十二、
ふわりふわりと舞い落ちる真紅の花びらが、肩先を掠めて足元に落ちた。
俺はそれを拾い上げ握りしめたままで、ふと空を仰ぎ見る。
瞬きするほんの僅かの間にそれまでの明るさは闇に取って代わり、太陽が照っていたであろう場所には月が煌々と輝いていた。
しかし、それがまるで当然であるかのように道行く人々は笑い合い言葉を交わす。
咲埜の見慣れた町並みや通りが、どういう訳か異邦の地に感じられた。
『父上?』
すぐ傍らを通り過ぎたその背に向かって声をかけるが返事は無い。
『父上、お待ちください。父上!』
尚も呼び止めるが一度も振り返ることなく、闇に吸い込まれるようにして消えた。
しかしすぐ後、父が消えたのと反対の方角に人の気配を感じて振り返った。
すらりとした輪郭が徐々にこちらに近づいて来る。
暫く目を凝らしていると、月明かりがその姿を照らし出した。
己が目にしたものに息を呑む。
『忠行様……』
心の臓がドクリと脈打った。
それは紛れもなく阿木山忠行そのひとである。
『慎之助!!』
白い歯をほころばせ、成年になりきらない声が吾が名を呼んだ。
『忠行様、ここにいらっしゃったのですか』
『蛍を見に行こう、慎之助。幼い頃のように』
『申し訳御座いませぬ。某はやらねばならぬ事が有りますゆえ』
『やらねばならぬ事とは何だ?』
『それは――』
言葉にしようとして考えるが、濃い霧がかかったように霞んで見えない。
胸の奥底に澱んでいた怒りとも悲しみともつかないあの激しい感情は、今や綺麗さっぱり消え失せていた。
『いえ、何でもござらぬ』
『ハハハ、可笑しな奴だな』
今までと何一つ変わらぬ日常がここにある。
この手が届く所に。
ならば、こんなにも心がざわつくのは何故なのか。
『どうした慎之助、泣いておるのか?』
『泣いてなど――』
そこで初めて己の頬を伝う涙に気が付いた。
『今宵は風が強い』
注がれる視線から慌てて顔を背け、拳でぐいと拭う。
『すまぬな、慎之助』
哀しげな声に思わず顔を上げた。
『何を謝ることがありましょうか。これは単に砂埃が目に入っただけでござる』
『某は詫びねばならぬのだ』
『お止め下さい!』
まるで駄々をこねる幼子のように、両手で耳を塞ぎ瞼を閉じる。
『目を開けてよく見るのだ、慎之助』
夜空を見上げる忠行様の視線の先には、無数の星が瞬いていた。
『お主ともう一度、蛍が見たかった』
『ならば今から』
『願いは既に叶った』
『蛍などどこにも……』
人差し指で天を指し示すその姿が、徐々に周りの景色と同化する。
『星は天に在るもの。それが世の理というものだろう?』
悪戯を企む子供の様に、ニヤリと微笑んだ表情が無性に懐かしかった。
『雪右衛門には秘密だぞ。逢えるのは唯一人と決められておる』
その声を最後に忠行様の姿は闇の中に溶けた。
――――もう一度、蛍が見たかった。
月が見せた幻であったのか。
何もない。
狂おしいまでの消失感がこの胸を押し潰す。
否、残ったものがたったひとつ。
握ったままの掌を開くと、そこには深紅の花びらが残されていた――――。
「慎之助様! 慎之助様!!」
名を呼ばれ目を開けた慎之助の視界に、見慣れない天井が映る。
「良かった。気づかれたのですね」
長い睫の下の大きな瞳が安堵の為か潤んでいる。
「梁が……」
「はり?」
「梁が歪んでいる」
唐突に身体の上から掛け具がガバリとはねあげられた。
「三日三晩看病させておきながら、一言目に梁が歪んでいるとは何だ!!」
頭から湯気を噴きそうな勢いの老爺の顔面が慎之助に迫る。
「三晩……」
「そうだ。覚えていないとは言わせぬぞ」
「……覚えていない」
「おおおおおおぼっ!」
「じじ様落ち着いて。それに、三日三晩は言い過ぎです」
「二晩も三晩も変わらぬ。ナナシッ、こ奴を追い出せ! 鶴とて助けられた恩に機を織るというぞ!」
「じじ様、それは物語りの中の話でしょう?」
慎之助は起き上がると、せんべい布団の上に胡坐をかき深々と頭を垂れた。
「どうやら世話をお掛けしたようだ。かたじけない」
「まったくだ。目が覚めたのなら今直ぐにここを立ち去れ」
「まだ熱があるのですから、無理してはいけません」
「ああいや、これ以上世話になっては申し訳ない。拙者はこれで」
そう言って立ち上がろうとした途端、ぐらりとよろめく身体をナナシが慌てて布団の中に押し戻した。
「今無理をしてはまたすぐにぶり返します。もう一晩、大人しく休んでいて下さい」
「しかし」
「ふんっ」
老人が鼻を鳴らして慎之助の枕元に縁の欠けた椀を置いた。
「これを飲んでさっさと出て行け」
ガタガタと戸をこじ開けて外に出て行く腰の曲がった後ろ姿を見送ったナナシが、その椀を差し出しながら囁いた。
「じじ様が調合した薬です。良く効きますよ」
「有り難う」
琥珀色の液体を勢い良く喉の奥に流し込んだ慎之助は、途端に咳き込んだ。
「良く効きますが、とても苦いんです」
ナナシがクスクスと笑い声をあげた。
「さあ、横になっていて下さい」
掛け具を慎之助の肩に引き寄せたナナシが、ふと目の隅に映った赤色の小さな欠片を摘まんで掌に載せた。
「こんなところに椿の花びらが。季節外れですね」
目前に差し出されたそれは、確かに夢の中で慎之助が握っていたものだった。
「あれは夢ではなかったのか」
――――逢えるのは唯一人と決められておる。
懐かしい声が未だ耳に残っていた。