94 リュシアンの研究室
……なんで私、こんなところにいるんだろう。
長椅子に座らされ、私は怯えながらあたりを見回していた。
改めて見回すと、天才魔導師リュシアン院長の部屋は、今日も今日とて、至高のポンコツにふさわしい有様だった。魔導書が、背表紙を外に向けたり、逆さまに差し込まれたりしながら、本棚の隙間という隙間に押し込められている。星図を刻んだ金属板、邪悪な鈍色に光る水晶球……怪しげな魔導具が、そこかしこの床に散らばっていた。
そんな混沌とした部屋に、我らが“帝国オールスターズ”が勢ぞろいしていた。
正面には――エルヴィン。
その少し斜め後ろに――アレクセイ第一皇子。
さらに横には――ミハイル第三皇子。
ついでに言えば、壁際にはリュシアン院長。
……全員、揃いも揃って、怒りを抑え込んだような目でこちらを見ている。いや、正確には――私の隣を。
「あの……イリヤ殿下、もう少し離れていただけませんか」
そう口にした瞬間、私の隣に座っていた白髪の青年が、ぴたりと動きを止めた。
「イリヤ、と」
穏やかな声。しかしその言葉には、反論の余地が一つも与えられていなかった。
「でも……」
「君は僕のことを、ずっと、イリヤと呼んでいたよ。僕の愛しい星」
白く美しい髪が淡く光り、深く澄んだ紅の瞳が私を真っ直ぐに見つめる。整った顔立ちは、微笑むたびに幼さが見え、心がどこかざわめいた。
この人、なんでこんなに私に親しげなんだろう?それに、距離感バグってない?
イリヤ=エウセビウス=アルビオン殿下。
セレスティア神聖国の皇家に連なる、尊き血を引く皇子。
――なんだけど、私は、この人のことを、何も知らない。思い出せない、というべきか。
ミハイルの話では、彼は私が過去へとタイムスリップした先で出会った守護星だ。虚星へ堕ちた彼を救うため、私は禁術を行って、その結果、彼は救われた。その代わり、私は――彼に関するすべての記憶を、失った。
今日は、彼から改めて事の顛末を聞くということで、関係者が集まったのだけれど……なぜか部屋に入るなり、彼は素早く私を横に座らせて、手放してくれなくなった。禁術を使ったぐらいだし、きっと私とはすごく仲が良かったんだろうな。過去の自分を他人のように感じながら、そんな事を思った。
そのとき。
「アリアから離れろ、イリヤ」
研究室の奥、星図の描かれた黒板の前から、冷えた声が落ちてきた。ミハイルだった。
「ミハイル、君もいたんだ。気づかなかったよ。相変わらず余裕がなさそうだね」とイリヤ。
「そちらこそ。そんなふうにアリアに迫ってばかりだと、嫌われるよ」
ミハイルが冷たく、ぎらついた眼でイリヤを睨む。
……え?
この子、ミハイルだよね?
キャラ、変わってない?
天使みたいだったあの子はどこへ行ったの?そう言えば、いつの間にかアリアって呼び捨てにされてるし……お姉様は、ちょっと悲しいぞ。
状況を観測していたリュシアンが、ぼそりと呟く。
「まさか、黎明星への執着がこれほどまでとは。自覚のない最優先指定は、観測対象として最悪です」
「リュシアン、それはどちらの話だ?」
エルヴィンが、ミハイルとイリヤ、二人を見比べる。
「ったく……揃いも揃って……そろそろ、本題に入ってもいいか?」
アレクセイが、わずかに苛立ちを滲ませた。眉間に刻まれた皺が、彼の忍耐を物語っている。
「イリヤ……いや、イリヤ殿下と呼ぶべきかな?」
「イリヤで結構です。アレクセイ殿下」
イリヤの雰囲気が一変し、静謐な威厳が立ち上がる。
「では――イリヤ、聞きたいのは虚星の件だ」
「……虚星は完全に消失しました。僕の魔力とは完全に切り離され、星骸転写された。今頃はセレスティアの 禁書 図書館 に、書物の一つとして収められているでしょう」
「昨晩から、星脈の乱れが確認されていません。星々の巡りに一部の例外もない」とリュシアン。
「では、危険は去ったと思ってよいな?」とアレクセイ。
「ええ。すべては――アリアのおかげです」
イリヤの瞳が私に向けられる。
なんでこの人は、こんなに愛おしそうに私に微笑みかけるんだろう。その笑みを見るたび、胸が、きゅうと締め付けられる。
「……まだ、聞きたいことはある」
そう前置きして、アレクセイが視線をイリヤへ向けた。
「なぜ――あのとき虚星は、ミハイルに憑依した?」
一瞬、ミハイルの肩が強張ったのが分かった。
イリヤは、ほんの少しだけ目を伏せ、それから静かに口を開く。
「ミハイルが選ばれた、というより……選ばれやすかった、という方が正しいでしょう」
「どういう意味だ?」
「ミハイルは、皇家の血を引いている。僕と同じ黒曜星を契約星に持ち、そして――」
イリヤは一度、言葉を切り、私へと視線を滑らせた。
「三百年前、彼は僕と接触しています。星の巡りも、魔力の波長も、重なりすぎていた。……闇にとっては、これ以上ない“依り代”だったんでしょう」
「ミハイルが特別、闇に選ばれやすいというわけでは、無いのだな?」とアレクセイ。
「ええ」
イリヤは、きっぱりと首を振った。
「今回のことは、星の因果に過ぎません」
「それを知れて良かった」
ほっとしたようなアレクセイの表情に、イリヤが少し驚いた顔をした。
「良いお兄さんだね」と小さく呟くと、彼はミハイルに向き直った。
「……ミハイル。君には、本当に申し訳ないことをした。君の意志を踏みにじり、危険に晒した」
その言葉に、ミハイルは一瞬だけ唇を噛みしめた。悔しさを噛み殺すような、幼い表情が、ほんのわずかに覗く。
「……謝らないでください」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「闇に囚われたのは、僕自身に弱さがあったからだと思います」
その目には、まだ消えきらない感情が宿っていたが――少なくとも、憎しみではなかった。
イリヤは、ミハイルをしばらく見つめたあと、ふっと私に視線を戻した。
「まぁ虚星に選ばれたのは、君が、僕と同じ星を欲していたのもあるだろうけどね……」
ん?イリヤ、なんか言った?心なしか、ミハイルの顔がまた険しくなっている。なんだ。やっぱりこの二人、仲悪いのか。
「さて――話は、終わったな」
エルヴィンが、私の腕を取って長椅子から立たせる。そのままの勢いで、彼は私を腕の中にすっぽりと収めた。
イリヤは名残惜しそうに私を見ると、鋭い視線をエルヴィンへ向ける。
場の緊張に気づいていないかのように、リュシアンがにこやかに言った。
「ところで、イリヤ殿下の今後ですが――三百年前のことですから、セレスティア神聖国に言っても混乱されるだけでしょうね」
「ヴァルデル陛下には、私から内々に連絡しておこう」
アレクセイが即座に応じる。
「イリヤ、貴殿はこれからどうしたい?」
「……僕は、アリアの傍にいたい」
イリヤが静かに言った。
「そのためなら、セレスティアの皇子の身分など不要だ」
「そんなっ……!」
思わず声が漏れ、全員の視線が集まる。
「今の私は……あなたのことが分からないんです。あなたのことを何も知らないんです。だから、私のために帝国に残るなんて良くありませんわ。今の私は、あなたの知ってる私じゃないんです。これからどうなるかもわからないのに、そんな決断を軽々しくしてはいけないと思います」
その言葉に、イリヤはゆっくりと目を細めた。
「君が僕の事をわからなくても、僕が君の事をよくわかっている。君が記憶を失ったのは、僕を慈しみ、大切にしてくれた証なんだよ。僕は、この言葉を生半可な気持ちで口にしているわけではない」
そう言うとイリヤは片膝をついた。恭しく私の手をとると、愛おしそうに頬を擦り付ける。
「アリア、僕は君に、僕の全てを捧げると誓った。必要なら、これから何度でも誓う」
どこかで聞いたような言葉。
彼の胸が青銀の光を帯びる。
“天秤”の紋。温かい光。
私は、この柔らかな光を知っている。
「……後悔しても、知りませんわよ」
私がそう呟くと、イリヤは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、アリア」
「黎明星の乙女の守護星で、元虚星。――研究対象として、これ以上の逸材はありませんね。イリヤ殿下の身柄は魔導院がお預かりしましょう」
リュシアンのうきうきとした声が研究室に響き、イリヤの背中がぞわりと揺れた。
次回、『イリヤの決心』




