93 虚星と星骸転写
白い世界の中で、一冊の本が浮かび上がってきた。
夜空の星の輝きを掬い集めたような、碧と金の表紙。手に取った瞬間、その装丁は私の胸元の紋と呼吸を合わせた。
ページがひとりでに開かれる。白い紙に、どこからともなく黒い文字が走り出し、整った列を作っては、ふっと薄れて消える。
今、この世界で起きていることが記録されている。私が、このページを開き、読んでいることすらも。
――ここに、私が“彼”のことを書けばいいんだ。
星骸転写。
書くことで、イリヤの中に渦巻く行き場のない闇を引き出し、書物へと固定する。
彼と出会ったときのこと。彼と話したこと。彼が私の名前を呼んだときの、あの確かな温もり。ひとつずつ、ほどけない糸をたぐるように思い出し――書いてゆく。
“黎明星の乙女は、天穹殿の祈りの間で“外れ子”たるイリヤと出会った。”
文字が躍り、次の瞬間、消えていく。
――そのとき、私から何かが喪われたのが分かった。 彼の名前、なんと言ったかしら。とても、優しい響きだったような気がする。呼ぶたびに心に星が灯ったかのような。でも、それがどうしても思い出せない。
“黎明星の乙女に話しかけられると、彼は自身の守護星の力について話した。”
また文字が整い、そして消える。
彼は――綺麗な眼をしていた。でもその顔を、私はもう思い出すことができない。顔の輪郭が霧に溶けるように曖昧だ。胸のあたりに、鈍い痛みが広がる。内側を細く裂かれていくような感覚。
一つ一つ、文字が書かれるたびに、私は彼に関する記憶を失っていった。そして、彼への想いも。それは、思い出が“消える”というより、私の中から「彼に届く道」だけが、一本ずつ断たれていくようだった。
――やめたいのに、止まらない。忘れるのが怖い。忘れたくない。でも、それ以上に――彼を闇の檻に閉じ込めておくほうが、ずっと嫌だ。イリヤを助けたい。私の記憶が無くなろうとも、彼が助かれば、それでいい。
そして――
“黎明星の乙女は己の守護星に別れを告げ、元の世界へと帰ってきた。”
私は、全てを書き終えた。
◇◇◇
どうして私はここにいるんだろう。何をしていたんだろう。ただ、説明のつかない喪失感だけが、胸の内側に薄い膜のように張りついていた。
目の前に、本が浮かんでいた。それは、ひとりでにページを揃えていく。やがて静かに、本が閉じられた。星々が描かれた碧と金の表紙。美しく、どこか切ない。ぱちり、と小さな音がして、まるで何かが終わったかのように、表紙の星が一度だけ強く瞬いた。
気がつくと、光は消えていた。星祈の間は、穏やかな星灯を取り戻し、床に描かれた星図だけが微かに脈打っている。
「アリア、転写は成功したのか……?」
アレクセイが、揺れる瞳で私を見た。
転写?いったい何の話だろう。そのとき、頬が温かいことに気づく。確かめるように指を当てると、濡れていた。私は――泣いている。でも、なぜ?
エルヴィンも、リュシアンも、ミハイルも、何も言わずに私を見つめていた。空気が動かない。誰もが瞬きを忘れているみたいだった。
そのとき、目の前の空間が歪み、光がふくらんだ。輪郭のない眩しさが人の形を求め、やがて、姿を結ぶ。光がほどける。
白い髪の青年が、床へと膝をついた。静かに。まるで長い眠りから目覚めた身体の重さを、初めて確かめるような仕草だった。
「成功したのだな」
アレクセイの声だけが、かすかに震えて落ちた。
青年は何かを確かめるように自分の手指を目の前で動かすと、顔を覆い、肩を小さく震わせた。そして、私のほうへと振り向く。
赤く、美しい瞳。
……誰だろう。
「お義兄様、あの人はどなたですか?」
「アリア……」
エルヴィンが、言葉を失う。
ミハイルが、私の肩を掴んだ。
「アリア、本当に分からないんですか!?イリヤですよ!遠い過去で出会った、あなたの守護星です!」
「……私の守護星……?確かに、ミハイル様と一緒に跳ばされた過去で、オリアやアレクサンドルには会ったけど。……イリヤって……?」
「……イリヤに関する記憶だけが、欠落しているんですね……」
ミハイルが、美しい眉をゆがめた。
白い髪の青年が、ふらりと立ち上がった。
「……もう、君の中に僕はいないんだね」
その声は、かすかに震えていた。
彼は私を知っているみたい。でも、私には、見覚えがない。一体彼は、何者なの。
「あの……どこかでお会いしましたか?ごめんなさい。私、思い出せなくて」
その言葉に、青年は小さく呻いた。
「僕は……君の記憶を引き換えにしてまで、生きていきたくはなかった」
「でも君は……やっぱり、僕を助けてしまったんだね」
彼の両の瞳から涙がこぼれ落ちる。雫が綺羅星のように輝く。
何か哀しいことがあったんだろうか。私のせい、なのかな。知らない人なのに、なんだか放っておけない。
「大丈夫ですか?あの……私に何かできることはあるかしら」
「……記憶を無くしていても、君は、優しいね」
彼の瞳からは、止めどなく涙がこぼれ落ちる。
私は、ハンカチを取り出すと彼に手渡した。私に向けられたその美しい紅に、一瞬で吸い込まれそうになってしまう。それはまるで――
「冬に咲くカメリアの花のようね。あなたの瞳って」
「……っ…」
青年の眼が大きく見開かれる。そして静かに俯くと、大きく深い息をした。
なぜだろう。遠い昔、こんな風景を見たような気がする。懐かしくてせつない。言葉にできない温度だけが、私の中で淡く残っている。
青年は涙を浮かべながら、それでもまっすぐに、私を見た。
「君は、何度だって僕の心を解かしてしまうんだね」
そして、私に微笑む。
「君が僕を忘れても……僕が君のぶんまで、この記憶を愛すよ」
その笑みは、泣き顔の上に置かれたのに、不思議なくらい温かかった。
「初めまして。僕の愛しい星」




