92 イリヤと虚星
「……戻ってこられたんですね」
かすれた声が、すぐ近くから聞こえた。視線を動かすと、セレスがすぐそばに立っていた。プラチナシルバーの髪は乱れ、額には冷や汗が滲んでいる。
星冠宮の一室。天井に描かれた星図が、現実の重さを伴って視界に戻ってきた。
長椅子からゆっくりと身体を起こす。頭の奥に、まだ夢の余韻が残っている。目の前では椅子に座ったリュシアンが、けだるそうに顔を上げるのが見えた。長い睫毛の下の金の瞳が、確かめるように私を捉える。
「ご無事でなによりです。お二人が帰ってくる直前……恐ろしいほどの魔力の奔流を感じました」
セレスの声音はまだ震えている。
リュシアンが何かを確かめるように、手をひらひらとさせた。
「なるほど。私達が戻る直前に、私たちの身体の内側に防壁結界を張ったのですね。良い判断です、セレス。おかげで身体と部屋が吹き飛ばずにすみました」
透き通った白い髪が揺れる。リュシアンって、事も無げに恐ろしいことを言うよね。それに、セレスも、身体の内側に結界をはるって、どういう離れ業なんだ……。
頭がはっきりとした瞬間、イリヤの事を思い出す。
そうだ。急がないと。
私はリュシアンの元へぐい、と歩み寄った。
「リュシアン様、イリヤを救う方法があると言っていましたよね」
彼の、美しく整った顔が一瞬、陰る。
「……あります。ただ、あなたの身にも危険が――」
「構いません」
言葉を遮った。
「危険があってもいいんです。リュシアン様……私、怒っているんです」
感情が、言葉になって溢れ出す。
「彼を、あそこまで追いやった人たちに。そして、何も知らず生きてきた自分自身に。彼の犠牲の上に、帝国の平和は成り立っていたんですよね。外れ子たちの犠牲の上に、この世界は成り立っていたのに。…誰も、私も、それを止めようとしてこなかったんです」
なんで、もっと知ろうとしなかったんだろう。利用され、使い捨てられてきた“外れ子”。帝国の安寧のために囲い込まれる“聖女”。この世界には、闇がある。聖女も、外れ子も、多くの民を救うために必要な犠牲なのかもしれない。それでも、黙って受け入れることは、私にはもうできない。世界を保つ仕組み、帝国の堅牢なる機構――そんなもの、ぶっ壊れてしまえば良いんだわ。
リュシアンは、私をじっと見つめていた。
「怒りさえ、美しいのですね。――あなたは」
低く呟いてから、彼は言葉を続けた。
「彼を救うには、星脈の乱れそのものを、“記録”として世界に固定するほかない。乱れを消すのではなく、歴史として刻み、封じ込める」
セレスが、肩を震わせた。
「星骸転写。誰もなし得たことのない禁術……」
「それをすれば、イリヤは?」
「闇は彼から剝がされる。彼は、乱れを引き受ける役目から、解放されるでしょう」
「どうすればいいの?」
迷いはなかった。
「私も、古石板の断片的な記録でしか知りませんが……星と直接対話する必要があります。第二塔・星祈の間であれば叶うでしょう。皇家の許可が必要です」
「アレクセイ、ね」
私は目を閉じた。
思い浮かべるのは、あの冷静な横顔。
帝国を背負う覚悟を決めた、鋭い瞳。
――アレクセイ、応えて。今、どこにいるの?
次の瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
視界が白く弾け、床も壁も消え失せる。
重力が裏返り、光が一本の線となって収束する。
「……っ」
気づいたときには、私はセレスとリュシアンとともに絢爛豪華な執務室に立っていた。
「……アリア?」
驚いた声。
書簡を手にしたままのアレクセイと、凍りついたような近衛たちがこちらを見ている。
「魔導陣も介さずに移動するなんて……」
セレスが、言葉を失っていた。
リュシアンの表情には、驚愕と恐れが混じっているようだった。
「あなたの力は……一体どこまで……」
「アレクセイ殿下」
私は一歩前に出た。
「お願いがあります。星祈の間に向かいたいのです。今すぐ」
一瞬の沈黙。
アレクセイは、理由を問わなかった。
「もう、決めたのだな」
短く、しかし揺るぎない声。
「私もおまえと共に向かおう。責任は私が負う」
◇◇◇
アレクセイ、リュシアン、セレス、ミハイル、そしてエルヴィンを伴い、私は第二塔にある星祈の間へと向かった。
「アリア、確認をさせてください」
星祈の間の扉の前で、リュシアンがふっと立ち止まり私を見る。
「星骸転写について、詳細な手順は残されていません。何が起きるか、起きないかも不明です」
私は、静かに頷いた。
「リュシアン様、ありがとうございます。何があっても、私の責任です」
リュシアンは厳かに告げた。
「星が、あなたを導いてくれると願って」
扉が、音もなく開いた。白くどこまでも広がる空間に、星々の光が降り注いでいる。
私は、中央へと進み、両手を胸の前で重ねた。
黎明星。あなたに言いたいことがあるのよ。
背後で空気が揺れた。
リュシアン、アレクセイ、ミハイル。それぞれの気配が、静かに共鳴を始める。白く淡い光が私の中心から広がり、それはやがて彼らを巻き込んで大きな光の渦となった。
『……おかえりなさい。アリア』
声が、直接意識に響く。
姿は、ない。
けれど、確かに“在る”。
――黎明星。
『愛しい子よ。何を望みますか』
「イリヤを――私の第五星を助けたいのです。星脈の乱れを引き受けるという、外れ子の運命から解き放ちたい」
『彼の運命は、星に定められたもの。彼は本来、とうに死んでいるはずの人間でした。ここまで耐えていたのは、あなたの星の巡りゆえ。これ以上、星の流れを変えることはできません。たとえあなたであっても』
「そんな!黎明星ともあろうものが、人が苦しんでいるのを黙ってみていて良いんですか!私が星骸転写を行います。そうすれば、星脈の乱れも収まって、彼も自由になれるんですよね」
白の闇が、ひときわ濃くなった。
『アリア、望みには代償が伴います。闇を世界に固定すれば、あなたはその者との“個人的な因果”を失います』
『記憶。感情。意味。すべてを喪うでしょう。それにより、あなたとまわりの運命も変わります。それでも、行いますか』
「それで彼が助けられるなら、かまいません」
沈黙。
そのときだった。
光が裂け、闇が這い出てきた。
「――欲シイ」
それは、人の声ではなかった。いくつもの機械がこすれ合ったような金切り音。
形を成しきれない闇の中心には、赤い光がほんの僅かに見えていた。
「……ア…リ…ア…欲シイ」
闇は大きく膨張し、私をめがけて襲いかかってきた。
「アリア!」
ミハイルとアレクセイ、リュシアンが手をかざした。三つの光が、重なり合い、闇を弾き返す。そして光は、闇に巻き付いた。
闇は光から逃げ出そうと、もがく。しかし、絡め取られたまま少しずつ小さくなってゆく。
やがて、闇から赤い瞳だけが現れた。
「イリヤ!イリヤなのね!」
赤く光る瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「アリア、僕は君と一緒にいたかった。君と笑いあって、君の隣に立ち、君を護る。他の守護星のように。でも、もう……それも叶わない」
その瞬間、涙がどっと溢れてきた。
「……っ……ごめんなさい。イリヤ。私が……あなたを置いてきてしまったから。……ごめんなさいっ……」
しゃくりあげる私に、イリヤの優しい声が落ちてきた。
「泣かないで。君に会えて僕は救われたんだよ。気の遠くなる闇の中で、君がたった一つの光だった……だから、君に忘れられるくらいなら、僕はこのまま消えたい」
光を押し返すように、闇が再び大きく膨らみ始める。もう、時間がない。
私は紅の瞳から目を離さずに、叫んだ。
「お義兄様!今です!」
エルヴィンが、黒い闇に向けて手をかざす。
「理を開き、我が願いを聞け。――霜律封刻」
細い霧のような碧い光が降り注いだ。光の中で、すべてが停滞した。
「アリア!長くはもたない!」
エルヴィンが、手を震わせながら叫んだ。
「ごめんなさい、イリヤ」
これから行うことを、イリヤは望んでいないだろう。でも、私は彼を助けたい。私が彼を忘れてしまったとしても。たとえ、二度と会えなくなったとしても。彼がこの世界のどこかで生きていれば、それだけで良いのだから。
私は、白く瞬く光に向かって、はっきりと告げる。
「黎明星、星骸転写を始めます」
光の中から浮かび上がってきたのは、一冊の、本だった。
読んでいただきありがとうございます。
現在、毎週月・水・金・日に更新しています。




