九、
朝陽が昇ると共に、柔らかな光が木々に覆われた一本道のその先を浮かび上がらせる。
夜と朝の狭間にある空気はゆっくりと溶けて混ざり合い、何処からか清らかな水の香りを運んできた。
角笠を目深に被った慎之助は、背後に遠く霞む梵の谷を振り返った。
椰斗の笑い声が幻の様に未だ耳について離れない。
「拙者は井の中の蛙であったのか」
一陣の風が山間を通り過ぎ、ザワザワと草木を揺らしながら慎之助の横を走り抜けた。
それが何かの拍子で獣の遠吠えの様にも聞こえる。
再び歩みを進めた慎之助は、昨夜の出来事を思い浮かべていた。
『この世には人間の他に、闇と呼ばれる者と月と呼ばれる者がある』
椰斗の言葉に慎之助が訊ねる。
『お前達はどちらなのだ』
『我等は月の一族だ』
『では、あの者らは闇ということか』
『そうとも言えるし、違うとも言える』
『どういう事だ』
『あれは元は人間だ。そもそも闇族の者は月の満ちる夜、狩りの時にしか姿を変えない』
『ならば何故あのような姿に……』
『闇の持つ力に絡め取られた愚か者だ』
『その力とは』
『不老長寿。その代償も知らず時の権力者達が何より願って止まぬもの』
蝋燭の灯火が椰斗の白い顔をぼんやりと照らし出している。
屋敷に戻った二人は静かな座敷の中央で対座していた。
『……咲埜の城を襲ったのはあの者達か』
『咲埜? 阿木山家か……ああ成る程。おぬしがここへ来た訳が漸く分かった』
城を襲ったのはあの者達か?――――再びそう訊ねる慎之助に椰斗が首を振る。
『あれにそこまでの力は無い』
『では何者なのだ』
『質問が多い。私はおぬしの疑問に全て答えをくれてやるほど甘くはないぞ。それに、雪右衛門がおぬしをここへ寄越したのであろう?』
『何故、父の名を知っている』
『それも質問だな』
アヤが足音も無く入ってきて、白湯を差し出した。
『お前達の姿もあのように変わるのか』
先程見た獣の様に歪んだ姿が慎之助の脳裏に浮かんだ。
アヤがクスクスと笑い声をあげる。
『さあ、どうでしょう』
そう言ったアヤの首に慎之助の抜いた刀がピタリとあてられた。
『まさかお前達では有るまいな』
包帯の下の見えない眼が慎之助を睨み付ける。
『そんなもので我等は殺せぬと言ったであろう』
『試してみなければ分からぬ』
『愚かな……』
その時、アヤの顔がクルリと慎之助を見上げた。
同時に細い首筋から真っ赤な血が滴り落ちる。
アヤの両目が金色に光り、慎之助の身体はピクリとも動かなくなった。
『くっ……』
雨露に濡れた花びらの様な唇の間から覗く二本の牙が慎之助の首筋にくい込む。
『何を……』
遠くなる意識のなかで、椰斗の声が聞こえた。
『この森を抜けた先へ行け。鬼祓師を捜すのだ。今はもう生きておるのか、死んでおるのかすら分からぬが……。そしてもし会うことが叶ったならば伝えてはくれぬか』
――――後悔はしていないと。
その言葉を聞いたのを最後に、慎之助の意識は闇に溶けた。
再び目を開けた時、梵の谷は家もタタラ場もそのままに、住人だけが一人残らず消え失せていた。
『狐にでも化かされたか?』
その時感じた微かな首元の痛みに指を当ててみると、小さな二つの傷があった。
『鬼祓師を捜せ』雪右衛門と椰斗の声が重なる。
そうして何かに導かれる様に黙々と木々の中を進んで来た慎之助の目の前に、いつしか透明な水を湛えた大きな滝壺が姿を現した。