98 嵐の中へ
どこまでも澄み切っていた空は、帰路につくころ、気づかぬうちに変わり始めていた。
最初は遠くで低く鳴った雷の音。次に、冷たい一滴が頬をかすめる。馬の首筋に落ちた雫が、すぐに数を増やし、やがて地面を叩く音がはっきりと耳に届くようになった。
土砂降りになる寸前に、私たちはどうにか屋敷へと滑り込む。迎えに出た執事のクラウスは、いつもと変わらぬ完璧な所作で一礼した。
「お帰りなさいませ、エルヴィン様、アリア様」
視線が、一瞬だけ、屋敷の奥へと向けられる。
「客人か」
エルヴィンが、静かに問う。
「……はい。応接間にお通ししております」
その言い方が、妙に慎重だった。重要な来客であること、そして内容が軽いものではないことを、言葉にせずに伝えている。
私とエルヴィンは短く視線を交わし、公爵と令嬢の顔をまとうと、足音を殺して廊下を進んだ。
風にあおられた雨が、窓を激しく叩く。
窓の外で雷光が走り、廊下の壁を一瞬だけ白く裂いた。
応接間の扉がゆっくりと開く。
長身の男性は、どこか張りつめた気配をまとっていた。近衛も従者も最小限。だが、隠しきれない存在感が、部屋の空気を完全に支配している。
――アレクセイ。
黒の外套は肩口から濃く色を変え、袖口には水滴が静かに溜まっている。濡れた前髪が額に落ち、黒曜色の瞳の縁に、微かな影を落とす。馬を飛ばしてきたのだろう。頬にはうっすらと熱が残っていた。
「エルヴィン、アリア」
彼は服の乱れを一切気にする気配もなく、軽く会釈した。
「急にすまない。だが、どうしても伝えねばならないことがあった」
穏やかな声音。しかし、その奥には逃げ場のない核心が潜んでいる。
「……何があったのですか」
胸の奥で、嫌な予感が静かに形を成し始める。
アレクセイは一度、エルヴィンを見てから、私へ視線を戻した。
「ロウの子爵家の件だ」
その一言で、胸がわずかにざわめいた。
「皇帝陛下より、正式な御裁可が下りた」
「……では……!」
「再興は認められた。だが――子爵ではない。ロウの生家だった侯爵家を、興す」
意味を理解するまでに、ほんの数拍の沈黙が必要だった。
ハルシュタイン侯爵家。
ロウお父様の生家にして、アザル公爵家の分家筋。
兄君の死後、事実上断絶を迎えたと聞いている。
「ロウを当主とし、正式に侯爵位を継がせる。アザルを筆頭とする御宸派の基盤を固めたいという陛下の御聖断だ。しかし――おまえをハルシュタイン家の養女とすることは保留された」
「……なぜ?……どうして……?」
問いが、うまく言葉にならない。
アレクセイは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「ある国から、黎明星の乙女へ縁組の申し入れがあった。詳細はまだ伏せられているが……無視できる内容ではない」
強い驚きと、そして悪い予感があたってしまったという確信が胸の奥に響く。
「黎明星の乙女として嫁がせるのであれば、公爵家に留め置く方が、都合が良いのだろう」
「そんな……」
「話は、すでに動き出している。近く、おまえに正式な呼び出しがある」
私は唇を噛みしめた。遠乗りの時間。エルヴィンの優しさ。あの穏やかな丘。それらは、国家という巨大な流れの前では、あまりにも小さい。組織の都合の前に、個人の気持ちとか家族の幸せは全部、後回しにされてしまうんだ。
アレクセイは、言葉を続けた。
「陛下は、乙女に婚約者を定める構想をもともと持っておられた。今回の件をきっかけとして、流れを定められたいのだろう」
そして、ほんの一瞬。迷いを含んだ目で、正直に言った。
「私は、できうる限りおまえの意思を尊重したいと思っている。だが、私には、皇子としての責務が――すべてにおいて優先される」
あまりにも率直な言葉だった。皇子としての立場。一人の男としての感情。その板挟みが、はっきりと伝わってくる。こんなふうに正直に言われると、この人のことも、この人が大事にしている帝国のことも、はっきりとは憎めない。
エルヴィンは、ここまでほとんど口を挟まなかった。
だが、低く、静かに言った。
「……止められないのだな」
それ以上は言わない。怒りも、拒絶も、表に出さない。けれど、その沈黙が、何より雄弁だった。
私は、深く息を吸った。
「……ありがとうございます、アレクセイ殿下。教えてくださって。きっと本当は話してはいけないことだったのでしょう?そのお気持ちに感謝しますわ」
本心だった。でも、その言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。
アレクセイは、静かに頷く。
「……本当は……私は、私の意志でおまえを――」
言葉を切り、彼は私に手を伸ばそうとして、そこで止めた。ぎゅっと拳を握りしめる。
「そんなことを言う資格は、もう私にはないな。――だが、私も、できる限りのことはしよう」
悲しげに短い息を吐くと、彼は足早に去っていった。
◇◇◇
アレクセイたちが去ると、エルヴィンと二人きりになった。
長い沈黙。
やがて、彼が口を開く。
「私が、もっと早くに動くべきだった。すまない」
「いいえ」
私は首を振った。
「お義兄様のせいではありません。帝国が、そういう仕組みなのだと……分かっていました」
それは、半分は本当で、半分は嘘だ。分かっていたつもりだった。だが、実際にこうして突きつけられると、心が追いつかない。それでも。
「それでも――私の未来は、私のものです。そうでありたいと思います」
はっきりと、そう言った。
エルヴィンは、迷いなく頷いた。
「私は、私の力の限り、おまえの意志を尊重しよう」
◇◇◇
自室へ戻るまでの廊下は、やけに長く感じられた。
皇帝の思惑。
侯爵家。
婚約者という言葉。
――でも、気になることは、もう一つある。そう心の中でつぶやくと、部屋の前に控えていたサラサたちが静かに動いた。
「アリア様、湯あみのご用意が整っております」
「ありがとう。お願いするわ」
湯殿に足を踏み入れると、白い湯気がふわりと肌を包んだ。外界の音を遮断するように、天井は高く、石壁には淡い星文様が刻まれている。
衣を解き、肩から順に湯をかけられる。
「……失礼いたします」
サラサの声は変わらず丁寧で、けれど、その手つきが一瞬、わずかにためらったのが分かった。
「アリア様……」
控えめに、けれど確信をもった声音で、サラサが口を開く。
「最近、身体つきが、急に大人びてこられましたね」
「……やっぱり、そう見える?」
「はい。以前よりも、女性らしい線が整っておいでです。とてもお美しいですが……」
――そう。これが、もう一つの懸念だ。
私はもうすぐ、十七歳の誕生日を迎える。けれど成長期だから、で片付けるには、このところの身体の変化が急すぎる。胸元の線は、前よりもはっきりし、腰から腿にかけての曲線も、以前よりなだらかで、柔らかい。乳白色の肌は艶を帯びて、光を放っているかのようだ。
あのとき、氷花の森で、黎明星は言った。『欠けた年月のすべてを満たすことは、難しかった』と。だから、私は本来の二十二歳ではなく、十六歳のアリアとしてこの世界に再出現した、と。
でも、黎明星を妨げていた虚星は消えた。黎明星の力が制限なく巡り始めている――そんな感覚がする。私の身体は、十七歳じゃなくて、二十二歳へ追いつこうとしているのかもしれない。
私は、湯の中で目を閉じて、湯船に口元を沈めた。
これが、星の意志なのか。帝国の都合なのか。それとも、私自身の選択なのか。
答えは、まだ分からない。
けれど、もう、守られるだけの存在ではいられない。
それだけは分かっていた。




