91 リュシアンとイリヤ
イリヤを救うために、夢の奥深くへ。
静かに、意識が沈んでいく。
現実の感覚が薄れ、音が遠のき、重力だけが遅れてついてくる。
私はリュシアンの手を取り、皇帝陛下の夢の中へと降りていった。
――夢界降下。
目を開けると、そこは星冠宮だった。でも、現実のそれとは微妙に異なる。柱の配置も、天井の高さも、調度品の意匠も見覚えがあるのに、すべてがどこか柔らかく、輪郭が曖昧だった。まるで記憶の中の宮殿を、誰かが丁寧に撫で直したような世界。
廊下の先に、光の塊が見えた。
近づくと、それは人の形をしていた。
壮健な男の背。
その肩越しに、いくつもの影が重なって見える。
玉座の前で頭を下げる臣下。
微笑む、儚げな女性。
幼な子を抱き上げる腕。
政務机に向かい、夜更けまで書簡に目を通す姿。
「これは、陛下の御記憶ですね」
リュシアンが低く言った。
「場所が星冠宮なのは……ここが陛下にとって“守るべき核”だからでしょう。民も、皇子たちも、すべてがここに集約されている」
光の影の中に、今より少し若いアレクセイの姿が一瞬だけ浮かぶ。厳しい顔をしながらも、どこか寂し気な横顔だった。
ふと足元を見ると、石床に、ひびが走っている。
光の裂け目から、黒いものが滲み出していた。
「虚星は、もっと深くに根を張っている。――行きましょう、アリア」
リュシアンが一歩踏み出した瞬間、世界が折り畳まれた。宮殿が反転し、床と天井が入れ替わり、空間が連続的に沈んでいく。感覚はあるのに、身体はない。上下の概念が崩れ、時間が伸び縮みする。
夢の中の夢。
さらに、その奥。
やがて、落下が止まった。
そこには、星も、床も、宮殿もなかった。
ただ、果てしない闇。
闇は、動いていた。
いや――絡み合っていた。
無数の歪んだ影が、幾重にも折り重なり、中心に向かって渦を巻いている。
星の残骸。
壊れた時間。
それらが、ひとつの塊となって蠢いていた。
「……イリヤ」
私の声は、闇に吸われるように消えた。
「イリヤ!いるんでしょう!」
呼びかける。けれど、応答はない。
闇が、こちらを“見た”気がした。それは視線というより、圧だった。頭が重くなり、呼吸が荒くなる。
「イリヤの意識は……ほとんど覆われています」
リュシアンが目を伏せた。
「ここまで深く沈むと、通常の呼びかけでは届かない」
私は、胸元に手を当てた。
「……リュシアン様。お願いがあるのです」
「どうぞ。存分に私を使ってください。私はあなたの守護星ですから」
彼はにこやかに微笑んだ。
そんな。存分に、って言い方はどうかと思うけど……でもありがとう。リュシアン。私は深く息を吸いこんだ。。
「イリヤ。聞こえているでしょう。お願い。答えて」
私の胸から光が生まれる。淡く、しかし確かな黎明星の光だった。光はリュシアンのもとに向かうと、彼の中らで幾何学的に拡張され、闇の中心へと流れ込んでゆく。
闇が、悲鳴のように軋んだ。
「……アリア。……来てしまったんだね……」
微かな声。
影が裂け、その隙間から、人の輪郭が現れた。
白い髪。
赤い瞳。
「イリヤ……!」
彼は、苦しげに微笑んだ。
「来ちゃ、いけなかった。こんな僕で、会いたくなかった」
「言ったでしょう。私は――何度だってあなたを助ける未来を選ぶ」
イリヤは、ゆっくりと首を振った。
「この闇は、君の光では祓えない。これは、星脈の乱れから生まれた闇だ」
リュシアンが、息を呑んだ。
「やはり……」
「アリアの第二星。君には分かっているようだね。星脈の乱れによって生まれた、間違った時間軸、選ばれなかった未来……それらの歪みを引き受けるのが、外れ子である僕が生まれた理由だった」
それって、どういうこと?
頭を殴られたような衝撃だった。
外れ子は、星脈の歪みを引き受けるために生まれた存在だった……?だから、外れ子は早くに亡くなることが多かったってこと?でも、それじゃまるで、生贄じゃない。
身体が急激に冷え、震えが止まらなくなる。
私――怒っている。
リュシアンが、私の背をそっと撫でた。彼の手から伝わる温かささえ、憎らしかった。
イリヤはリュシアンに目を向けた。
「僕は外れ子でありながら、守護星として生まれたために魔力が高かった。そして、オリアとアレクサンドルもいた。二人が僕に溜まってゆく闇を鎮めてくれていたから、僕は耐えられた」
自嘲するような笑みだった。
「けれど、そのせいで制御不能なほどの闇が僕の中に積もっていった。やがて限界を迎えた僕はオリアにお願いして、君がくれたあのお守りに、僕自身を封印することにした。あの中では、なんとか自分を保つことができたから。世界への干渉も最小限に抑えられていた。三百年の間、そうして歪みは澱のように僕の中に溜まっていった」
「つまり、この三百年、外れ子が生まれてこなかったのは――」
「僕がいたからだよ。すべての歪みを引き受けてきた僕が」
リュシアンの言葉にイリヤが続けた。
「私が……セレスティアで、ヴァルデル陛下の獣化の呪いを解くために、お守りの封印を解いてしまったから……だから……」
「そうじゃない。どのみち、もう限界だったんだ。まもなく、僕の意識も完全になくなる。そうすれば、僕の中の闇が暴走を始めるだろう」
イリヤは私を見つめた。
「その前に、この闇ごと僕を消し去ってほしい。アリア、君ならそれができる」
「……そんなこと、できないわ」
「あのとき、言っただろう?……君の手で僕を終わらせてほしい、と」
「ええ。そして、私も言ったわ。絶対に、元のあなたに戻すって」
彼はつかの間、哀しげに微笑んだ。
「君は変わらないね。……あのとき、さよならを言っておくべきだった」
闇が、再び彼を覆い始める。
リュシアンが、震える身体をおさえるように前へ出た。
「この闇が、まこと、星脈の乱れから生まれたものであるなら……正す方法が、ひとつだけあるはずです」
霧の奥で、イリヤの瞳が強く光った。
「僕は、それを望んでいない」
その拒絶だけが、はっきりと伝わってきた。
「第二星。僕の意識が無くなる前に僕を殺せ」
そして、最後の力で闇が、爆ぜた。
強烈な反動が、私たちを包み込む。
「……元気でね。僕の愛しい星」
世界が、反転する。
光と闇が裏返り、私の意識は弾き飛ばされた。
最後に見えたのは、闇の奥で、静かに沈んでいく赤い瞳だった。




