二、
「忠行様! 慎之助に御座いまする!」
「入れ」
忠行が常日頃使っている居間の前、慎之助の声に応えたのは、阿木山家筆頭家老であり慎之助の父である香月雪右衛門の声であった。
障子を開けた慎之助が先ず目にしたのは雪右衛門の大きな背中である。
それがゆるりと動いて振り返ると、慎之助の前に立ちはだかった。
精悍な浅黒い顔には何の感情の動きも見てとれない。
「慎之助、心して入れ」
しかしその声音には息子である慎之助だけが分かる程の小さな揺らぎがあった。
「父上……」
平素であるなら城の中で雪右衛門を父と呼ぶことは無い。
この時の慎之助は無意識であり、また雪右衛門もそれを正すことはせず、ただ黙って頷き体を脇へと退けた。
「忠行様」
居間の中央に敷かれた真っ白な布団には夜着が掛けられ、その周りをぐるりと囲むように五人の重臣達が端座していた。
布団の傍へと寄るにつれて血の匂いが一層濃くなる。
そこに横たわる者の顔には白い布が掛けられ、慎之助は震える手でそれを取り払った。
「……何故……」
そこには、未だ幼さの残る端正な顔立ちの少年が固く瞼を閉じていた。
「忠行様、何故このような……」
がっくりと畳に手をついた慎之助は、喰いしばった歯の隙間から漏れる嗚咽を堪えることが出来なかった。
しかしそれは他の者も同じで啜り泣きの声が悲しく響く。
「この仇は必ずや……」
忠行の首元まで引き上げられている掛け具には、牡丹の花のような染みが所々に散っている。
それが血痕であることを知った慎之助は掛け具を捲り上げた。
果たしてそこにあったものは、腕も足も無い無残なまでに凌辱された亡骸であった。
「――!!」
無言のまま刀を抜いた慎之助は幽鬼のようにふらりと立ち上がると、出入り口に向かって歩き出した。
その行く手を雪右衛門が塞ぐ。
「何所へ行くのだ、慎之助」
「そこをお退き下され父上」
「何所へ行くのかと聞いておる」
「無論、仇を打ちに行くのです。若様を、我の忠行様をあのような姿に……」
慎之助の目はぼんやりと濁って、雪右衛門に向けられてはいたが何も映してはいない。
「行くならこの父を切ってから行け」
「何を――」
「この責は家老である我にある。行くなら先ずこの儂の首を捕ってから行け!」
「ならば!!」
ぬおおおおおおおおおおおおーーーーー!!!
怒りに我を忘れた慎之助が咆哮をあげながら雪右衛門に切りかかった。
雪右衛門は避けようともせず仁王立ちのままで対峙している。
「慎之助やめい!!!」
「静まれ、慎之助」
その場にいた家臣が数人がかりで慎之助を羽交い絞めにしたが、怒り狂った若い身体を止める事は容易ではない。
尚も暴れる慎之助の手にした刀の切っ先が雪右衛門の頬を掠めた。
真っ赤な血の雫が顎を伝い畳に落ちる。
「いい加減にせぬか慎之助!!」
怒号を発したのは工藤である。
工藤は慎之助の手から刀をもぎ取ると、その柄で腹を突いた。
「ぐう……」
急所を突かれた慎之助はどうとその場に倒れ込み、そのまま気を失った。
「すまぬ、雪右衛門殿。こうでもせねば――」
「いや、詫びるのは儂のほうだ。すまぬな、工藤殿」
雪右衛門の頬の傷からは未だたらたらと血が流れ続けている。
それを見て工藤は言った。
「何故よけなかった」
「……切られても良いと思った」
「何を言っておる! 雪右衛門殿が居なければこの咲埜の一大事、誰が対処出来るというのだ」
「分かっておるよ」
雪右衛門は倒れている慎之助の傍らに片膝をつくと自らの頬に流れる血を親指ですくい舐め取った。
「これではまだまだ儂には敵わぬな、慎之助……」
力のない身体を抱え上げた雪右衛門は、居間を出て未だ夜が明けぬ暗い廊下の奥に溶けて消えた。