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親友の結婚式で、夫が泣きながら花嫁に「結婚するな」と言った』

作者: 熾星
掲載日:2026/08/24

 


 親友の結婚式で、夫が泣きながら「結婚するな」と言った


 親友の莉奈の結婚式で、酔った夫の黒川圭介が突然マイクを奪い、失恋の歌を歌い始めた。


 途中から圭介の目は赤くなり、視線はずっと花嫁の莉奈に向けられていた。


 結婚して三年。私にあんな顔を見せたことは、一度もない。


 歌が終わる前に、圭介は莉奈の前まで歩いていき、その手をつかんだ。


「結婚するな」


「莉奈、俺と来い」


 会場が一瞬で静まり返った。


 莉奈は二度ほど手を引こうとしたものの、先に私のほうを見た。


「美月、圭介かなり酔ってるから、連れて帰ってあげて」


 そして、何でもないことのように付け加えた。


「酔ったあとはレモン水を飲みたがるから。蜂蜜は少なめね。甘いの苦手だから」


 私は思わず笑った。


 結婚して三年の妻である私すら知らないことを、彼女はよく知っている。


 どうやら、この結婚生活で本当に酔っていたのは私のほうらしい。



 1



 周囲ではすでに招待客たちの囁き声が広がっていた。


 新郎の相原直哉は険しい表情で圭介の手を振り払い、莉奈をかばうように自分の背後へ下げた。


「黒川、お前何してるんだよ」


 押された圭介は一歩よろめいたが、酔いは醒めるどころか、目の奥に妙な意地が宿っていた。


「何してるって?」


「本人に聞けよ。本当に結婚したい相手が誰なのか」


 莉奈の顔から血の気が引いた。


 すぐに直哉の腕へしがみつく。


「直哉、違うの。圭介、本当に飲みすぎてるだけだから」


 それから私を見た。


「美月、早く何とかしてよ」


 私はその場から動かなかった。


 何とかする?


 どうやって。


 今日ここに来なければ、自分の夫が別の女のためにこんな顔で泣けることさえ知らなかったのに。


 やがて莉奈の両親が青ざめた顔で駆けつけてきた。


 父親は娘をかばうように前へ立ち、圭介をまっすぐ見た。


「黒川さん」


「今日は娘の結婚式です。今すぐお帰りください」


 式場スタッフも集まってきた。


 圭介はまだ何か言おうとしていたが、結局は会場の外へ連れ出された。


 その場にいた全員が見ていた。


 新郎の前で、新婦に「結婚するな」と泣いてすがった既婚者。


 そして、その男の妻である私。


 結婚式はそのまま続けられる雰囲気ではなくなり、予定より早く切り上げられた。


 直哉は険しい顔で莉奈を連れてホテルを出ていった。私も酔った圭介を車に乗せ、自宅へ向かった。


 助手席の圭介は目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。


 車内には酒の匂いがこもっている。


 しばらくして、彼はようやくこめかみを押さえた。


「飲みすぎた」


 私は黙って運転を続けた。


「昔からの知り合いが結婚するのを見て、ちょっと感傷的になっただけだ」


「莉奈とは何もない。さっきのも酔っぱらいの冗談だよ」


 冗談。


 他人の結婚式で失恋の歌を歌い、花嫁の手をつかんで「俺と来い」と言う。


 そんな冗談があるのだろうか。


 私が何も言わないでいると、圭介の声に苛立ちが滲んだ。


「高瀬美月、いつまで黙ってるつもりだ?」


「酔ってたって言ってるだろ。それ以上、何を言えばいいんだよ」


 私は路肩に車を停めた。


 泣きもせず、怒鳴りもせず、ただ彼を見た。


 その静けさのほうが、かえって圭介には居心地が悪かったらしい。


「美月……」


 私は口元だけで笑ったものの、言葉が出てこなかった。


 結婚して三年。


 同じベッドに寝ても、圭介はいつも私に背を向けていた。


 近づけば「疲れてる」、話しかければ「今はやめてくれ」。


 私はずっと、彼はそういう人なのだと思っていた。


 感情を表に出さず、恋愛にも淡白で、仕事のほうが大事な人。


 でも違った。


 この人に情熱がなかったわけではない。


 それを向ける相手が、私ではなかっただけだ。


 そのとき、圭介のスマートフォンが鳴った。


 画面に表示された名前は、莉奈。


 彼はほとんど反射的に電話に出た。


「莉奈?」


「どうした? 泣くな、ゆっくり話して」


 ついさっきまで私には苛立ちしか見せなかった声が、一瞬で柔らかくなった。


 電話の向こうで何を言われたのか、圭介の顔色が変わる。


「直哉に殴られたのか?」


「怖がらなくていい。新居から出るな。今すぐ行く」


 電話を切ったあと、圭介は何の説明もせず車を降りた。


 足早に遠ざかっていく背中を見つめながら、胸の奥に残っていた何かが静かに消えていくのを感じた。



 2



 一人で家へ戻った。


 広いリビングは照明もつけないままでは妙に静かで、ソファに座ると自分の呼吸まで聞こえた。


 私は実家に電話をかけた。


「お母さん」


 たったそれだけで涙がこぼれた。


「美月? どうしたの?」


「圭介に何かされた?」


 母の慌てた声を聞いた途端、もう抑えられなかった。


 私は結婚式で起きたことを、途切れ途切れに話した。


 途中で父が電話を代わった。


 しばらく黙ったあと、静かに言った。


「無理して一緒にいる必要はない」


「本当にもう駄目だと思うなら、帰ってこい」


 それを聞いて、余計に涙が出た。


 そばにいた母が、小さな声で父に何か言った。


「でも美月、この前……」


 電話の向こうが静かになった。


 私も無意識に下腹部へ手を添えた。


 妊娠していた。


 まだ初期で、圭介には言っていない。


 もう少ししてから、きちんと伝えるつもりだった。


 父が改めて口を開いた。


「子供のことも、お前が決めなさい」


「産むにしても、産まないにしても、父さんたちは味方だから」


 その夜は、ほとんど眠れなかった。


 翌日の午後、玄関の鍵が開いた。


 圭介が戻ってきた。


 そして、その後ろには莉奈がいた。


 莉奈の目は赤く腫れ、口元には青あざのようなものが見えた。


 圭介は私に何の相談もせず、彼女の荷物を玄関へ置いた。


「直哉に殴られた」


「行くところがないから、しばらくここに置く」


 私は圭介と莉奈を交互に見た。


「無理」


「何が?」


「莉奈はここには住めない」


 圭介の表情が一気に険しくなった。


「美月、莉奈はお前の親友だろ」


「こんな状態の人間に、どこへ行けって言うんだ?」


 親友。


 思わず笑いそうになった。


「昨日、莉奈の結婚式を壊したのはあなた」


「今日、莉奈を私たちの家に連れてきたのもあなた」


 私は圭介をまっすぐ見た。


「どんな立場で面倒を見るの?」


「愛人?」


 圭介の顔が赤くなった。


 次の瞬間。


 乾いた音が部屋に響いた。


 頬が熱い。


 圭介に叩かれたのだ。


 私は泣かなかった。


 ただ、目の前にいる夫を見上げた。


「黒川圭介」


「あなた、自分が最低だって言ってた直哉と何が違うの?」


 圭介の怒りが、一瞬で狼狽に変わった。


「美月……」


「違う。今のは、ちょっと頭にきて」


「わざとじゃない」


 手を伸ばしてくる。


 私は顔を背けた。


 それまで黙っていた莉奈が、ようやく圭介の腕をつかんだ。


「圭介、やめて」


 そして涙を流しながら私を見る。


「ごめんね、美月。全部私が悪いの」


「私、ここには泊まらない」


「ホテルに行くから。二人とも、私のことで喧嘩しないで」


 莉奈はいつもそうだった。


 全部が起きてから、最後に自分から引くふりをする。


 すると周りは決まって言う。


 莉奈は優しい。


 莉奈は我慢している。


 莉奈は何も悪くない。



 3



 私は莉奈を見ずに、圭介だけを見た。


「帰ってもらって」


「それが嫌なら、あなたも一緒に出ていって」


 圭介は完全に頭に血が上ったらしい。


「高瀬美月、いい加減にしろ」


「この家は結婚前に俺が買ったんだ」


「莉奈は今日ここに泊める」


「嫌ならお前が出ていけ」


 数秒、彼を見つめた。


「わかった」


 それだけ言って、玄関へ向かった。


 荷物もまとめなかった。


 部屋にも戻らなかった。


 まさか本当に出ていくとは思っていなかったのか、圭介は一瞬言葉を失っていた。


 外へ出て、そのまま歩いた。


 しばらくすると後ろからクラクションが鳴った。


 圭介の車だった。


「乗れ」


 私は無視した。


 圭介は路肩に車を停めて降りてきた。


「いつまで意地張ってるんだよ」


 腕をつかまれ、半ば強引に助手席へ押し込まれた。


 車は人通りの少ない水辺の道へ入り、暗い場所で停まった。


 圭介はシートベルトを外す。


 さっきより少しだけ声を落ち着かせていた。


「莉奈がいたから、言い方がきつくなった」


「気にするなよ」


 私は窓の外を見たまま答えなかった。


 その沈黙に耐えられなかったのか、すぐにまた苛立ち始める。


「もういいだろ」


「いつまで怒ってるんだよ」


 彼が肩へ手を伸ばしてきた。


 私は避けた。


 圭介の表情が冷たくなる。


「今まで散々、お前のほうから近づいてきたくせに」


「今さら何なんだよ」


 胸の奥が冷えた。


 私が妻として彼に触れようとしてきたこと。


 愛してほしいと思ったこと。


 圭介にとっては、ただ鬱陶しいものだったのだ。


 圭介が急に身を乗り出してきた。


 狭い車内で逃げ場がなくなる。


「俺だっていつまでも付き合ってられない」


 手首を強くつかまれた。


「夫婦だろ」


「やめて!」


 私は必死に腕を引いた。


 圭介の手が服にかかった。


 一気に恐怖が込み上げる。


「黒川圭介、やめて!」


「妊娠してるの!」


 動きが止まった。


 圭介は信じられないものを見るように私を見た。


 それから視線が下腹部へ落ちる。


「何……?」


 私は手を振りほどいた。


「妊娠してる」


「まだ初期だけど」


 圭介の顔から苛立ちが消えた。


 代わりに、驚くほど明るい表情が浮かぶ。


「本当に?」


「美月、俺たちの子供?」


 抱きしめようとする。


 私はすぐに離れた。


「触らないで」


 圭介が止まる。


「妊娠してるからじゃない」


「私は今、あなたに触られたくないって言ってるの」


 けれど圭介は、ほとんど聞いていないようだった。


 頭の中は子供のことでいっぱいらしい。


 車を再び走らせた。


 さっきまでとは別人のように慎重な運転だった。


「さっきは悪かった」


「妊娠してるなら、もう怒るなよ。身体にもよくない」


 私は横顔を見た。


 ほんの少し前まで、自分の意思を無視して押さえつけていた人間とは思えない。


 子供がいると知っただけで、突然優しい夫を演じ始めた。


 車は青凪湾沿いの高級ホテルに停まった。


 圭介はスイートを取り、私を部屋へ入れた。


「家には莉奈がいる」


「今は顔を見るだけでも腹が立つだろ。ここで休め」


「今夜は俺もここにいる」


 まるで完璧な気遣いをしているつもりだった。


 そのとき、窓の外で雷が鳴った。


 ほぼ同時に圭介のスマートフォンが震える。


 莉奈だった。


「圭介……」


「外、ずっと雷が鳴ってる」


「一人でいるの怖い」


 圭介の表情が変わる。


「大丈夫」


「今から戻る」


 すぐに立ち上がった。


 ドアの前まで行ってから、ようやく私の存在を思い出したように振り返る。


「変なふうに考えるなよ」


 ドアが閉まった。


 広い部屋が静まり返る。


 私はソファに座ったまま、しばらく動けなかった。



 4



 午前四時。


 スマートフォンの画面が明るくなった。


 莉奈からだった。


 短い動画が一つ添付されている。


 しばらく迷ったあと、私は再生した。


 画面はほとんど真っ暗だった。


 何も見えない。


 雨音と、途切れ途切れの呼吸だけが聞こえる。


 やがて莉奈の声。


「圭介……これ、よくないよね……」


 少し間があった。


 次に聞こえたのは、圭介の低い声だった。


「美月の話はするな」


「冷める」


 指先から体温が失われていく。


 しばらくして、さらに言った。


「妊娠してるんだ」


「今はあいつには触れないだろ」


「莉奈ならわかるよな?」


 動画はそこで終わった。


 黒くなった画面を見つめながら、長い間動けなかった。


 私の妊娠は、圭介にとって喜ばしいことではなかった。


 他の女と関係を持つための理由の一つに過ぎなかった。


 朝になって、圭介の連絡先をすべて削除した。


 父へメッセージを送る。


『お父さん、決めた』


『この子は産まない』


 ホテルを出て、以前受診していた産婦人科へ向かった。


 診察室で私は、昨夜までに起きたことを医師へ話した。


 夫に叩かれたこと。


 車の中で無理やり触られそうになったこと。


 もう夫婦関係を続ける意思がないこと。


 医師は静かに聞いたあと、もう一度だけ確認した。


「気持ちは変わりませんか?」


「はい」


「決めています」


 それ以上、何かを説得されることはなかった。


 必要な手続きを終え、自分の名前を書いた。


 処置そのものは問題なく終わった。


 けれど、その後に出血が増えた。


 看護師がすぐ異変に気づいた。


 血圧が下がる。


 周囲の声が慌ただしくなる。


 意識も少しずつ遠くなった。


 最後に覚えているのは、白い天井だった。




 昼ごろ。


 圭介は買ってきたスープを手にホテルへ戻った。


 カードキーで部屋に入る。


「美月?」


 返事はなかった。


 寝室へ行っても、ベッドは使われた形跡すらない。浴室も乾いたままだった。


 圭介は顔をしかめ、スマートフォンを取り出した。


 美月の番号はつながらない。


 メッセージアプリもブロックされていた。


 すべての連絡手段を切られている。


 苛立ちがこみ上げたところで、莉奈から電話が来た。


「どうした?」


「圭介、助けて!」


「直哉が来たの!」


「ドアの外にいる。殺されるかもしれない!」


 直後、甲高い悲鳴が聞こえた。


 通話が切れる。


 圭介は車のキーをつかんで部屋を出た。


 エレベーターを待っていると、今度は知らない番号から着信があった。


「はい」


「黒川圭介さんでしょうか」


「青凪中央病院の産婦人科です」


 圭介の動きが止まる。


「高瀬美月さんが処置後に大量出血を起こし、現在緊急の治療を受けています」


「緊急連絡先として黒川さんのお名前が登録されていたため、ご連絡しました」


 圭介の顔から血の気が引いた。



 5



「大量出血?」


「今どうなってるんですか?」


「現在、医師が対応しています。まだ詳しいことは申し上げられません」


「すぐ行きます」


 電話を切った。


 けれどその直後、また莉奈から着信が入った。


 画面に表示された名前を、圭介は長い間見つめていた。


 結局、出た。


「圭介……」


「どうして来てくれないの?」


「直哉、本当に外にいるの。怖い……」


 圭介は唇を噛んだ。


 数秒後、秘書へ電話をかける。


「小林、今すぐ青凪中央病院へ行ってくれ」


「美月がいる」


「状況だけ確認して、何かあればすぐ連絡してくれ」


 秘書は戸惑った。


「黒川専務ご本人は?」


 圭介は答えず、電話を切った。


 向かったのは莉奈の住む部屋だった。


 二十分ほどで到着し、中へ入る。


 リビングは確かに荒れていた。


 テーブルは倒れ、花瓶やグラスが割れている。


 しかし相原直哉の姿はなかった。


 莉奈は一人、ソファの隅で膝を抱えていた。


 圭介を見るなり立ち上がり、その身体に抱きつく。


「来てくれた……」


「本当に怖かった」


 圭介は抱き返さなかった。


「直哉は?」


「さっき出ていった」


「たぶん、あなたが来るのがわかったから」


 圭介は玄関へ目を向けた。


 ドアにも鍵にも、不自然な傷はない。


「ドアを壊すって言ってたんじゃなかったのか?」


 莉奈の動きが止まった。


「……うん」


「だったら、何でどこにも跡がない?」


 莉奈はすぐに泣き始めた。


「私のこと信じてくれないの?」


「私は本当に怖かったのに」


 圭介はしばらく黙っていた。


 そしてスマートフォンを取り出す。


「直哉に電話する」


 莉奈の顔色が変わった。


「やめて!」


 腕をつかむ。


「何で?」


「いいから、やめて!」


 声が裏返った。


 圭介はじっと莉奈を見る。


 やがて彼女のほうから崩れた。


「……直哉じゃない」


「何が?」


「あざも、自分でぶつけたの」


「昨日もそう」


 圭介の表情が消えた。


「全部嘘だったのか?」


「だって、そうでもしないと圭介は私のところに来てくれないでしょう!」


 莉奈は泣きながら服をつかんだ。


「あなた、美月のところに戻っちゃうから」


 圭介は彼女の手を振り払った。


「もういい」


 すぐに小林へ電話した。


「病院は?」


 数秒の沈黙。


「黒川専務」


「高瀬さんは処置を終えて、今は容体も落ち着いています」


 圭介が息を吐く。


 けれど秘書は続けた。


「それと……もう一つあります」


「何だ?」


「高瀬さんが今日病院へ行ったのは、妊娠を中断するためだったそうです」


 圭介は言葉を失った。



 6



 次に目を開けたとき、母がそばにいた。


 手を握られている。


 父は窓際に立っていた。


 身体は重かったが、意識ははっきりしていた。


 ドアが開く音がした。


 圭介だった。


 病室へ入ってきた彼を見た瞬間、父の表情が変わった。


 怒鳴りはしなかった。


 ただ、冷たい目で見た。


「黒川圭介」


「何しに来た」


「娘が死んでないか確認しに来たのか?」


 圭介の喉が動く。


「お義父さん……」


「そう呼ぶな」


 父の声が低くなる。


「もうお前の父親じゃない」


 母は泣き腫らした顔で圭介を見た。


「美月はあなたと結婚して三年、一度も帰ってきて悪口を言わなかった」


「今回ここまでならなかったら、私たちは何も知らなかった」


 父の手が握り締められる。


「この子は一人で病院に来た」


「一人で決めて」


「一人で処置を受けて、そのあと出血して倒れた」


 圭介を見る。


「その間、お前はどこにいた?」


「誰と一緒だった?」


 圭介は何も言えなかった。


 父が歩み寄り、拳を振り抜いた。


 圭介がよろめき、壁際まで下がる。


 二発目も避けなかった。


「娘を殴ったときは随分元気だったそうじゃないか」


「どうした。今はやり返さないのか」


「お父さん」


 私が呼ぶと、父の動きが止まった。


「美月?」


「起きてたのか。動くなよ」


 私は父ではなく、圭介を見た。


 怒りもなかった。


 悲しみもなかった。


 見知らぬ人を見るのと同じだった。


「帰って」


 圭介の身体が固まる。


「美月」


「ごめん」


「出ていって」


「顔を見たくない」


 母が立ち上がり、圭介を病室の外へ押し出した。


 ドアが閉じた。



 7



 圭介は病院の廊下に一晩中いた。


 明け方、父が病室から出てくると、まだベンチに座っていた。


「そこで座ってても何も変わらないぞ」


 父の声には、もう怒鳴る力さえ残っていなかった。


「美月が目を覚まして最初に何て言ったか知ってるか?」


 圭介が顔を上げる。


「母さん、ごめんって言ったんだ」


 父はしばらく黙った。


「子供を産まないと決めたのは美月自身だ」


「それでも命まで危なくなったあと、最初に家族へ謝った」


「何を謝ることがあるんだ」


 父は目を伏せた。


「謝るべき人間は、あの子じゃない」


 圭介はゆっくり立ち上がった。


「高瀬さん」


「もう一度だけ、会わせてください」


「謝りたいんです」


 父は長い間彼を見た。


「会いたいかどうかを決めるのは美月だ」


 それだけ言って、道を空けた。



 圭介がもう一度病室に入ってきたとき、私は窓の外を見ていた。


「会いたくないって言ったはずだけど」


「美月」


「俺のこと、恨んでるよな」


 私は振り返った。


「恨む?」


「黒川圭介、自分を買いかぶりすぎじゃない?」


 彼の顔が強張る。


「恨むのにも、まだ感情が必要なの」


「私はもう、あなたにそれすらない」


「じゃあ三年は?」


 圭介の声が震える。


「俺たちの三年間は何だったんだよ」


「三年?」


 私は彼を見る。


「私があなたを追いかけて、あなたが私を鬱陶しがってた三年間でしょ」


「今さら何を惜しんでるの?」


 圭介が一歩近づく。


「本当に悪かった」


「もう二度としない」


「莉奈とは――」


「莉奈はもう関係ない」


 私は遮った。


「今、話してるのはあなたのこと」


「莉奈から電話が来れば、私を置いていった」


「病院から私が大量出血してるって連絡されても、先に莉奈のところへ行った」


 少し笑った。


「そのあとで後悔してる夫みたいな顔をされても、何の意味もないよ」


 圭介の膝が床についた。


「何でもする」


「殴っても、罵ってもいい」


「だから、そんなふうに俺を見るな」


 私は静かに見下ろした。


 結婚して三年。


 一度だって、私に頭を下げなかった男。


 今さら床に膝をついている。


「立って」


「許してくれるまで立たない」


 私は無名指の指輪を外した。


 そしてベッド脇の小さなテーブルに置いた。


「黒川圭介」


「よく聞いて」


「私が人生で一番後悔してるのは、あなたと結婚したこと」


「離婚する」


 圭介の顔が真っ白になる。


「これで終わり」



 8



 圭介は病院を出たあと、駐車場の車内で朝まで過ごした。


 スマートフォンには莉奈から大量のメッセージが届いていた。


『どこにいるの?』


『美月のところ?』


 最後は明け方の音声だった。


「圭介」


「あなたまでいなくなったら、私どうしたらいいかわからない」


 最後まで聞いて、スマートフォンを助手席へ置いた。


 そのまま会社へ向かった。


 圭介は青凪商事の専務取締役だった。


 普段なら会議中に上の空になることなどほとんどない。


 その日は書類を三枚続けて間違えた。


「黒川専務、体調でも悪いんですか?」


「何でもない」


「出てくれ」


 秘書が退出すると、圭介は相原直哉へ電話した。


「少し話したい」


「黒川?」


 直哉は鼻で笑った。


「俺の結婚式で妻に『俺と来い』って言った男が、今さら何だよ」


「一つだけ確認したい」


「莉奈を殴ったことはあるか?」


 しばらく沈黙したあと、直哉は乾いた笑いを漏らした。


「俺が?」


「そんなこと一度もない」


「俺はただ、あいつを信じたかっただけだ」


「ずっと別の男が好きなんじゃないかって思ってた。でも結婚すれば変わると思った」


 声が疲れていた。


「結局、結婚式の日にお前が手を出したら、あいつ本当に迷ってた」


「俺の手を離して、お前のところへ行きそうになってた」


 圭介は何も言わなかった。


 もう十分だった。


 午後、再び病院へ行った。


 受付の看護師は圭介を見ると、少し困った顔をした。


「高瀬さんなら、午前中に退院されました」


「どこへ?」


「ご家族がお迎えに来ています」


「それ以上のことはお答えできません」


 圭介はしばらくその場に立っていた。



 9



 三日後。


 圭介は美月の両親が住んでいた家を訪ねた。


 何度インターホンを押しても応答はない。


 隣人が顔を出した。


「高瀬さんのお宅?」


「はい」


「しばらく青凪を離れるって言ってたわよ」


「どこへ?」


「そこまでは知らない」


「昨日の朝、荷物持って出ていったけど」


 圭介は人気のない廊下に立ち尽くした。


 そこで初めてわかった。


 美月は怒って家出したわけではない。


 本当に、自分の人生から消えようとしている。


 家へ戻ると、リビングに莉奈がいた。


 ソファで果物を食べている。


「圭介、お帰り」


「少し片づけておいたよ」


 圭介は玄関から動かなかった。


「誰が入っていいって言った?」


 莉奈の笑顔が消える。


「何?」


「誰が俺の家に入れていいって言ったんだ」


 莉奈はゆっくり立ち上がった。


「私は圭介が好きな人でしょう?」


「来ちゃ駄目なの?」


 圭介は乾いた笑いを漏らした。


「直哉とは離婚したのか?」


 莉奈は黙った。


「まだだろ」


「お前、もう直哉と籍を入れてるんだよな」


「今は相原莉奈だ」


 圭介は彼女を見る。


「夫と離婚もしないまま俺の家に住みつこうとして、何がしたい?」


「圭介と一緒にいたいの」


「何が悪いの?」


 莉奈が腕をつかもうとする。


 圭介はゆっくり避けた。


「直哉に殴られたって嘘をついた」


「ドアを壊されてるって嘘もついた」


「雷が怖いって泣いたのも、俺を呼ぶためだった」


「莉奈」


「お前の言ってること、どこまで本当なんだ?」


 莉奈の顔が白くなる。


「直哉と話したの?」


「話した」


 数歩下がったあと、急に表情が変わった。


「だから何?」


「圭介、美月と結婚して三年、一度も本気で愛してなかったでしょ」


「ずっと好きだったのは私じゃない」


「そうだ」


 莉奈の目が明るくなる。


「昔はな」


 圭介は目を開けた。


「今は違う」


 莉奈の顔が歪んだ。


「絶対後悔するから」


「美月には捨てられたんでしょ?」


「私までいなくなったら、誰もあんたなんて要らないよ」


 圭介は玄関のドアを開ける。


「出ていけ」



 10



 一か月後。


 美月側の弁護士から離婚に必要な書類が会社へ届いた。


 感情的な文章もなければ、復讐めいた要求もなかった。


 財産については弁護士を通して整理する。


 美月が望んでいるのは、ただ結婚を終わらせることだけだった。


 圭介は抵抗しなかった。


 離婚届が受理された日。


 圭介は一人、市役所近くの喫茶店に入った。


 三年前。


 二人で婚姻届を出したあとにも来た店だった。


 美月は温かい飲み物を両手で持ちながら笑っていた。


「黒川圭介」


「これからよろしくね」


 あのとき圭介は返事をしなかった。


 そんな言い方は少し気取っていると思った。


 今、向かい側の席には誰もいない。


 冷めたコーヒーだけが残った。


 二か月後。


 小林秘書が知らせに来た。


「黒川専務」


「高瀬さん、国外へ出られたそうです」


 圭介は顔を上げた。


「どこへ?」


「ノルディア共和国です」


「出発前に一言だけ、伝言を預かりました」


 圭介は黙った。


「探さないでほしい、と」


「お互い、自分の生活を送りましょう、と」


 圭介は三日間、ほとんど仕事にならなかった。


 四日目。


 相原直哉が会社を訪ねてきた。


「莉奈とは離婚した」


 圭介が顔を上げる。


「本人も納得したのか?」


「言い出したのは向こうだ」


 直哉は疲れたように笑った。


「お前のところから戻ってきたあと、毎日喧嘩だった」


「俺の給料が安いとか、頼りないとか」


「結婚して半月で、もう無理だと思った」


 立ち上がる。


「莉奈は次にお前のところへ行くって言ってた」


「もう二度と、莉奈のことで俺に連絡してくるな」


「俺も終わりにしたい」


 それだけ言って帰っていった。


 一週間もしないうちに、莉奈は本当に現れた。


 最初は会社の前。


 手作りらしい弁当を持ってきた。


 翌日は服を変え、「近くに用事があったから」と言った。


 その次の日も。


 さらに次の日も。


 受付で止められればロビーで待ち、警備員に外へ出されれば会社の前で圭介の名前を呼んだ。


 圭介が自宅のセキュリティ設定を変更すると、今度はマンションの外で待つようになった。


 ある晩、帰宅すると階段の近くに莉奈が座っていた。


「圭介」


「私、もう行くところがない」


「友達のところへ行け」


 莉奈は首を振った。


「誰も連絡取ってくれない」


「結婚式のことが広まって、みんな私が悪いって」


「悪いだろ」


 莉奈の目から涙が落ちた。


「間違ったことはわかってる」


「でも好きなのは悪いことなの?」


 圭介は車のドアを開けた。


「お前が好きなのは俺じゃない」


「何それ」


「勝つことだよ」


「美月に負けるのが嫌だった」


「だから、美月が持ってるものを奪いたかった」


「実際に奪ったら、思ってたほど価値がなかった」


 圭介は莉奈を見る。


「お前が本当に好きなのは、自分だけなんじゃないか」


 圭介がドアを閉めようとすると、莉奈が突然手を差し入れた。


「痛っ!」


 慌ててドアを開ける。


 手首が赤くなっている。


「何やってるんだよ」


 莉奈は泣きながら笑った。


「ほら」


「やっぱり心配するんじゃない」



 11



 莉奈のつきまといは三か月続いた。


 電話番号を変えては連絡してくる。


 ブロックすれば別の番号。


 圭介が引っ越すと、なぜか新しい住所まで突き止めた。


 出張先へ同じ飛行機でついてきたことすらある。


 圭介は一度警察にも相談した。


 莉奈にも警告が入った。


 その直後だけは静かになったが、数日経つとまた違う方法で姿を現した。


 圭介はもう一度引っ越し、玄関とリビングに防犯カメラを取り付けた。


 ある夜、会社の会食で飲みすぎた。


 翌朝目を覚ますと、莉奈が客室で寝ていた。


「昨日、かなり酔ってたから送ってきただけ」


「何もしてないよ」


 圭介は長い時間シャワーを浴びた。


 出てくると、莉奈の荷物をすべて玄関の外へ出した。


「これで最後だ」


「俺とお前はない」


 莉奈は玄関に立ち尽くした。


「何で?」


「美月はもういないじゃない」


「どうして私じゃ駄目なの?」


 圭介は彼女を見る。


「今はもう、お前がどういう人間かわかってるからだ」


 莉奈の表情から哀願が消えた。


「黒川圭介、自分だけまともな人間みたいな顔しないでよ」


「私の結婚式で泣いて『結婚するな』って言ったのは誰?」


「妻が妊娠してるのに、私のところへ来たのは誰?」


「何で今さら私だけ悪者なの?」


 圭介はしばらく黙っていた。


「その通りだ」


「俺もまともじゃない」


「だからこそ、もう終わりにしよう」


 ドアを閉めた。


 莉奈は長い間、外から動かなかった。


 その夜。


 圭介は一人で酒を飲んでいた。


 スマートフォンには、美月と撮った古い写真が一枚だけ残っていた。


 美月は笑っている。


 圭介は無表情でカメラを見ていた。


 インターホンが鳴った。


 デリバリーだと思ってドアを開ける。


 莉奈だった。


 両手にワインを持っている。


「今日、落ち込んでると思った」


「一緒に飲もう」


 圭介はドアを閉めようとした。


 けれど酒が回っていて反応が遅れた。


 莉奈はもう中へ入っていた。


 グラスにワインを注ぎ、隣へ座る。


「圭介」


「美月が国外へ行く前、私、会ったよ」


 圭介の手が止まる。


「何て言った?」


 莉奈は笑った。


「『あなたの勝ち』って」


「でも、勝って手に入れたのは、自分が何を欲しいかすらわからない男だけだって」


 その言葉が本当に美月のものなのか。


 圭介にはもう確かめる気もなかった。


 グラスの酒を一気に飲む。


 莉奈が近づいた。


 ネクタイに指をかける。


「やり直そうよ」


「私なら圭介のこと全部わかってる」


「好きなものも、嫌いなものも」


 耳元で囁く。


「まだ私のこと好きなんでしょう?」


 圭介は勢いよく立ち上がった。


「帰れ」


 莉奈も立った。


「帰らない」


「追い出すなら、明日会社に行く」


「あなたの両親のところにも行く」


「私たちのこと、全部ネットに書くから」


 圭介の目が細くなる。


「脅してるのか?」


 莉奈は襟元をつかんだ。


「もう何もないの!」


「直哉にも捨てられた」


「美月にも相手にされない」


「友達もいない」


「私には圭介しか残ってない!」


「手を離せ」


「嫌!」


 二人はリビングで激しくもみ合った。


 圭介もかなり飲んでいて、足元が安定しない。


 莉奈は体ごとしがみつき、爪が圭介の腕を引っかいた。


「もう離婚したんでしょう!」


「今は自由じゃない!」


「どうして私を選ばないの?」


「莉奈、いい加減にしろ!」


「私がこうなったのは圭介のせいでしょう!」


 莉奈が強く押した。


 圭介は数歩よろめき、ベランダへ続く大きな窓枠へ背中をぶつけた。


 手にしていたワインボトルが落ち、出入口のそばで砕ける。


 莉奈がまた圭介へつかみかかった。


 腕を引っかかれ、圭介の中で何かが切れた。


 怒りに任せて、莉奈を強く突き放した。


 莉奈は後ろへよろめく。


 開いたベランダのドアを越えたところで、靴底が割れた瓶の破片を踏んだ。


 一気に足を取られる。


 身体が後ろへ傾いた。


 その先には、ベランダの手すりがあった。


 十二階だった。



 12



 あまりにも一瞬だった。


 莉奈の身体が手すりへぶつかる。


 腕を伸ばした。


 何かをつかもうとした。


 けれど指先は何にも届かなかった。


 次の瞬間、姿が消えた。


 ほどなくして、下から悲鳴が上がった。


 誰かが119番をしている。


 圭介はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。


 莉奈を突き放した手だけが、まだ前へ出ている。


 どれくらい経ったのかわからない。


 圭介はリビングへ戻った。


 スマートフォンを取り、110番した。


「事件ですか、事故ですか」


「人が、うちのベランダから落ちました」


「俺が突き放したあとです」


 住所を告げた。


 そのままソファに座った。


 警察と救急隊がほどなく到着した。


 圭介は抵抗しなかった。


 下へ連れていかれる途中、規制線の向こうに救急隊員たちが集まっているのが見えた。


 やがて人影はシートで覆われた。


 警察署で長い取り調べを受けた。


「亡くなった女性とはどういう関係ですか」


 圭介は少し黙った。


「以前、好きだった人です」


「なぜ突き飛ばしたんですか」


「家に押しかけてきて、ずっとつかまれていた」


「俺も頭にきて、強く突き放しました」


 警察は自宅の防犯カメラ映像を確認した。


 莉奈のつきまといが続いたため、圭介が引っ越し後に設置したものだった。


 玄関からリビングまでの一連の流れが残っていた。


 莉奈が自ら家へ入り、二人が口論になったこと。


 何度も身体をつかみ合ったこと。


 莉奈が先に圭介を押したこと。


 その後、圭介が怒って莉奈を強く突き放したこと。


 直接の転落原因は、莉奈が後退した際に割れた瓶を踏み、体勢を崩して手すりへぶつかったことだった。


 圭介に殺意があったとは認められなかった。


 ただし、怒りに任せた暴行そのものが死亡につながった事実は残った。


 事件は起訴された。


 数か月後、青凪地方裁判所で判決が言い渡された。


 傍聴席はまばらだった。


 莉奈の両親は来なかった。


 圭介の両親だけが後ろの席に座っていた。


 母親はずっと俯いたまま泣いていた。


 傷害致死罪。


 拘禁刑六年。


 判決後、圭介は係官に付き添われて法廷を出た。


 廊下の窓の向こうには、冬の空が広がっていた。


 灰色の雲。


 葉を落とした木が風に揺れている。


 三年前の冬を思い出した。


 同じように寒い日。


 美月と二人で市役所へ婚姻届を出しに行った。


 外へ出ると、美月の鼻先は寒さで赤くなっていた。


 それでも笑っていた。


「黒川圭介」


「これからよろしくね」


 あのときは何も返さなかった。


 そんな言い方は少し気取っていると思った。


 今なら返事をしたいと思う。


 けれど、聞いてほしい人はもうどこにもいなかった。


 収監されて三か月ほど経ったころ。


 母から一枚の写真を渡された。


 遠くに雪山が見える。


 青い湖と、雲一つない空。


 美月がノルディアへ着いたあと、両親へ無事を知らせるために送った写真らしい。


 母がその写真を複製して持ってきたのだ。


 圭介宛ての言葉はなかった。


 写真に添えられていたのは、たった一行だけ。


「私は元気です」




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― 新着の感想 ―
なんでフルネームで呼び合ってんの、AI作文?くっだらな。
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