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「行き遅れ」と呼ばれていた私を、彼だけは違う名で呼ばれました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/06

春の招待状の季節になった。


 私は両手で、招待状の束を、抱えていた。革紐で束ねられた厚手の紙の束は、十一通あった。十一通は、去年と同じ通数だった。一昨年は十二通。三年前は十四通だった。年が経つにつれ、通数は、少しずつ、減っている。誰の家に来なくなる招待状なのか、家令たちは互いに把握していて、互いに送らないことを互いに送らないという仕方で、社交界の輪は、すこしずつ、編み直される。私は、その編み直しの結果を、毎年三月の初旬に、両手で、確認している。


 招待状を、書斎の机の上に、置いた。封蝋の温度が、まだ、私の指に、残っていた。封蝋は、私の指の温度を、ほんの少しだけ、受け取って、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。それだけのこと。


 兄を喪ったのは、もう五年前のことでございます。


 私はそう、口の中で、なぞった。声には出さなかった。声に出すべき相手が、書斎の中には、いなかったから。


「お嬢様。お母様がお呼びでございます」


 扉の向こうから、侍女のアンナが、声をかけた。アンナは、私が十七歳の頃から、十三年、この家に勤めている。アンナの前掛けの縁は、十三年で、薄く擦り切れている。私の髪を結う時、彼女の指が毎日、私の額の上を、通る。その指の温度を、私は、知っている。


「ジュリエンヌ・アヴリル・ド・ラシェル様」


 アンナは、私を呼ぶ時、常にフルネームで呼ぶ。「アヴリル」は祖母の家系の名で、四月を意味する。私の誕生日は三月の初。「アヴリル」は、私の中で、「もうすぐ四月」という意味の、二つ目の名前だった。


 私は今年、三十歳になった。十日前に。


「すぐ、まいります」


 私は、招待状の束を、机の引き出しに、入れた。引き出しの奥には、祖母エルマの遺した手紙の束が、革紐で束ねて、置いてあった。祖母の代の貴婦人式の、二重結びの紐。母の代では、もう、誰も結べない結び方だった。祖母から、結び方を教わったのは、私だけだった。母には、教えなかった。教える機会が、なかったわけではない。教える間柄ではなかった、というのが、たぶん、正確だった。


 引き出しを、閉めた。


 招待状は、すべて、お返しすることに決めていた。「春の招待状は、お返しいたします」と書く文面は、もう、頭の中に、用意してあった。書くのは、明日の朝。返送するのは、明日の昼。それで、今年の春は、閉じることになる。


 私は、立ち上がった。


 書斎の窓から、薔薇の蔓の枝が、見えた。新芽は、まだ、出ていなかった。三月初の風は、薔薇の蔓を、ほんの僅か、揺らしていた。それだけのこと。


 ◇


 食堂の卓は、長かった。


 父が一番上座に、母がその右隣に、私が母の向かいに、座っていた。三人で食事をするには、卓は、長すぎた。シリルがいた頃は、シリルが私の隣に、座っていた。シリルがいなくなってから、五年。誰も、その席を、埋めなかった。空いた席があるという事実だけが、毎晩の食事に、ついて、回っていた。


「ジュリエンヌ」


 父が、フォークを置いた。


「ベルマン伯爵家から、改めて、お話があった」


 私は、答えなかった。代わりに、母の方を、見た。母は、視線を、自分の皿に、落とした。


「お受けする方向で、考えてくれないか」


 私は、紅茶のカップに、手を伸ばした。手は、震えていなかった。震える理由を、もう、持っていなかった。


「お考えくださって、ありがとう存じます」


 私は、敬体のまま、続けた。


「ベルマン伯爵家のお話は、これで五度目でございます」


「五度目だが、伯爵家のご子息はまだ独身でいらっしゃる。ご縁というものは、繰り返し、めぐってくる」


「五度繰り返されているのは、ご縁ではなく、お母様とお父様のご熱心でございます」


 私は、紅茶のカップを、口元へ運んだ。一口だけ、含んだ。冷めていた。冷めていることに、いまさら、気づいた。


 父は、しばらく、答えなかった。


「お前が三十路でいることが、家の恥なのだ」


 父は、それを、言った。


 私は、紅茶のカップを、ほんの一秒だけ、長く、持った。それから、卓の上に、置いた。


「お父様」


 私は、続けた。


「私が三十歳でいることを、お父様は何度、後悔されておいでですか?」


 父の眉が、動いた。


「後悔ではない。事実を、申している」


「では、事実として、申し上げます」


 私は、卓の上に、両手を、重ねた。


「兄が逝って、五年でございます。私の十七歳の時の婚約破棄と、兄の死と、いまの縁談と、お父様はどの順序でお話しでございましたでしょうか」


 父の唇が、開いて、閉じた。母が、視線を、私の方へ、上げた。私は、母の方を、見ていた。母の唇も、開きかけて、閉じた。


「シリルが存命であれば、こんなことには」


 父が、それを、言った。


 私は、その一言を、地の文の中で、書き留めた。「シリルが存命であれば」──亡き兄を、現在の縁談強要の道具にする発言。


 私は、答えなかった。


 答える代わりに、礼を取った。深く。退かないための深さで。


「お話、承りました」


 私は、それだけを、言って、立ち上がった。


 食堂を出た。背中で、母が小さく息を吸い込む音がしたけれど、振り返らなかった。


 ◇


 マルゴ伯爵夫人の茶会は、毎年、三月の中頃に、王都の伯爵邸で、開かれる。


 卓の上には、白い磁器のティーセットが並び、銀のスプーンが午後の光を、ばらばらに、反射していた。私は、母に連れられて、卓の端の席に、座った。


 卓の中央には、マルゴ伯爵夫人。その右にベルタ子爵夫人。その隣にコレット男爵令嬢。三人とも、私と母の方を、ちらりと、見た。それから、互いの顔を、ちらりと、見た。


「あら、ラシェル侯爵夫人」


 マルゴ伯爵夫人が、扇を、開いた。


「ジュリエンヌ嬢、お年を召されてからの結婚は、なかなかに、ねえ」


 私は、紅茶のカップに、手を伸ばした。


「ジュリエンヌさんも、もう三十路でいらっしゃるのよ。お見合いは諦めなさいまし」


 コレット男爵令嬢が、ベルタ子爵夫人に、耳打ちするふりを、した。耳打ちにしては、声が、はっきりと、聞こえる距離だった。


 私は、紅茶のカップを、ほんの一秒だけ、長く、持った。それから、口元へ運んだ。冷めかけていた。冷める前の温度の方が、私は、好きだった。


「『行き遅れ』とは可哀想だけれど、自業自得というものでもありますわ」


 ベルタ子爵夫人が、扇の影で、それを、言った。私の母の耳に、その声は、届いていた。母は、視線を、卓の上に、落とした。


 ──「行き遅れ」。


 私は社交界でそう呼ばれている。誰が最初にそう呼んだのか、私は、知らない。いつから呼ばれ始めたのか、それも、知らない。気づいた時には、もう、その名前で呼ばれていた。私の本当の名前──ジュリエンヌ・アヴリル・ド・ラシェル──を、社交界で声に出して呼ぶ婦人は、もう、いなかった。


「お母様、ジュリエンヌさんを、もう少し『地味』にしてさしあげれば、お似合いの方も……」


 マルゴ伯爵夫人が、母の方へ、上半身を、傾けた。母は、答えなかった。母の手が、紅茶のカップの取っ手を、握っていた。指の関節の色が、白くなっていた。


 「お兄様の代わりに、家を立て直してさしあげなさい」


 これは、ベルタ子爵夫人ではなかった。記憶の中の父の声だった。昨日の食堂で、父が言った言葉の、反響が、まだ、私の中で、続いていた。


 私は、もう一口、紅茶を、口に含んだ。冷めていた。


 「シリル様がご存命であれば、こんなことには」


 これも、記憶の中の父の声だった。


 マルゴ伯爵夫人が、私の方を、見た。


「ジュリエンヌ嬢」


 扇を、閉じた。


「もう、お話、聞いていらっしゃる?」


 私は、顔を、上げた。


「失礼いたしました。お話の続きを、伺っておりました」


 私は、母の方を、ちらりと、見てから、続けた。


「マルゴ伯爵夫人。差し支えなければ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「ええ、何でも」


 私は、紅茶のカップを、卓の上に、置いた。


「『行き遅れ』とは、何歳からのことを、おっしゃいますの?」


 ──卓の上の沈黙が、ティーカップの底まで、降りた。


 マルゴ伯爵夫人の扇が、止まった。ベルタ子爵夫人が、口を、開きかけて、閉じた。コレット男爵令嬢が、視線を、自分の皿に、落とした。母は、私の方を、見ていなかった。母も、私と同じように、卓の上を、見ていた。


 マルゴ伯爵夫人は、ほんの一瞬、答えに、詰まった。


「それは……人それぞれ、ですわ」


「左様でございますか」


 私は、もう一度、礼を取った。座ったまま。深く。


「では、私が『行き遅れ』であるかどうかも、人それぞれ、ということに、なるのでしょうね」


 茶会の卓は、それからも、続いた。けれど、私の方を見て話しかける婦人は、もう、その日、いなかった。


 母は、馬車に乗ってから、ようやく、口を、開いた。


「ジュリエンヌ、あなた──」


「申し訳ございません、お母様」


 私は、馬車の窓の外を、見ていた。


「失礼を、いたしました」


 母は、答えなかった。


 馬車が、走っていた。王都の道は、五年前と、ほとんど、変わっていなかった。


 ◇


 翌日の朝、私は、招待状の束を、もう一度、机の上に、置いた。


 返送の文面は、書かなかった。書こうとした手が、止まった。理由は、わからなかった。理由がわからないこと自体が、何か、私の中で、変わり始めている、ということだったのかもしれなかった。


 私は、招待状の束を、革紐で、もう一度、結び直した。それから、アンナを、呼んだ。


「アンナ、二日ばかり、家を空けます」


「どちらへ、参られますか」


「アヴリルの旧領へ。祖母の」


 アンナの目が、ほんの僅か、見開かれた。


「お一人で、参られますか?」


「あなたを、連れて」


 アンナは、礼を取った。それで、その話は、終わった。


 ◇


 アヴリルの旧領は、王都から馬車で半日の距離にある、小さな領だった。祖母エルマが嫁ぐ前から所有していた領で、亡くなった三年前に、私が相続した。屋敷は離れと呼べるほど小さく、薔薇園と、納屋と、老庭師ジョルジュの暮らす番屋しか、なかった。


 馬車が、領の門を、抜けた。


 門の脇に、白い薔薇が、咲きかけていた。三月の中旬で、薔薇が咲くはずは、なかった。けれど、咲いていた。蕾の縁が、ほんの僅か、開いていた。私は、その蕾の品種を、知らなかった。祖母の薔薇園は、もとは南方系のはずだった。けれど、目の前の蕾は、葉の形が、違った。


「お嬢様、お久しゅうございます」


 老庭師ジョルジュが、門の傍で、礼を取った。彼の手には、剪定鋏。腰には、麻の前掛け。前掛けの縁は、アンナの前掛けの縁よりも、もっと、擦り切れていた。


「ジョルジュ、薔薇が、咲きかけているのね」


「はい。今年は、早うございます」


「葉の形が、いつもと、違うように見えますの」


「はい、お嬢様。北方の品種でございます。お祖母様の代に、混ぜて植えられました」


「いつから?」


「五年前、からでございます」


 私は、頷いた。頷くしか、なかった。ジョルジュは、私を、屋敷の方へ、案内した。離れの玄関を、開けた。中の空気が、少し、冷たかった。三年、人が住んでいなかった。


「お嬢様」


 ジョルジュが、玄関で、足を、止めた。


「お祖母様が遺された手紙の束が、書斎の机に、ございます。お祖母様のご遺言で、お嬢様が、いつか、お読みになる時のために、と」


 私は、頷いた。書斎へ、上がった。


 ◇


 書斎の机の上に、革紐で束ねられた手紙の束が、置いてあった。紐の結び方は、二重結び。祖母の代の、貴婦人式。私が、十二歳の時に、祖母から、教わった結び方。


 私は、紐を、解いた。


 手紙は、五十通ほど、あった。差出人欄を、上から、確認した。


 一通目──マルク・ベリエ。

 二通目──マルク・ベリエ。

 三通目──マルク・ベリエ。


 すべて、同じ名前だった。


 マルク・ベリエ。私は、その名を、知らなかった。北方の代官の名のように、聞こえた。聞こえた、けれど、知らなかった。


 私は、一通目を、開いた。


 文面は、短かった。


 ──ご無沙汰しております。北方の薔薇の苗木を、十本、お送りいたしました。お庭にお植えいただければ、幸いに存じます。マルク・ベリエ。


 二通目も、同じだった。十本ではなく、二十本だった。三通目も、四通目も、五通目も。北方の薔薇の苗木。冬の毛皮。税の補填。麦の差し入れ。すべて、無償。すべて、別名。


 五十通の差出日付を、私は、目で、追った。


 一通目の日付は、五年前の、四月。


 ──兄が逝って、二週間後の日付だった。


 私は、最初の頁の、右下を、見た。


 羽ペンの跡が、一点だけ、深く、残っていた。書こうとして、書けなくて、書き始めた手の、躊躇の跡。私は、その一点を、長く、見ていた。書こうとして、書けなくて、もう一度、書き始めた人の手の動きが、そこに、残っていた。


 私は、手紙の束を、抱えて、立ち上がった。


「ジョルジュ」


 階下に、声を、かけた。


「マルク・ベリエ、という方を、ご存じ?」


 ジョルジュは、しばらく、答えなかった。


 それから、ゆっくりと、答えた。


「お嬢様。あの薔薇は、ヴァルモワ公爵閣下からの、お贈り物でございます」


 ◇


 その日の午後、薔薇園の小道で、私は、彼に、会った。


 馬車ではなく、馬で来ていた。供を、連れていなかった。一人で、北方の道を、直接、来ていた。それは、馬の脚の砂埃で、わかった。北方の凍土の砂は、王都の道の埃とは、色が、違う。彼の長靴の縁に、その色の砂埃が、付いていた。


「ジュリエンヌ嬢」


 彼は、私の名前を、呼んだ。


 ──私は、立ち止まった。


 名前を声に出して呼ばれることに、私は、ほとんど、慣れていなかった。社交界では「ラシェル侯爵令嬢」、家では「ジュリエンヌ」。「ジュリエンヌ嬢」と、名と敬称で呼ばれるのは、もう、いつ以来か、思い出せなかった。


 彼は、長身だった。栗色の髪を、後ろで、結っていた。三十歳を少し過ぎたばかりの、年齢の落ち着き。顔立ちは、整っていた。整っている、というよりは、表情が、控えめだった。


「ローラン・エマヌエル・ド・ヴァルモワ。ヴァルモワ公爵領の当主でございます」


 彼は、礼を、取った。深く。けれど、退くための深さでは、なかった。


「ジョルジュから、お話を、伺いました」


 私は、答えた。敬体のまま。


「お祖母様にお手紙を、ずっとお書きしておりました」


 彼は、それだけを、言った。


 私は、答えなかった。答えるべき言葉を、まだ、持っていなかった。


 薔薇園の小道に、風が、通った。三月の中旬の風だった。蕾の縁が、ほんの僅か、揺れた。北方の薔薇は、王都の風に、まだ、慣れていなかった。


「お祖母様の墓に、参られるところでしょうか」


 私は、ようやく、口を、開いた。


「いいえ」


 彼は、答えた。


「お祖母様の墓は、北方の、ヴァルモワ家の墓地に、ございます」


 私は、立ち止まった。


「祖母の墓は、こちらに、あるはずでございます」


「ジュリエンヌ嬢。お祖母様は、ご遺言で、北方への埋葬を、お望みになりました。遺骨の半分は、こちらに。半分は、ヴァルモワ家の、シリル殿の隣に」


 ──私は、声を、出さなかった。


 シリルの墓が、ヴァルモワ家の墓地にあることは、知っていた。任地で逝った兄の遺体は、王都までの道のりに耐えられず、最寄りのヴァルモワ家の墓地に、葬られた。それは、知っていた。


 けれど、祖母が、シリルの隣に葬られていることは、知らなかった。


「お祖母様は、シリル殿のことを、最後まで、案じておいででした」


 彼は、それだけを、言った。


 私は、頷いた。頷くしか、なかった。


「ヴァルモワ公爵閣下」


「ローラン、と、お呼びください」


「ローラン様」


 私は、敬体のまま、続けた。


「明日、屋敷の書斎で、お話を、伺ってもよろしいでしょうか」


「はい」


 彼は、頷いた。


「明日、参ります」


 そう答えて、彼は、礼を、取って、馬の方へ、戻った。馬の脚の砂埃が、薔薇園の小道に、薄く、残った。


 私は、その砂埃を、見ていた。北方の凍土の色を、見ていた。


 薔薇の蕾は、まだ、半分だけ、開いていた。


 ──「行き遅れ」と、ローラン様は呼ばなかった。


 そのことを、私は、その時、初めて、気づいた。


 ◇


 翌朝、ローラン様は、屋敷の書斎に、来た。


 書斎の窓辺に、机が、置いてあった。机の上に、私は、祖母の手紙の束を、置いていた。革紐は、解いて、机の上に、別に、置いた。マルク・ベリエの差出人名が、上から、見える形で。


 ローラン様は、書斎に入って、机の上を、見た。視線が、手紙の束の差出人欄に、落ちた。それから、ゆっくりと、私の方へ、戻った。


「ジュリエンヌ嬢」


「ローラン様」


 私は、机の向かい側の椅子を、彼に、勧めた。彼は、座った。私も、座った。卓を、挟んで。


 アンナが、紅茶を、二杯、運んで来た。一杯を、ローラン様の前に。一杯を、私の前に。それから、扉の向こうに、引いた。


 私は、紅茶のカップに、手を伸ばさなかった。


「ローラン様」


 私は、敬体のまま、口を、開いた。


「マルク・ベリエ様、と申し上げてもよろしいでしょうか」


 ローラン様は、ほんの一瞬、瞼を、瞬いた。


「いいえ。ローラン、と」


「左様でございますか」


 私は、頷いた。


「ベリエ、と申し上げる方が、五年間、私の祖母を、支えてくださいました」


「ベリエ、ではなく、ヴァルモワ、でございます」


「五十通のお手紙の差出人欄は、ベリエ、と書かれておりました」


「差出人欄でございます。差し上げた方は、ヴァルモワでございます」


 私は、紅茶のカップに、ようやく、手を、伸ばした。けれど、口元へは、運ばなかった。


「ローラン様」


 私は、彼の方を、見た。


「私が『行き遅れ』であることと、貴方様の沈黙と、どちらが、長うございましたか」


 ──書斎の沈黙が、紅茶のカップの底まで、降りた。


 ローラン様は、答えなかった。私の問いの形を、彼は、たぶん、最初から、予想していた。けれど、答えるべき言葉を、まだ、用意していなかった。


 彼は、しばらく、紅茶のカップの方を、見ていた。それから、ゆっくりと、視線を、上げた。


「ジュリエンヌ嬢」


「はい」


「五年でございます」


「私が『行き遅れ』と呼ばれ始めてからは、たぶん、四年でございます」


 ローラン様は、頷いた。


「では、私の沈黙の方が、一年、長うございました」


 私は、ようやく、紅茶を、一口、含んだ。冷めかけていた。冷める前の温度の方が、私は、好きだった。


「失礼ながら」


 私は、紅茶のカップを、卓の上に、戻した。


「貴方様は、なぜ、五年、お黙りでいらしたのでしょうか」


 ローラン様は、ようやく、答えた。


「お話しすべき時が、五年、参らなかったから、でございます」


「では、本日は、参ったということで、よろしいでしょうか」


「はい」


 彼は、それだけを、答えた。


「では、伺います」


 私は、卓の上の手紙の束に、手を、置いた。


「お話しください」


 ◇


 ローラン様は、しばらく、答えなかった。


 答えなかった、というよりは、答えるべき順序を、整えていた。彼は、ようやく、自分の懐から、何かを、取り出した。


 銀の、ボタン。


 卓の上に、それを、置いた。手の温度で、ほんの僅か、温まっていた。


「シリル殿の、士官学校時代の制服のボタンでございます」


 私は、ボタンを、見ていた。シリルの制服のボタンを、私は、見たことがなかった。けれど、それが、シリルのものであることは、わかった。たぶん、そういう形で、わかることが、あるのだった。


「五年、お持ちでございましたか」


「はい」


「なぜ、お返しいただけなかったのでしょうか」


「お返しすべき時が、五年、参らなかったから、でございます」


「では、本日は、参ったということで」


「はい」


 私は、ボタンを、手に、取った。手の温度が、ボタンに、移った。ボタンの温度が、私の手に、移った。それで、温度は、半分に、なった。


「ローラン様」


「はい」


「兄から、お頼まれになって、五年、お祖母様を支えてくださっていた、ということで、よろしいでしょうか」


 ──ローラン様は、答えなかった。


 私は、もう一度、問うた。


「それは、兄の頼みでございますか」


 ローラン様は、しばらく、紅茶のカップを、見ていた。それから、ゆっくりと、視線を、上げた。


「いいえ」


 彼は、答えた。


 そして、続けた。


「兄上に頼まれたのではありません。私が、そうしたかったのです」


 ──書斎の沈黙が、また、降りた。


 私は、答えなかった。答えるべき言葉を、まだ、持っていなかった。


 銀のボタンが、卓の上に、置いてあった。手の温度は、もう、抜けていた。卓の温度に、戻りつつあった。


 ローラン様は、それから、もう一度、口を、開いた。


「シリル殿は、お亡くなりになる三日前、お祖母様に、お手紙を、書かれました。文面は、短こうございました。『妹のことを、頼みたい』と」


「祖母は、その手紙を、読まれましたか」


「はい。そして、私に、お見せになりました。お祖母様が、シリル殿の手紙を、私の手に、預けられたのでございます」


「兄が、貴方様に、頼んだのでは、なかった、と」


「シリル殿は、お祖母様に、頼まれました。お祖母様が、私に、譲られました。けれど、譲られた瞬間に、それは、もう、お祖母様の頼みでも、シリル殿の頼みでも、なくなりました」


 ローラン様は、続けた。


「私が、そうしたかった、のでございます」


 私は、銀のボタンを、ぎゅっと、握った。手の温度が、もう一度、ボタンに、移った。ボタンの方は、もう、温まっていなかった。


 ◇


 私は、答えなかった。


 答えるべき時が、まだ、来ていなかった。来ていないことを、私は、自分の中で、確認していた。


 銀のボタンを、私は、卓の上に、戻した。


「ローラン様」


「はい」


「私は、五年間、自分の意思で答えるということを、しないままでまいりました」


 ローラン様は、頷いた。


「父の縁談強要にも、母の沈黙にも、社交界の陰口にも、私は、ただ、敬体で、お答えしてまいりました。それは、私の意思では、ございませんでした。私の意思は、敬体の中に、隠れて、私自身にも、見えなくなっておりました」


 私は、紅茶のカップを、卓の上で、半回転、回した。取っ手の向きが、私の右手から、左手の方へ、変わった。


「貴方様のお話を、いま、伺いました。五年の沈黙を、伺いました。お祖母様のお手紙、シリルの言葉、ベリエ様の名前、北方の薔薇、銀のボタン。すべて、伺いました」


 ローラン様は、聞いていた。


「いま、私は、敬体ではなく、私の意思で、お答えしたいと、思っております」


「はい」


「けれど、五年、自分の意思で答えてこなかった人間が、いま、その場で、自分の意思で答えることは、できません」


 私は、顔を、上げた。ローラン様の方を、見た。


「私は、五年間、自分の意思で答えるということを、しないままでまいりました。一年だけ、私が、私の意思で、お答えする時間を、いただけませんでしょうか」


 私は、続けた。


「お返事は、来年の春まで、お待ちいただけますでしょうか」


 ──書斎の沈黙が、降りた。


 ローラン様は、しばらく、私を、見ていた。それから、礼を、取った。深く。退かないための深さで。


「来年の春まで、お待ち申し上げます」


 一拍置いて、彼は、ほんの僅か、付け加えた。


「五年、お待ちしたのです。一年は、長くございません」


 ──私は、笑わなかった。


 笑うべき台詞だったのか、私には、わからなかった。けれど、ローラン様の唇の端が、ほんの僅か、動いた。それは、笑った、というほどでは、なかった。降臨の時の表情には、なかった、何か、だった。


 私は、深く、礼を、取った。


「ありがとう存じます」


 ◇


 ローラン様は、その日の夕方、北方へ、戻った。


 馬車道を、彼の馬の脚が、通った。轍の深さは、五年間、ローラン様が祖母の領地へ通った道と、同じ轍だった。私は、馬車道の方を、しばらく、見ていた。


 アンナが、私の傍に、立った。


「お嬢様」


「アンナ」


「お祖母様の手紙の束を、書斎に、片づけてまいりますか」


「いいえ」


 私は、振り返らずに、答えた。


「持って、王都へ、帰りましょう」


 アンナは、頷いた。


 ◇


 王都の侯爵邸の、書斎。


 私は、机の引き出しを、開けた。革紐で束ねた、十一通の招待状が、まだ、そこに、置いてあった。


 私は、招待状の束を、机の上に、出した。革紐を、解いた。


 アンナが、紙と、ペンを、用意して、私の傍に、立っていた。アンナの前掛けの縁は、十三年で、薄く擦り切れている。その縁が、私の手の傍に、あった。


 私は、ペンを、取った。


 一通目の招待状の返事を、書き始めた。


 ──「春の招待状を、今年は、お返しせずに、お受けすることにいたしました」


 私は、それを、書いた。書きながら、書いている自分の手を、見ていた。手は、震えていなかった。震える理由を、私は、もう、持っていなかった。震えない理由を、初めて、持っていた。


 二通目も、三通目も、同じ文面だった。十一通、すべて、同じ文面で、書いた。


 アンナが、書き終えた招待状を、一枚ずつ、封筒に、納めていった。


「お嬢様」


 アンナは、最後の一通を、封筒に、納めながら、それだけを、言った。


「左様でございますか」


「左様でございますわ」


 私は、ペンを、置いた。


 書斎の窓から、薔薇の蔓の枝が、見えた。新芽が、出ていた。三月末の風が、薔薇の蔓を、ほんの僅か、揺らしていた。


 兄を喪ったのは、もう五年前のことでございます。


 私はそう、口の中で、なぞった。


 けれど、五年は、長くございませんでした。


 「行き遅れ」と呼ばれていた私を、ローラン様だけは、違う名で、呼ばれた。


 ──ジュリエンヌ嬢、と。


 私は、招待状の束を、両手で、抱えた。封蝋の温度が、まだ、私の指に、残っていた。


 春の招待状を、今年は、お返しせずに、お受けすることにいたしました。


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