐい)じゃない?」

 四宮(よつみや)茉莉花(まりか)は眉をひそめて、吉川(せい)を胡散臭そうに見た。

「どうして? チームで能力を発揮した結果なのに、その言い方はないだろう?」

「だって‥。全然マジックじゃないでしょ。ほとんどは健吾さんの妖力を遣っただけで‥あとはあなたが口先三寸で(だま)したんじゃない?」

「あのね‥。じゃ、妖力遣いですって言えば通るとでも? 種が普通の奇術と違っているだけで、やってることは同じじゃないか。不思議を見せて、種がばれないように隠蔽する。ね? 違いはないだろ? 全然インチキじゃないし、ましてや詐欺だなんて‥。俺は常に合法的に金を儲けてるってのが自慢なんだよ?」

 よほど気に障ったのか、吉川聖の声を忘れて堂上(どうがみ)(あきら)の声で憤慨している。

「‥‥吉川さん。堂上さんに戻ってるみたいよ。」

 玲はますますムッとした様子で、君のせいだろ、と言い捨てると二階へ上がっていってしまった。

 怒らせたのには反省しているものの、彼が演技を忘れた事実には少し(なご)むものを感じる。堂上玲という人に色がついてきた証拠だと思うからだ。

「でも‥‥確かに詐欺だのインチキだのは言い過ぎだったかもしれない。超能力者なんかでも、超能力は信じてもらいにくいからマジシャンだって通す人がいるそうだし‥。つまりはお金を払う人が満足していれば、それでいいわけなんだから。」

 茉莉花は深々と吐息をついた。

 考えれば考えるほどきつい口調だった。だいたいが茉莉花は無愛想で、たまに口を開けば身も蓋もない言い方をしすぎる。実家にいる時もよく兄を怒らせたものだ。

 エプロンのひもをきゅっと締めると、おもむろに台所で磨き掃除を始めた。何かしていないと落ち着かないからだ。

 あっという間に二時間ほど経った。小窓からさしこむ西日が低くなり、目を射てくる。

「あの‥。茉莉花さん‥。」

 振り向くと白崎健吾が立っていた。

 気配が違うので間違えることはないが、玲と喧嘩して反省している時には、玲によく似た健吾の面ざしはやや正視しにくい。

主人(マスター)が‥ごめんと伝えてくれと。それから出かけるので夕ご飯は要らないそうです。」

「健吾さんも一緒?」

「いいえ。俺はショーの時だけなので‥。打ち合わせの時には桜さんと一緒です。」

 そう、と茉莉花はちょっと落ちこんだ。

 健吾に伝言を頼んだということは、顔を合わせずに出かけるつもりなのだろう。つまりまだ怒っているのだ。

「もう出かけてしまった?」

「ええと‥はい。」

 健吾は廊下のほうを気まずそうに見やりながら、微かにうなずいた。

「わたしも謝りたかったんだけど‥。仕方ないわね。」

「あのう‥。掃除、手伝いましょうか?」

 ううん、と茉莉花は健吾に向かって首を振り、微かな笑みらしきものを浮かべた。

「ここはもう終わるから。もし時間があるなら、弐ノ蔵の整理を手伝ってくれる?」

「あ‥はい。喜んでやります。」

 健吾は無邪気な笑みを浮かべた。


「ご主人さま‥。先ほどはどうして、もう出かけたなどと健吾さまに言わせたのですか? まだ玄関においででしたのに‥。」

 歩きながら桜が無邪気に問いかけた。

「ん‥。いろいろとね。ちょっと顔を合わせにくくてさ。」

「そうですか‥。でも姫さま、お悲しそうに見えましたよ。」

「‥‥悲しそう?」

「はい‥‥。最近は時折あんなお顔をなさいます。以前はとても気配の安定したお方でしたが‥春先からこちらは、たまにとても悄然とした気配を漂わせる時がおありです。姫さまは何でもないと仰いますけれど、桜は心配です。‥ご病気なのではないかと。」

 桜は可愛らしい顔を曇らせて、溜息をついた。

「ふうん‥。気をつけてみるよ。」

 桜の頭を軽く撫でて微笑み返したものの、たぶんそれは玲と喧嘩した時なのではないかと思うから複雑な気分だ。

 以前から小さな喧嘩はしょっちゅうあるので、喧嘩そのものを気にしてはいなかった。今日の気まずさも明日になれば消えている。だいたいが内容のない喧嘩だし、と玲は思い出して忍び笑いを漏らした。実は彼女の反応は、予想どおりだったからだ。

 複雑なのはそこではなくて―――落ちこんで見える時の茉莉花はものすごく可愛いという点だった。

 生真面目な茉莉花のことだから、些細な事実を真剣に気に病んでいるのだろうが、玲と喧嘩したくらいであの茉莉花が落ちこむという事実が、何だか気恥ずかしいほど(いと)しい。堂上玲にとって、他人のそんな感情は面倒で迷惑なものでしかなかったはずなのに。

 しかし桜が心配するほど不安定になるというのは問題だろう。からかうのもほどほどにしなくてはいけないとちょっぴり反省もした。

「‥‥堂上くん?」

 いきなり腕をつかまれて、玲は驚いた。

 振り返るとショートカットの若い女が玲の腕をつかんで、やや興奮気味に見上げている。

「‥あの?」

 冷ややかに短く問い返すと、彼女はやや鼻白んだ。しかし腕は離さない。

「‥堂上玲くんでしょ? あたし、中学の時同じクラスだった川井春奈だけど‥。憶えてない?」

「人違いです。手を離してくれないかな?」

 え、と彼女は怪訝そうに見た。だがまだ手を離さない。

「嘘‥堂上くんでしょ? あたしが見間違えるはずないのよ、だって‥。三度も手紙出して‥誕生日にもクリスマスにもバレンタインデーにも、欠かさずプレゼントを贈った川井春奈よ?」

 玲は冷ややかな表情を崩さず、怪訝そうな視線を彼女に向けた。

「人違いだって言ってるのに‥へんな人だな。」

 そしてつかまれている手を毅然と振り払うと、背を向けてすたすたと歩き出した。

 彼女は茫然と立ち竦んで、ずっとこちらを見ているようだった。

 路地を曲がって、手近なビルに入る。

「桜。彼女、()けてきてる?」

 肩の上ではい、と桜がうなずく。

 玲はエレベーターに乗って三階で降りると、非常階段から外へ出た。そしてすぐ隣のビルへ入り、今度はまっすぐ裏口から出て地下鉄の入口へもぐる。

「どう?」

「混乱してますけど‥。気配をたどってこっちへ向かってます。」

「気配をたどって?」

「はい。あの方は微かですけど霊力があるようですから‥。能力者のレベルではありませんけれど。」

 そう言えば川井春奈は勘がいいのを自慢にしていたなと思い出す。

「面倒だなあ‥。桜、俺の気配を消したりできる?」

 桜はにっこりと微笑んで、大丈夫ですよ、と答えた。

「とっくに結界を張りました。それほどの能力者ではありませぬゆえ、気配が消えたとは気づかれていないと思います。」

「そうか。ありがとう、桜。いつもながら助かったよ。」

「あの方は‥お知り合いですか?」

「子どもの頃にね。顔と名前だけ知ってた程度。苦手な相手なんだ。」

「では‥お親しくはないのですね? よかったです。あの方は背中に何やら、おぞましいモノをつけておいでですから‥。」

「おぞましいモノ?」

「はい‥。たぶんあれは‥怨霊(おんりよう)(しずく)です。」

 怨霊の雫。聞き慣れない名称とそのどろどろした響きに、玲は思わず背中がぞくっとした。



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