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95 イリヤ=エウセビウス=アルビオンの決心

記憶を失った彼女を、それでも想い続ける守護星の、静かな一日。

帝都魔導院の朝は、冷たい。

石の床は夜の名残を抱えたまま、足裏へひやりとした現実を返す。回廊の魔導灯は淡く、まだ陽光の代わりになりきれていない。遠くで器具の起動音が短く鳴り、紙とインクの匂いが鼻先をくすぐった。


イリヤは書庫の奥で、資料箱を二つ抱え上げた。木箱の角は古く、掌に擦れる感触がざらつく。中身は星脈関連の写本――院生たちが興味本位で触れるには危うく、かといって封じたままにするには価値がある。整理と検閲の間で揺れる類の資料だ。彼はその箱を、院長の研究室へと運び入れた。


帝国魔導院に来てから、イリヤは自分がこまごました雑務に意外な適性があると知った。分類、記録、修復。誰かの机の上に積まれた混沌を、最短経路で秩序へ戻す作業。手を動かすたび、三百年前と今の間で混乱している自分の頭も整理されていくような気がした。


「ありがとう、イリヤ。そこに置いてください」

執務室に山と積まれた書籍の向こうから、声が落ちてきた。リュシアン=オルフェウス院長だ。


「リュシアン様、そこ、と言われても。もう置く場所がありません」

「いえ、場所は作ればあるはずです」


そんな無茶苦茶な、と思いつつ、イリヤは床に散らばった書籍や魔導具を片付け始めた。


「あなたがいてくれて、本当に助かります」


その言葉に、イリヤの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


リュシアンは、変わった人間だ。常識の歩幅が、他者と噛み合わない。だが魔導に関してだけは、恐ろしいほど有能だった。理論の組み立ては精密で、危険に対する線引きは冷徹で、しかもそれを他者に強要しない。学ぶべきことは多い。日々は、確かに充実していた。


イリヤは、かろうじてできた隙間に資料箱を下ろした。次に手を伸ばすべき束を、頭の中で整理する。やるべきことは山ほどある。作業の手順は明確だ。今日も、滞りなく終えられるはずだった。


なのに、ある瞬間、指先が止まった。


部屋の窓から、細い春の光が斜めに差し込んでいた。彼の足元に落ちたその温かな光が、胸の奥にぽっかりと空いた穴までも、照らし出してしまった。


アリア。


会いたいな。


胸の奥に言葉が生まれた瞬間、イリヤは視線を落とした。誰に聞かせるでもない衝動は、言葉になった途端、危うさを帯びる。彼女は公爵家の令嬢であり、帝国の黎明星の乙女だ。気軽に会える存在ではない。――それに、なにより彼女は自分のことを、何一つ覚えていないのだから。


彼は、そこで思考を断ち切った。ひとつ、深く息を吸う。仕事に戻るために。だが心は戻らない。戻れるほど、器用ではなかった。


リュシアンが何かを言いかけ、また手元の書類へと目線を戻す。イリヤはその視線に気づいたが、知らないふりをして、手元の紙束を整えた。文字を追う。封印符号を確認する。――それなのに、視界の端に、別の光がちらつく。


三百年前。

天穹殿(ケルベリオン)で出会った、鮮やかな光。

僕の、愛しい星。


※※※


彼女を初めて見たのは、天穹殿(ケルベリオン)の祈りの間だった。彼女は震える声で、巫女見習いのサラサと名乗った。その姿は、ひどく眩しかった。綺麗、可愛い、美しい、そんな言葉では、どうしても足りない。穏やかな闇の中で、彼女だけが確かな光を放っていた。


外れ子として生まれ、幼くして厄介者の札を貼られた。家々を転々とし、与えられるのは寝床と仕事と、蔑みの言葉。大切なものなど持たないと、早々に決めていた。持てば奪われる。守れば笑われる。――そんな諦めだけが、かろうじて自分を生かしていた。


だが、彼女は違った。彼女の瞳には、諦めがなかった。ひとの痛みを我が事のように受け止め、泣き、笑い、迷いながらも、手を差し伸べる。理解できず、異質で、だからこそ目を逸らせなくなっていった。


彼女の歩く音を覚え、呼吸の癖を覚え、彼女の姿を見つけたときの胸の高鳴りを覚えた。彼女は、少しずつ世界を色づけていった。望んだわけではない。でも、気づけば戻れなくなっていた。


そして、あのとき。星殻蜥蜴(リザリウス)に襲われ、死にかけた自分を、彼女は命をかけて救ってくれた。淡く、優しい光。ただ「生きてほしい」と願う声が形を得て、力となったかのようだった。


その光の中で、自分が彼女の守護星であると知った。それは運命というより、祝福に近かった。彼女のそばで、彼女を護り、慈しむ存在。自分は、彼女のために生まれ、彼女のためだけに生きてゆくのだと分かった瞬間、涙がにじむほど、嬉しかった。


だからこそ、彼女が、虚星へと落ちた自分を救うと決めたときの絶望は深かった。自分を救う代わりに、彼女が僕との記憶を全てなくす。それはあまりに、残酷で、受け入れがたい選択だった。


そして――

再び出会ったとき、彼女は何一つ覚えていなかった。思い出も、顔も、名前さえも。それでも彼女は、彼女のままだった。優しく、美しく、そして、誰よりも強い。


彼女はいつだって、誰かを救う選択をする。自分が愛したのは、その強さだった。


二度と離れたくない。何を失っても、彼女とともにありたい。そう、思った。


※※※


その日の夕方、イリヤはリュシアンに呼ばれて、魔導院の玄関ホールへと向かった。

外光が硝子越しに落ち、床に淡い模様を描いている。


「イリヤ、こちらです」


リュシアンの声がした。

だが、彼の視線はすでに、その隣にある紫の美しい光へと吸い寄せられていた。


アリア。


彼女がいる。


気づけば、足が前へ出ていた。


「アリア、どうしてここへ?」

「今日、これから公爵領へ帰るの。皆さんにご挨拶をと思って」


彼女の隣には、氷の刃のように整った佇まいの男が立っている。視線は鋭く、だがアリアに向けられる角度だけが、柔らかい。


リュシアンとセレスが応対している間、イリヤは少し距離を置いて控えていた。彼は補佐であり、ここは公的な場だ。出しゃばる理由はない――そのはずだった。


「……イリヤ、あなたに渡したいものがあるの」


別れの挨拶を終えて魔導院を去ろうというとき、アリアが彼の方へ歩いてきた。香りが薄く流れる。彼の心臓が素早く波打ち始めた。


彼女は、小さな布袋を差し出した。フランネル地の小さな袋。氷花の刺繍。


「これ……受け取ってくれる?」


イリヤは思わず、声を失った。声を出そうとしたが、喉が応えない。


彼女は少し困ったような顔をして、続ける。

「私が前にあげたお守り、あなたは、ずっと大事にしてくれていたのよね?……だから、これ。また作ったの。あなたの無事を祈ったから、持っていてくれると嬉しいわ」


その「だから」が、胸の奥を静かに揺らした。彼女は自分のことを覚えていない。記録の空白は埋まっていない。それでも彼女は、こうして変わらず、赦しを与えてくれる。


イリヤは喉を動かし、ようやく声を作った。

「……ありがとう。大切にするよ、ずっと」


イリヤは、お守りを握った。柔らかな布が、指の間で形を変える。彼女は頷き、少しほっとしたような顔を見せた。


――なぜ、君はそんなにも。


「え…?」


気づけば、彼女の身体が腕の中にあった。しまった、と思う。無意識に抱きしめていた。アリアが驚き、身体が固まっているのが分かる。そんな様子も、愛おしくてしょうがない。


「大好きだよ、アリア」


胸の内がこぼれるように言葉が出てしまう。言ってから、少し泣きそうになる。


次の瞬間、彼女の義兄が不機嫌そうにアリアを彼から引き剥がした。ほんの一瞬の出来事。


「ごめんね、急に」


イリヤはそう言った。だが、それが口先だけの謝罪であることを、自分でも分かっていた。彼は、何一つ後悔していなかった。彼女と出会ってからの、すべての選択に。


「そ、そういうときは、ありがとうでしょう?」

少し上ずった彼女の声に、イリヤは思わず笑った。


心の奥で、声がする。


どれほど遠く離れても――たとえ、もう二度と会えなくても。自分は、永遠に彼女を想い続けるだろう。この想いを抱いたまま、生きていくと、もう決めてしまった。


彼は顔を上げ、去ってゆくアリアの背を見送った。不思議と心は落ち着いていた。その姿が完全に見えなくなると、踵を返す。リュシアンだけが、彼の背中を見つめていた。


イリヤは魔導院の回廊へと戻る。今日の仕事は、まだ終わっていない。封印符号の照合も、写本の整理も、器具の調整も。淡々と、確実に果たすべき務めが残っている。だが今は、それらすべてが、彼女へと続く道の一部に思えた。


ただ、手の中のお守りだけが、彼の静かな熱を知っている。

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