96 義兄の提案
虚星事変を無事解決し、
アザル公爵領へと戻ってきたアリアと義兄のエルヴィン。
久しぶりに二人の時間が流れます。
帝都からアザル公爵領へと帰ってきて数日が経った。
長旅の埃を落としたばかりの執務机は、まだ木の香りが強く、帝都の別邸とは違う静けさがある。窓の外には、見慣れた森が広がり、遠くで風に揺れる針葉樹の梢が、ざわざわと低く音を立てていた。
ロウお父様への手紙を書き終えたところで、私はようやく肩の力を抜いた。封をした蝋が完全に冷えるまで、少しだけ待つ。
その間、頭の中で文面をなぞり直す。虚星は消滅したこと、私自身は無事なこと。必要なことはすべて書いた。でも――星骸転写によって記憶の一部を失ったことは、書かなかった。ロウお父様は、私が思っている以上に心配性だ。余計な心配をさせたくなかった。
封筒を木箱に納めた、そのときだった。
「アリア、少し良いか」
声に振り向くと、エルヴィンが部屋の入口に立っていた。軍装ではない、領地用の簡素な上着。肩章も外し、剣も帯びていない。帝都で見る氷刃公の姿とは違い、ここでは“領主としての彼”の顔をしているように見えた。
「はい。ロウお父様へ送る手紙を書いていましたの」
「……そうか」
それだけの言葉。けれど、その声音には優しい響きが含まれていた。
「今日は天気も良い。私と馬で出かけないか」
「馬で?」
「護衛は最小限にする」
理由は言わない。でも、それが私を気遣ったものだと分かった。帝都で張り詰めていた時間を、ここで一度ほどけと言っているんだろう。エルヴィンは、いつもそうだ。言葉にしない優しさを、当然のように差し出してくれる。
「……お義兄様と一緒であれば、ぜひ」
そう答えると、彼はほんの一瞬だけ、安堵したような顔をした。
◇◇◇
アザル公爵邸の厩舎へ向かうと、空気が変わった。
土と草の匂い、馬の小さな嘶き。深呼吸すると、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ抜けていく。
馬房に入ろうとしたところで、エルヴィンがレオニダスとともにやってきた。すらりとした体躯に、白く美しい毛並み。エルヴィンの愛馬だ。レオニダスはご機嫌麗しいようで、私の胸元に額を擦り付けると、ヒヒンと小さく鳴いた。
「おまえは、私よりアリアの方が好きなようだな。これではどちらが主人だか分からない」
馬上から聞こえるその声は、どこか楽しげだった。
「アリア、レオニダスがおまえを乗せたがっている」
当然のように、エルヴィンから手が差し出された。
「……お義兄様。私、もう一人でも馬に乗れるんですのよ。体術もずいぶん上達してきましたし」
「ああ。ドゥーニアが、おまえは筋が良いと言っていた」
「お義兄様から見ると、子どもの遊びに見えるかもしれませんが」
「そんなことはない。だが、今日はレオニダスの顔に免じて乗ってやってくれ」
「まぁ、レオニダス。おまえ、怒って良くてよ。勝手に名前を使われているわ」
手をとって鞍へ上がると、自分の身体が、彼の腕の中にすっぽりと仕舞われた。大切にされている、と感じさせる温度。
「苦しくはないか」
「大丈夫です」
「無理はするな。何かあれば言うように」
命令ではない。ただの確認。
私は小さく頷いた。
レオニダスが動き出すと、自然とエルヴィンとの距離が縮まる。背中越しに伝わる体温。規則正しい呼吸。冷えた星影の香り――。彼の心臓の音が、身体に直接響くようで、不思議と落ち着く。
随行は護衛騎士のドゥーニアと数名の護衛のみ。私とエルヴィンから少し離れた距離で、目立たぬようについてきている。
公爵邸を出て、石敷きの領都を抜け、やがて牧草地と畑が広がる穏やかな丘陵地帯へ出る。ゆったりとした時間の流れ。景色を眺めているだけで、心が解放されていくのが分かった。
「手は疲れていないか」
「大丈夫です」
「視線が遠くに行きがちだ。酔いやすいなら言え」
「いえ……景色が、きれいで」
「……そうか」
会話はごく少ない。沈黙が続く。
でも、気まずくならない。
この人の沈黙は、私を安心させる。
しばらくして、彼がふと視線を落とした。
「アリア、良い香りだな」
「え?」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……そう、ですか?」
たったそれだけなのに、心臓がうるさいほど主張し始めた。私は前を向いたまま、必死に平静を装う。……香水を褒められただけで。社交辞令の範囲だ。分かってる。それなのに、どうして、こんなにもどきどきするんだろう。
◇◇◇
私たちは、領地を一望できる小高い丘で馬を止め、腰を下ろした。
エルヴィンが鞍脇の小さな革袋をほどき、布に包んだ包みを取り出す。
「ハインツに作らせた」
「まぁ。お義兄様、用意が良すぎません?」
「おまえの口に合うと良いが」
その小さな布包みにエルヴィンの気持ちがこもっているような気がして、思わず頬が緩む。 中には、蜂蜜を染み込ませた硬めのパンと、薄いチーズ、乾いた果実。 それに、湯気の立つ小瓶――香草茶まであった。
「私の好きなものばかり……」
エルヴィンは答えない。代わりに静かにパンをちぎって、私の口元に差し出した。
え。
これは。まさか。
「あーん」ですか?
私は、快気祝いのときのアレクセイを思い出した。あのとき、彼も平然と私に「あーん」をしてきたな。皇家だけの伝統かと思っていたけど、公爵家でも当たり前だったのか?!あーんは!?
「アリア」
戸惑う私に、エルヴィンの指が近づいてくる。半信半疑で唇を開いた瞬間。彼の指先が、触れたのか触れていないのか――判断がつかないほどの距離で、パンがむぎゅと押し込まれた。
「…………おいしいです」
「……雛に餌をやっている気分だ」
「な……」
抗議が言葉になる前に、次の一切れが当然のように口に押し込まれる。私が食べたのを確かめるたび、ほんの少しだけ彼の表情がほどけていく。それがあまりに満足げで――私は、抵抗する気力を失った。
やがてエルヴィンは満足したのか、ようやく自分でもパンを取った。静かにひと口。こんな野趣溢れる場なのに、その所作は上品そのもので、少し見惚れてしまう。
ふと、私たちの間を風が通った。香草茶の温かな香りを楽しみながら、あたりに目を向ける。遠くで風車が静かに回っているのが見えた。なんてのどかなんだろう。ついこの間まで、虚星と対峙したり、セレスティアへ行っていたのが信じられない。ここに来て、自分がこういう静かな時間を求めていたんだと、ようやく気づけた気がする。
「お義兄様、連れてきてくださってありがとうございます」
思わず、感謝の言葉が出た。
エルヴィンは何も言わず、私の肩へ外套を掛けた。
「この辺りは風が抜ける」
短い言葉。
でも、その動作はとても自然で、迷いがない。
「……お義兄様は、本当に、よくお気づきになりますね」
「おまえのことであればな」
その返答に、胸の奥が静かに熱を帯びる。エルヴィンは、私に何かを求めない。いつも、ただ黙って静かに私の欲しいものを差し出してくれる。
風が強まり、重い外套が浮きかけた。
「あ……」
止めようとした瞬間、彼の手が伸びる。
指先が触れ合い、距離が一気に縮まる。
近い。
息遣いが、分かる。
「……アリア、まだ返事は聞かせてもらえないか」
その声には、抑えきれない熱が滲んでいた。
読んでいただきありがとうございます。
ここから始まる物語が、アリアとエルヴィンたちの最後のおはなしになると思います。
もしよければ、どうぞ最後までお付き合いください。




