十三、
深夜、慎之助は老爺が眠る布団の脇を忍び足ですり抜けた。
「翁殿、ナナシ殿、世話になった」
上がり框で草履を履き終え深々と頭を下げる。
相変わらず大の字でゴウゴウと大鼾をかいている老人の奥の寝間では、ナナシがスヤスヤと寝息も静かに眠っていた。
「この恩はいずれ必ず」
そう言って木戸に手を掛けた時、背後に微かな殺気を感じた慎之助は振り向きざま瞬時に身を傾けた。
シュッという颯音が耳許を掠め、髪が一筋パラリと落ちる。
「!?」
見れば木戸に小刀が突き刺さり、その柄が細かく震えている。
あと僅でも避けるのが遅れていたら、慎之助の左目は二度と光を視ることはなかったであろう。
「ほう、避けたか。ただの木偶の坊というわけでもないのだな」
つい今しがたまで大鼾をかいて寝ていた布団の上に、片膝をつき右腕を前につき出した格好の老人がいた。
「……その身のこなし、ただ者ではあるまい。一体何者だ」
慎之助の問いに老人が口の端を上げる。
「何者だと問われれば、名は多嘉良という」
「ただの老人とは思えぬ」
「ただの薬師じゃよ」
「ただの薬師が何故某の命を狙う」
「なぜ命を狙うかと問われれば、若かりし頃の血が騒いだのだろう」
「どういう事だ」
その時、何やら小さく声を発したナナシが布団の中で寝返りをうった。
それを見た多嘉良が慎之助を睨む。
「明日の飯の支度、ナナシが張り切っておる」
「飯……?」
「目が覚めておぬしの姿がなければナナシが悲しむ」
「しかしこれ以上世話になる訳にはいかぬ」
「ならば世話になった礼をしてから行け」
「何をすれば良い」
「あと一日ここにいてナナシの話し相手になってくれればそれで良い」
「解せぬ。某に早く出て行けと言ったかと思えば、今度は出て行くなと言う」
布団の上に胡座をかいて座る多嘉良を睨み据えたまま、慎之助は戸に深く突き刺さった小刀を抜いた。
「何を企んでおる」
「この老いぼれを殺すか?」
「返答による」
「ワシが死ねばナナシは天涯孤独になる。おぬしが責任を取ると言うのであれば、この命喜んでくれてやろう」
「答えになっておらぬ」
「可愛い孫娘の幸せを願って何が悪い。あの子には普通のおなごとして幸せになってほしいのだ」
「拙者には今も十分幸せそうに見えるがな。それにナナシ殿は良い娘ではないか」
多嘉良がフンと鼻を鳴らす。
だがその表情はどこか弛んで好好爺のそれに変わった。
「当たり前だ。ワシがどこに出しても恥ずかしくないよう育てた。まあ、なりは男の子のようだがあれでどうして器量がいい」
「父と母はどうした」
「母親はナナシを生んで直ぐに流行り病で死んだ」
父親は――――、
そう言ったまま多嘉良は口をつぐんで瞼を閉じた。
そして再び瞼を開けた時、その瞳の中にほんの一瞬だけ苦悩の色が垣間見えた。
「あの子の父親……、ワシの息子は」
多嘉良の膝においた皺だらけの手が固く握られている。
言葉を続けることが酷く苦痛のように、それでも何とか喉から絞り出した声は怒りとも悲しみともつかないものであった。
「あの愚か者は鬼に魅了され、とうとう己自身も鬼になったのだ」
その時、草を踏む音と禍々しい気配に慎之助と多嘉良が瞬時に反応した。
「多嘉良殿、誰か来る」
「この様な夜更けに訪ねて来るとは余程無礼な奴とみえる。もしくは……」
慎之助はそっと刀を抜き戸の前で身構えた。
多嘉良はナナシの眠る布団に寄ると、その肩を揺すった。
「じじ様? こんな夜更けにどうされたのですか?」
「納戸の中に隠れていなさい」
多嘉良の鋭い声に只ならぬ事態を察したナナシは、すぐさま納戸の中に身を隠した。
と同時に板戸がガタリと揺れたかと思う間もなく、外側から勢いよく蹴り破られた。
粉々に割れた木の欠片が慎之助の脇をかすめる。
月の光が届かないせいか、慎之助や多嘉良がいる場所からはその姿がはっきりと見えない。
「何奴!」
慎之助の問いに応えるかの様に、先程まで戸があった場所に立ち塞がっていた男がゆっくりと身を屈めて入ってきた。
六尺以上は優に超す大男がニタリと笑う。
「匂うな……」
多嘉良が慎之助の背後で呟いた。