十一、
「汚い所ですが、どうぞ」
二人してポタポタと水滴を垂らしながら歩くこと暫し。
慎之助がナナシに連れられて着いた先は、あれから更に山深く分け入った場所にある吹けば飛びそうな古びた民家だった。
壁は至る所崩れ落ち、藁葺き屋根は何十年にもわたり葺き替えていないようで傷みが激しい。
どう贔屓目に見ても、慎之助の住む咲埜の屋敷の馬小屋の方が数倍マシと思える佇まいである。
「じじ様、戻りました」
歪んだ板戸を慣れた手付きでこじ開けながらナナシが声を掛けるが、返事は無い。
中は思いの外小綺麗に掃除されていて、襖に開いた穴も丁寧に補修が成されている。
「そういえば、薬を売りに山を下りると言っていたっけ」
「薬?」
そう訊ねる慎之助の前に手早く白湯と着替えを差し出しながら、いつの間にか奥で着替えを終えたナナシが答える。
「はい。じじ様はこの辺りに自生する薬草で薬を作って、時々こうして麓の村まで売りに行くのです」
ナナシの祖父が調合する薬は、神経痛や頭痛に良く効き高い値で売れるのだという。
しかしそれも買い手があればこその話で、この治世では難しい。
「この頃はずっと遠くの町にまで売りに行くこともあるんです。そんな時は半月以上帰りません」
「共については行かぬのか?」
「じじ様は私が行くことを許してはくれません」
「このような人里離れた場所で一人でおるのは寂しいだろう?」
ナナシは少し考えてから、微かに笑みをたたえて言った。
「寂しくはありません。じじ様は必ずここに帰って来てくれるから」
「そうか」
暫くそうして他愛もない会話をしていた慎之助の脳裏に忠行の顔が浮かんだ。
忠行とナナシとでは歳が同じ位というだけで、共通点は何一つ見当たらない。
にもかかわらず、時折不意に面影が重なるのだ。
「慎之助様? どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
ナナシの顔を凝視していたことに気づいた慎之助は慌てて視線を外した。
と同時に大きなくしゃみが出た。
「大変!風邪でしょうか」
「なんということはない」
「体が冷えてしまったのではありませんか?」
「案ずるな。大したことはない」
その時、板戸がガタガタと軋み開いた隙間から腰の曲がった老爺がするりと中に入って来た。
「あ、じじ様お帰りなさい。こちらの方は……」
「さあ、ここへ来て背の行李を下ろすのを手伝っておくれ」
しわがれた声がナナシを呼ぶ。
「はい」
ナナシが側に寄るや否や古木の様な手が素早くのびて、華奢な身体をその背に隠した。
「お前は何者だ」
先程とは別人の様な、低く地を這うような声音が慎之助に向けられた。
「じじ様、違います! この方は……」
「ナナシはこのじじの後ろに隠れておれ」
皺だらけの顔には似つかわしくない鋭い眼光と身体全体から発せられる気が、この老人が只者でない事を如実に物語っている。
慎之助はそれを真っ向から受け止めると、ゆっくり立ち上がった。
「留守の所を上がり込んで申し訳ない。拙者訳あって旅をしておる香月慎之助と申す。着物が乾くまでの間こちらで休ませてもらった」
「ならば着物は既に乾いておる。そうそうにここを立ち去れい」
「じじ様!!」
ナナシが目に涙を溜めて前に立ち塞がる祖父の肩を揺するが、白髪交じりの眉の下の視線は慎之助に据えられたまま微動だにしない。
「よいのだナナシ殿、世話になったな」
慎之助は柔らかく微笑んでナナシを見た後、二人に向けて頭を下げた。
「邪魔をした」
横を通り過ぎた時、老人の鼻がヒクヒクと動く。
「おぬし、匂うな」
「?」
慎之助の瞳に戸の木目がグニャリと歪んで映った。
沢山の目が渦を巻いて迫ってくる。
力の入らない足をどうにか堪えて外に出ると、周りの木々がゆらゆらと波打っていた。
「慎之助様?」
異変に気付いたナナシが慌てて駆け寄る。
「大丈……夫、だ。これしきの事――」
地面に膝をついたその背にナナシが手を触れた。
「熱い……」
「何でもな……い……」
とうとう前のめりに傾く身体をナナシのか細い腕が支える。
「慎之助様ッ! 慎之助様ッ!!」
慎之助の意識は滝壺に落ちた木の葉のように、グルグルと翻弄されながら水底に沈んで消えた――――。