「行き遅れ」と呼ばれていた私を、彼だけは違う名で呼ばれました
春の招待状の季節になった。
私は両手で、招待状の束を、抱えていた。革紐で束ねられた厚手の紙の束は、十一通あった。十一通は、去年と同じ通数だった。一昨年は十二通。三年前は十四通だった。年が経つにつれ、通数は、少しずつ、減っている。誰の家に来なくなる招待状なのか、家令たちは互いに把握していて、互いに送らないことを互いに送らないという仕方で、社交界の輪は、すこしずつ、編み直される。私は、その編み直しの結果を、毎年三月の初旬に、両手で、確認している。
招待状を、書斎の机の上に、置いた。封蝋の温度が、まだ、私の指に、残っていた。封蝋は、私の指の温度を、ほんの少しだけ、受け取って、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。それだけのこと。
兄を喪ったのは、もう五年前のことでございます。
私はそう、口の中で、なぞった。声には出さなかった。声に出すべき相手が、書斎の中には、いなかったから。
「お嬢様。お母様がお呼びでございます」
扉の向こうから、侍女のアンナが、声をかけた。アンナは、私が十七歳の頃から、十三年、この家に勤めている。アンナの前掛けの縁は、十三年で、薄く擦り切れている。私の髪を結う時、彼女の指が毎日、私の額の上を、通る。その指の温度を、私は、知っている。
「ジュリエンヌ・アヴリル・ド・ラシェル様」
アンナは、私を呼ぶ時、常にフルネームで呼ぶ。「アヴリル」は祖母の家系の名で、四月を意味する。私の誕生日は三月の初。「アヴリル」は、私の中で、「もうすぐ四月」という意味の、二つ目の名前だった。
私は今年、三十歳になった。十日前に。
「すぐ、まいります」
私は、招待状の束を、机の引き出しに、入れた。引き出しの奥には、祖母エルマの遺した手紙の束が、革紐で束ねて、置いてあった。祖母の代の貴婦人式の、二重結びの紐。母の代では、もう、誰も結べない結び方だった。祖母から、結び方を教わったのは、私だけだった。母には、教えなかった。教える機会が、なかったわけではない。教える間柄ではなかった、というのが、たぶん、正確だった。
引き出しを、閉めた。
招待状は、すべて、お返しすることに決めていた。「春の招待状は、お返しいたします」と書く文面は、もう、頭の中に、用意してあった。書くのは、明日の朝。返送するのは、明日の昼。それで、今年の春は、閉じることになる。
私は、立ち上がった。
書斎の窓から、薔薇の蔓の枝が、見えた。新芽は、まだ、出ていなかった。三月初の風は、薔薇の蔓を、ほんの僅か、揺らしていた。それだけのこと。
◇
食堂の卓は、長かった。
父が一番上座に、母がその右隣に、私が母の向かいに、座っていた。三人で食事をするには、卓は、長すぎた。シリルがいた頃は、シリルが私の隣に、座っていた。シリルがいなくなってから、五年。誰も、その席を、埋めなかった。空いた席があるという事実だけが、毎晩の食事に、ついて、回っていた。
「ジュリエンヌ」
父が、フォークを置いた。
「ベルマン伯爵家から、改めて、お話があった」
私は、答えなかった。代わりに、母の方を、見た。母は、視線を、自分の皿に、落とした。
「お受けする方向で、考えてくれないか」
私は、紅茶のカップに、手を伸ばした。手は、震えていなかった。震える理由を、もう、持っていなかった。
「お考えくださって、ありがとう存じます」
私は、敬体のまま、続けた。
「ベルマン伯爵家のお話は、これで五度目でございます」
「五度目だが、伯爵家のご子息はまだ独身でいらっしゃる。ご縁というものは、繰り返し、めぐってくる」
「五度繰り返されているのは、ご縁ではなく、お母様とお父様のご熱心でございます」
私は、紅茶のカップを、口元へ運んだ。一口だけ、含んだ。冷めていた。冷めていることに、いまさら、気づいた。
父は、しばらく、答えなかった。
「お前が三十路でいることが、家の恥なのだ」
父は、それを、言った。
私は、紅茶のカップを、ほんの一秒だけ、長く、持った。それから、卓の上に、置いた。
「お父様」
私は、続けた。
「私が三十歳でいることを、お父様は何度、後悔されておいでですか?」
父の眉が、動いた。
「後悔ではない。事実を、申している」
「では、事実として、申し上げます」
私は、卓の上に、両手を、重ねた。
「兄が逝って、五年でございます。私の十七歳の時の婚約破棄と、兄の死と、いまの縁談と、お父様はどの順序でお話しでございましたでしょうか」
父の唇が、開いて、閉じた。母が、視線を、私の方へ、上げた。私は、母の方を、見ていた。母の唇も、開きかけて、閉じた。
「シリルが存命であれば、こんなことには」
父が、それを、言った。
私は、その一言を、地の文の中で、書き留めた。「シリルが存命であれば」──亡き兄を、現在の縁談強要の道具にする発言。
私は、答えなかった。
答える代わりに、礼を取った。深く。退かないための深さで。
「お話、承りました」
私は、それだけを、言って、立ち上がった。
食堂を出た。背中で、母が小さく息を吸い込む音がしたけれど、振り返らなかった。
◇
マルゴ伯爵夫人の茶会は、毎年、三月の中頃に、王都の伯爵邸で、開かれる。
卓の上には、白い磁器のティーセットが並び、銀のスプーンが午後の光を、ばらばらに、反射していた。私は、母に連れられて、卓の端の席に、座った。
卓の中央には、マルゴ伯爵夫人。その右にベルタ子爵夫人。その隣にコレット男爵令嬢。三人とも、私と母の方を、ちらりと、見た。それから、互いの顔を、ちらりと、見た。
「あら、ラシェル侯爵夫人」
マルゴ伯爵夫人が、扇を、開いた。
「ジュリエンヌ嬢、お年を召されてからの結婚は、なかなかに、ねえ」
私は、紅茶のカップに、手を伸ばした。
「ジュリエンヌさんも、もう三十路でいらっしゃるのよ。お見合いは諦めなさいまし」
コレット男爵令嬢が、ベルタ子爵夫人に、耳打ちするふりを、した。耳打ちにしては、声が、はっきりと、聞こえる距離だった。
私は、紅茶のカップを、ほんの一秒だけ、長く、持った。それから、口元へ運んだ。冷めかけていた。冷める前の温度の方が、私は、好きだった。
「『行き遅れ』とは可哀想だけれど、自業自得というものでもありますわ」
ベルタ子爵夫人が、扇の影で、それを、言った。私の母の耳に、その声は、届いていた。母は、視線を、卓の上に、落とした。
──「行き遅れ」。
私は社交界でそう呼ばれている。誰が最初にそう呼んだのか、私は、知らない。いつから呼ばれ始めたのか、それも、知らない。気づいた時には、もう、その名前で呼ばれていた。私の本当の名前──ジュリエンヌ・アヴリル・ド・ラシェル──を、社交界で声に出して呼ぶ婦人は、もう、いなかった。
「お母様、ジュリエンヌさんを、もう少し『地味』にしてさしあげれば、お似合いの方も……」
マルゴ伯爵夫人が、母の方へ、上半身を、傾けた。母は、答えなかった。母の手が、紅茶のカップの取っ手を、握っていた。指の関節の色が、白くなっていた。
「お兄様の代わりに、家を立て直してさしあげなさい」
これは、ベルタ子爵夫人ではなかった。記憶の中の父の声だった。昨日の食堂で、父が言った言葉の、反響が、まだ、私の中で、続いていた。
私は、もう一口、紅茶を、口に含んだ。冷めていた。
「シリル様がご存命であれば、こんなことには」
これも、記憶の中の父の声だった。
マルゴ伯爵夫人が、私の方を、見た。
「ジュリエンヌ嬢」
扇を、閉じた。
「もう、お話、聞いていらっしゃる?」
私は、顔を、上げた。
「失礼いたしました。お話の続きを、伺っておりました」
私は、母の方を、ちらりと、見てから、続けた。
「マルゴ伯爵夫人。差し支えなければ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ、何でも」
私は、紅茶のカップを、卓の上に、置いた。
「『行き遅れ』とは、何歳からのことを、おっしゃいますの?」
──卓の上の沈黙が、ティーカップの底まで、降りた。
マルゴ伯爵夫人の扇が、止まった。ベルタ子爵夫人が、口を、開きかけて、閉じた。コレット男爵令嬢が、視線を、自分の皿に、落とした。母は、私の方を、見ていなかった。母も、私と同じように、卓の上を、見ていた。
マルゴ伯爵夫人は、ほんの一瞬、答えに、詰まった。
「それは……人それぞれ、ですわ」
「左様でございますか」
私は、もう一度、礼を取った。座ったまま。深く。
「では、私が『行き遅れ』であるかどうかも、人それぞれ、ということに、なるのでしょうね」
茶会の卓は、それからも、続いた。けれど、私の方を見て話しかける婦人は、もう、その日、いなかった。
母は、馬車に乗ってから、ようやく、口を、開いた。
「ジュリエンヌ、あなた──」
「申し訳ございません、お母様」
私は、馬車の窓の外を、見ていた。
「失礼を、いたしました」
母は、答えなかった。
馬車が、走っていた。王都の道は、五年前と、ほとんど、変わっていなかった。
◇
翌日の朝、私は、招待状の束を、もう一度、机の上に、置いた。
返送の文面は、書かなかった。書こうとした手が、止まった。理由は、わからなかった。理由がわからないこと自体が、何か、私の中で、変わり始めている、ということだったのかもしれなかった。
私は、招待状の束を、革紐で、もう一度、結び直した。それから、アンナを、呼んだ。
「アンナ、二日ばかり、家を空けます」
「どちらへ、参られますか」
「アヴリルの旧領へ。祖母の」
アンナの目が、ほんの僅か、見開かれた。
「お一人で、参られますか?」
「あなたを、連れて」
アンナは、礼を取った。それで、その話は、終わった。
◇
アヴリルの旧領は、王都から馬車で半日の距離にある、小さな領だった。祖母エルマが嫁ぐ前から所有していた領で、亡くなった三年前に、私が相続した。屋敷は離れと呼べるほど小さく、薔薇園と、納屋と、老庭師ジョルジュの暮らす番屋しか、なかった。
馬車が、領の門を、抜けた。
門の脇に、白い薔薇が、咲きかけていた。三月の中旬で、薔薇が咲くはずは、なかった。けれど、咲いていた。蕾の縁が、ほんの僅か、開いていた。私は、その蕾の品種を、知らなかった。祖母の薔薇園は、もとは南方系のはずだった。けれど、目の前の蕾は、葉の形が、違った。
「お嬢様、お久しゅうございます」
老庭師ジョルジュが、門の傍で、礼を取った。彼の手には、剪定鋏。腰には、麻の前掛け。前掛けの縁は、アンナの前掛けの縁よりも、もっと、擦り切れていた。
「ジョルジュ、薔薇が、咲きかけているのね」
「はい。今年は、早うございます」
「葉の形が、いつもと、違うように見えますの」
「はい、お嬢様。北方の品種でございます。お祖母様の代に、混ぜて植えられました」
「いつから?」
「五年前、からでございます」
私は、頷いた。頷くしか、なかった。ジョルジュは、私を、屋敷の方へ、案内した。離れの玄関を、開けた。中の空気が、少し、冷たかった。三年、人が住んでいなかった。
「お嬢様」
ジョルジュが、玄関で、足を、止めた。
「お祖母様が遺された手紙の束が、書斎の机に、ございます。お祖母様のご遺言で、お嬢様が、いつか、お読みになる時のために、と」
私は、頷いた。書斎へ、上がった。
◇
書斎の机の上に、革紐で束ねられた手紙の束が、置いてあった。紐の結び方は、二重結び。祖母の代の、貴婦人式。私が、十二歳の時に、祖母から、教わった結び方。
私は、紐を、解いた。
手紙は、五十通ほど、あった。差出人欄を、上から、確認した。
一通目──マルク・ベリエ。
二通目──マルク・ベリエ。
三通目──マルク・ベリエ。
すべて、同じ名前だった。
マルク・ベリエ。私は、その名を、知らなかった。北方の代官の名のように、聞こえた。聞こえた、けれど、知らなかった。
私は、一通目を、開いた。
文面は、短かった。
──ご無沙汰しております。北方の薔薇の苗木を、十本、お送りいたしました。お庭にお植えいただければ、幸いに存じます。マルク・ベリエ。
二通目も、同じだった。十本ではなく、二十本だった。三通目も、四通目も、五通目も。北方の薔薇の苗木。冬の毛皮。税の補填。麦の差し入れ。すべて、無償。すべて、別名。
五十通の差出日付を、私は、目で、追った。
一通目の日付は、五年前の、四月。
──兄が逝って、二週間後の日付だった。
私は、最初の頁の、右下を、見た。
羽ペンの跡が、一点だけ、深く、残っていた。書こうとして、書けなくて、書き始めた手の、躊躇の跡。私は、その一点を、長く、見ていた。書こうとして、書けなくて、もう一度、書き始めた人の手の動きが、そこに、残っていた。
私は、手紙の束を、抱えて、立ち上がった。
「ジョルジュ」
階下に、声を、かけた。
「マルク・ベリエ、という方を、ご存じ?」
ジョルジュは、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくりと、答えた。
「お嬢様。あの薔薇は、ヴァルモワ公爵閣下からの、お贈り物でございます」
◇
その日の午後、薔薇園の小道で、私は、彼に、会った。
馬車ではなく、馬で来ていた。供を、連れていなかった。一人で、北方の道を、直接、来ていた。それは、馬の脚の砂埃で、わかった。北方の凍土の砂は、王都の道の埃とは、色が、違う。彼の長靴の縁に、その色の砂埃が、付いていた。
「ジュリエンヌ嬢」
彼は、私の名前を、呼んだ。
──私は、立ち止まった。
名前を声に出して呼ばれることに、私は、ほとんど、慣れていなかった。社交界では「ラシェル侯爵令嬢」、家では「ジュリエンヌ」。「ジュリエンヌ嬢」と、名と敬称で呼ばれるのは、もう、いつ以来か、思い出せなかった。
彼は、長身だった。栗色の髪を、後ろで、結っていた。三十歳を少し過ぎたばかりの、年齢の落ち着き。顔立ちは、整っていた。整っている、というよりは、表情が、控えめだった。
「ローラン・エマヌエル・ド・ヴァルモワ。ヴァルモワ公爵領の当主でございます」
彼は、礼を、取った。深く。けれど、退くための深さでは、なかった。
「ジョルジュから、お話を、伺いました」
私は、答えた。敬体のまま。
「お祖母様にお手紙を、ずっとお書きしておりました」
彼は、それだけを、言った。
私は、答えなかった。答えるべき言葉を、まだ、持っていなかった。
薔薇園の小道に、風が、通った。三月の中旬の風だった。蕾の縁が、ほんの僅か、揺れた。北方の薔薇は、王都の風に、まだ、慣れていなかった。
「お祖母様の墓に、参られるところでしょうか」
私は、ようやく、口を、開いた。
「いいえ」
彼は、答えた。
「お祖母様の墓は、北方の、ヴァルモワ家の墓地に、ございます」
私は、立ち止まった。
「祖母の墓は、こちらに、あるはずでございます」
「ジュリエンヌ嬢。お祖母様は、ご遺言で、北方への埋葬を、お望みになりました。遺骨の半分は、こちらに。半分は、ヴァルモワ家の、シリル殿の隣に」
──私は、声を、出さなかった。
シリルの墓が、ヴァルモワ家の墓地にあることは、知っていた。任地で逝った兄の遺体は、王都までの道のりに耐えられず、最寄りのヴァルモワ家の墓地に、葬られた。それは、知っていた。
けれど、祖母が、シリルの隣に葬られていることは、知らなかった。
「お祖母様は、シリル殿のことを、最後まで、案じておいででした」
彼は、それだけを、言った。
私は、頷いた。頷くしか、なかった。
「ヴァルモワ公爵閣下」
「ローラン、と、お呼びください」
「ローラン様」
私は、敬体のまま、続けた。
「明日、屋敷の書斎で、お話を、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
彼は、頷いた。
「明日、参ります」
そう答えて、彼は、礼を、取って、馬の方へ、戻った。馬の脚の砂埃が、薔薇園の小道に、薄く、残った。
私は、その砂埃を、見ていた。北方の凍土の色を、見ていた。
薔薇の蕾は、まだ、半分だけ、開いていた。
──「行き遅れ」と、ローラン様は呼ばなかった。
そのことを、私は、その時、初めて、気づいた。
◇
翌朝、ローラン様は、屋敷の書斎に、来た。
書斎の窓辺に、机が、置いてあった。机の上に、私は、祖母の手紙の束を、置いていた。革紐は、解いて、机の上に、別に、置いた。マルク・ベリエの差出人名が、上から、見える形で。
ローラン様は、書斎に入って、机の上を、見た。視線が、手紙の束の差出人欄に、落ちた。それから、ゆっくりと、私の方へ、戻った。
「ジュリエンヌ嬢」
「ローラン様」
私は、机の向かい側の椅子を、彼に、勧めた。彼は、座った。私も、座った。卓を、挟んで。
アンナが、紅茶を、二杯、運んで来た。一杯を、ローラン様の前に。一杯を、私の前に。それから、扉の向こうに、引いた。
私は、紅茶のカップに、手を伸ばさなかった。
「ローラン様」
私は、敬体のまま、口を、開いた。
「マルク・ベリエ様、と申し上げてもよろしいでしょうか」
ローラン様は、ほんの一瞬、瞼を、瞬いた。
「いいえ。ローラン、と」
「左様でございますか」
私は、頷いた。
「ベリエ、と申し上げる方が、五年間、私の祖母を、支えてくださいました」
「ベリエ、ではなく、ヴァルモワ、でございます」
「五十通のお手紙の差出人欄は、ベリエ、と書かれておりました」
「差出人欄でございます。差し上げた方は、ヴァルモワでございます」
私は、紅茶のカップに、ようやく、手を、伸ばした。けれど、口元へは、運ばなかった。
「ローラン様」
私は、彼の方を、見た。
「私が『行き遅れ』であることと、貴方様の沈黙と、どちらが、長うございましたか」
──書斎の沈黙が、紅茶のカップの底まで、降りた。
ローラン様は、答えなかった。私の問いの形を、彼は、たぶん、最初から、予想していた。けれど、答えるべき言葉を、まだ、用意していなかった。
彼は、しばらく、紅茶のカップの方を、見ていた。それから、ゆっくりと、視線を、上げた。
「ジュリエンヌ嬢」
「はい」
「五年でございます」
「私が『行き遅れ』と呼ばれ始めてからは、たぶん、四年でございます」
ローラン様は、頷いた。
「では、私の沈黙の方が、一年、長うございました」
私は、ようやく、紅茶を、一口、含んだ。冷めかけていた。冷める前の温度の方が、私は、好きだった。
「失礼ながら」
私は、紅茶のカップを、卓の上に、戻した。
「貴方様は、なぜ、五年、お黙りでいらしたのでしょうか」
ローラン様は、ようやく、答えた。
「お話しすべき時が、五年、参らなかったから、でございます」
「では、本日は、参ったということで、よろしいでしょうか」
「はい」
彼は、それだけを、答えた。
「では、伺います」
私は、卓の上の手紙の束に、手を、置いた。
「お話しください」
◇
ローラン様は、しばらく、答えなかった。
答えなかった、というよりは、答えるべき順序を、整えていた。彼は、ようやく、自分の懐から、何かを、取り出した。
銀の、ボタン。
卓の上に、それを、置いた。手の温度で、ほんの僅か、温まっていた。
「シリル殿の、士官学校時代の制服のボタンでございます」
私は、ボタンを、見ていた。シリルの制服のボタンを、私は、見たことがなかった。けれど、それが、シリルのものであることは、わかった。たぶん、そういう形で、わかることが、あるのだった。
「五年、お持ちでございましたか」
「はい」
「なぜ、お返しいただけなかったのでしょうか」
「お返しすべき時が、五年、参らなかったから、でございます」
「では、本日は、参ったということで」
「はい」
私は、ボタンを、手に、取った。手の温度が、ボタンに、移った。ボタンの温度が、私の手に、移った。それで、温度は、半分に、なった。
「ローラン様」
「はい」
「兄から、お頼まれになって、五年、お祖母様を支えてくださっていた、ということで、よろしいでしょうか」
──ローラン様は、答えなかった。
私は、もう一度、問うた。
「それは、兄の頼みでございますか」
ローラン様は、しばらく、紅茶のカップを、見ていた。それから、ゆっくりと、視線を、上げた。
「いいえ」
彼は、答えた。
そして、続けた。
「兄上に頼まれたのではありません。私が、そうしたかったのです」
──書斎の沈黙が、また、降りた。
私は、答えなかった。答えるべき言葉を、まだ、持っていなかった。
銀のボタンが、卓の上に、置いてあった。手の温度は、もう、抜けていた。卓の温度に、戻りつつあった。
ローラン様は、それから、もう一度、口を、開いた。
「シリル殿は、お亡くなりになる三日前、お祖母様に、お手紙を、書かれました。文面は、短こうございました。『妹のことを、頼みたい』と」
「祖母は、その手紙を、読まれましたか」
「はい。そして、私に、お見せになりました。お祖母様が、シリル殿の手紙を、私の手に、預けられたのでございます」
「兄が、貴方様に、頼んだのでは、なかった、と」
「シリル殿は、お祖母様に、頼まれました。お祖母様が、私に、譲られました。けれど、譲られた瞬間に、それは、もう、お祖母様の頼みでも、シリル殿の頼みでも、なくなりました」
ローラン様は、続けた。
「私が、そうしたかった、のでございます」
私は、銀のボタンを、ぎゅっと、握った。手の温度が、もう一度、ボタンに、移った。ボタンの方は、もう、温まっていなかった。
◇
私は、答えなかった。
答えるべき時が、まだ、来ていなかった。来ていないことを、私は、自分の中で、確認していた。
銀のボタンを、私は、卓の上に、戻した。
「ローラン様」
「はい」
「私は、五年間、自分の意思で答えるということを、しないままでまいりました」
ローラン様は、頷いた。
「父の縁談強要にも、母の沈黙にも、社交界の陰口にも、私は、ただ、敬体で、お答えしてまいりました。それは、私の意思では、ございませんでした。私の意思は、敬体の中に、隠れて、私自身にも、見えなくなっておりました」
私は、紅茶のカップを、卓の上で、半回転、回した。取っ手の向きが、私の右手から、左手の方へ、変わった。
「貴方様のお話を、いま、伺いました。五年の沈黙を、伺いました。お祖母様のお手紙、シリルの言葉、ベリエ様の名前、北方の薔薇、銀のボタン。すべて、伺いました」
ローラン様は、聞いていた。
「いま、私は、敬体ではなく、私の意思で、お答えしたいと、思っております」
「はい」
「けれど、五年、自分の意思で答えてこなかった人間が、いま、その場で、自分の意思で答えることは、できません」
私は、顔を、上げた。ローラン様の方を、見た。
「私は、五年間、自分の意思で答えるということを、しないままでまいりました。一年だけ、私が、私の意思で、お答えする時間を、いただけませんでしょうか」
私は、続けた。
「お返事は、来年の春まで、お待ちいただけますでしょうか」
──書斎の沈黙が、降りた。
ローラン様は、しばらく、私を、見ていた。それから、礼を、取った。深く。退かないための深さで。
「来年の春まで、お待ち申し上げます」
一拍置いて、彼は、ほんの僅か、付け加えた。
「五年、お待ちしたのです。一年は、長くございません」
──私は、笑わなかった。
笑うべき台詞だったのか、私には、わからなかった。けれど、ローラン様の唇の端が、ほんの僅か、動いた。それは、笑った、というほどでは、なかった。降臨の時の表情には、なかった、何か、だった。
私は、深く、礼を、取った。
「ありがとう存じます」
◇
ローラン様は、その日の夕方、北方へ、戻った。
馬車道を、彼の馬の脚が、通った。轍の深さは、五年間、ローラン様が祖母の領地へ通った道と、同じ轍だった。私は、馬車道の方を、しばらく、見ていた。
アンナが、私の傍に、立った。
「お嬢様」
「アンナ」
「お祖母様の手紙の束を、書斎に、片づけてまいりますか」
「いいえ」
私は、振り返らずに、答えた。
「持って、王都へ、帰りましょう」
アンナは、頷いた。
◇
王都の侯爵邸の、書斎。
私は、机の引き出しを、開けた。革紐で束ねた、十一通の招待状が、まだ、そこに、置いてあった。
私は、招待状の束を、机の上に、出した。革紐を、解いた。
アンナが、紙と、ペンを、用意して、私の傍に、立っていた。アンナの前掛けの縁は、十三年で、薄く擦り切れている。その縁が、私の手の傍に、あった。
私は、ペンを、取った。
一通目の招待状の返事を、書き始めた。
──「春の招待状を、今年は、お返しせずに、お受けすることにいたしました」
私は、それを、書いた。書きながら、書いている自分の手を、見ていた。手は、震えていなかった。震える理由を、私は、もう、持っていなかった。震えない理由を、初めて、持っていた。
二通目も、三通目も、同じ文面だった。十一通、すべて、同じ文面で、書いた。
アンナが、書き終えた招待状を、一枚ずつ、封筒に、納めていった。
「お嬢様」
アンナは、最後の一通を、封筒に、納めながら、それだけを、言った。
「左様でございますか」
「左様でございますわ」
私は、ペンを、置いた。
書斎の窓から、薔薇の蔓の枝が、見えた。新芽が、出ていた。三月末の風が、薔薇の蔓を、ほんの僅か、揺らしていた。
兄を喪ったのは、もう五年前のことでございます。
私はそう、口の中で、なぞった。
けれど、五年は、長くございませんでした。
「行き遅れ」と呼ばれていた私を、ローラン様だけは、違う名で、呼ばれた。
──ジュリエンヌ嬢、と。
私は、招待状の束を、両手で、抱えた。封蝋の温度が、まだ、私の指に、残っていた。
春の招待状を、今年は、お返しせずに、お受けすることにいたしました。
【作者から読者様へお願いがあります】
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