90 先詠みの魔導士
隣国セレスティアで行方不明の父と再会を果たし、
エリドゥ帝国へと戻ってきたアリアたちだが・・・
国境沿いの転移陣を踏み、次に足元の感触を得たときには、もう星冠宮に戻ってきていた。
たった数日だったはずなのに、何年も旅に出ていたかのような疲労が、どっと身体に押し寄せる。
そして同時に――寒気がする。嫌な予感。身体にまとわりついてくる、闇の気配。エルヴィンが私の方を心配げに見て、肩を抱く。
そのとき、アレクセイのもとへ“影”が駆け寄った。声を落とし、耳打ちする。アレクセイの表情が、わずかに変わった。
「……分かった」
短くそう答え、“影”を下がらせると、彼は私たちのほうを向いた。
「そなたたちには伝えておこう。皇帝陛下が倒れられた。意識は不明。原因は究明中だが――毒でも、魔術でもないようだ」
リュシアンが目を細めた。
「おそらく虚星の影響でしょう」
断定に近い口調だった。
「星冠宮は、すでに相当侵食されているようです。虚星は、セレスティアの皇家に連なる者。エリドゥ皇家とも相性が良すぎる」
「……そんな」
胸の奥が、静かに冷えていく。
「私は政務に戻る。帝国の堅牢なる機構を止めるわけにはいかぬ」
アレクセイの横顔は、帝国を統べる者だった。
「僕も、お手伝いいたします」
ミハイルがすぐ応じる。疲労が残っているはずなのに、声は揺れない。
「エルヴィン、星冠宮の守りを固める。近衛騎士団をおまえに預ける。団長ヴィットールとともに、規律を正せ」
「承知しました」
アレクセイの命に、エルヴィンは短く答え、私のほうを見た。深い海のような瞳。その奥に、抑えきれない焦りが潜んでいるのが分かる。
――ここで私が、足手まといになってはいけない。そう思い、背筋を伸ばした。
「お義兄様。私のことは心配せず、行ってください。私は、私にできることをします」
エルヴィンが、ほんのわずかに目を細めた。
「無理はするな」
「無理は、するかもしれません。――でも、無茶はいたしませんわ」
私がそう返すと、エルヴィンの口元が、ほんの一瞬だけ緩む。
「まったく……止めても無駄なのだろう?困ったときは、私を呼ぶように」
アレクセイは私たちをちらりと見ると、侍従を伴い、足早にその場を離れる。
「リュシアン、アリアを頼んだぞ。死んでも守れ」
◇◇◇
星冠宮の貴賓室に通された私とリュシアンは、今後について二人で話し合った。
やがて結論めいたものが出ると、リュシアンが「セレスが必要です」と言って魔導陣を展開した。
しばらくすると、プラチナシルバーの髪をした若き魔導士が、息を切らして姿を現した。
「先生、急に呼び出すなんて何事ですか。しかも、魔導陣で狼煙を上げるなんて……第六塔の同僚も呆れていましたよ」
の、狼煙……?そんなものでセレスを呼び出したの?しかも魔導陣で狼煙を上げるって、かなり高度な魔術なんじゃないかしら。さすが“至高のポンコツ”たる所以だわ……
「それが、少し困った事態になっていましてね」
リュシアンはセレスに状況を手短に説明した。
「少しどころじゃないでしょう。緊急事態じゃないですか。僕なんかに、こんな極秘案件を共有してしまって良かったんですか?」
「ええ。あなたの力が必要なのです。先詠みの魔導士」
その言葉に、セレスの眉がぴくりと動いた。
「皇帝陛下は虚星の影響を受け、昏睡状態です。逆に言えば――陛下の夢の中に入れば、虚星に辿り着ける可能性がある」
「まさか、また夢界降下を行うつもりですか!?」
「ええ」
「危険です!あの術は!アリア様の中に潜ったときだって、無事帰ってこられたのは奇跡でしたよ!先生は、ご自身をもっと大事にされるべきです!」
「ですから、あなたを呼んだのですよ。視て、くれますね?」
セレスは、じっとリュシアンを睨みつけた。
「どうあっても、夢に入られるおつもりなのですね」
「はい。どうあっても入るつもりです」
リュシアンは、その金の瞳を少し細めてにっこりと笑った。
その笑みを見て、セレスはがっくりと頭を垂れた。再び顔を上げた時には、何かを諦め、悟ったような表情をしていた。
「……本当に、もう……」
そう呟いてから、私を見る。
「アリア様。あなたも、先生と同じ意見なのですね」
……恨みがましい視線が突き刺さる。ごめん、セレス。でも、リュシアンと話し合って決めたのよ。夢界降下しか、皇帝陛下とイリヤを救う方法はないって。
「はい。私からもお願いいたします」
私は頭を深く下げた。
セレスは大きく息を吐いた。
「分かりました」
言い切ると、彼は手袋を外し、両の手のひらを合わせた。
「――理を開き、我が誓いを聞け。まだ名を持たぬ時を示せ。鏡星」
淡い光が、指先から波紋のように広がっていく。
セレスはどこか遠くを見る目つきをしていた。その両の瞳には銀の魔道陣が刻まれている。
「複数の未来が枝分かれしていますが……共通しているのは、“夢の奥に赤い瞳がある”ということですね」
「やはり。夢界に潜れば虚星にたどり着けるということですね」
「はい、先生」
リュシアンが、私に向けて小さく呟く。
「セレスの先詠みは、ヴァルナローデン家が継いできた鏡星の力。未来そのものではなく、いくつもの未来の”分岐点”が視えるのです」
セレスは額に汗を浮かべながら、私を見つめた。
「そして――夢の先で、アリア様は選択を迫られます。進めば、何かを失う。戻れば、帝国が傾く」
……ずいぶんと、重たい二択だ。それでも、不思議と迷いはなかった。
「それでも行きます。覚悟はとうに、できていますから」
セレスは、しばらく私を見つめてから、ふっと笑った。それは年相応の、柔らかな青年の笑みだった。
「そうおっしゃると思いました。どの道にも、アリア様の光が満ちています」
手を解くと、瞳の中から魔導陣が消えた。同時に、セレスの身体が膝から崩れ落ちる。
「セレス様!」
慌てて駆け寄ると、彼は肩で息をしながら微笑んだ。
「大丈夫です……アリア様。……この術はっ……かなりの魔力を消耗するのです。ただ……少し休めば……回復します……」
「ご苦労でした、セレス。相変わらず美しい術式展開でした」
リュシアンが、淡々と、無表情ともいえる顔でセレスを見下ろした。
しかし、セレスはこの上なく嬉しそうだった。
「……お褒めに預かり……光栄です……」
セレスは、リュシアンに褒められるのが何より嬉しい人です。




