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88 戻ってきた妹と義兄

涙は、眼のきわでかろうじて踏みとどまっていた。

ロウお父様が、じっと私を見つめている。


「……アリア、一度セレスティアの宮殿に戻ろうね。ここは星脈の力も強い。落ち着かないだろう」


私は頷いて、声を出そうとしたが、喉が乾いてうまく出なかった。


お父様はそれ以上、私の返事を待たなかった。

滑走舟(グレイディア)を用意してくる。エルヴィン、頼んだよ」

そう言い残し、足早に部屋を出ていく。


扉が閉まると、残ったのは、私とエルヴィン。どこか気まずい空気が流れた。


私は寝台の縁へ手をつき、上体を起こした。横になっていると、思考が勝手に遠い時代へ流れてしまう。動いていれば、今に留まれる気がした。足を下ろし、床を探る。


立ち上がろうとした、その瞬間――視界がふっと持ち上がった。


「え……」


足が床に触れるより早く、身体が浮いた。背と膝裏を、確かな力が支える。温度が近い。布地の匂い。硬すぎない腕の強さ。


エルヴィンだった。

彼は何も言わない。

ただ、私の動きを遮り、迷いなく抱き上げた。


「わたし……自分で歩けます」


抗議のつもりで言ったのに、声は弱い。落ちないようにとっさに彼の胸元を掴んでしまっているから、説得力がさらに消える。


彼は返事をしなかった。視線は前を向いたまま。表情も変わらない。しかし口元が硬い。顎の線に力が入っている。


――エルヴィン、怒ってる。


私、だよね。私が彼を怒らせちゃったんだ。理由なら、いくつも思い当たる。いきなり姿を消したこと。遠い過去で虚星を止めようと、勝手に動いたこと。その結果が、今のこの状況だということ。それでもなお、イリヤを救おうとしていること。


ちらちらと彼の横顔を盗み見る間も、エルヴィンは静かに歩んでゆく。私の重さなど感じていないように。救護所の廊を抜け、湿り気のある通路へ。外気が肺に入った。すこし、冷たい。ぞくりとした途端、腕の力が強くなった。


宮殿の前には、小型の滑走舟(グレイディア)が待っていた。彼は先に舟へ足をかけ、自分の重心を沈めてから、私を抱えたまま慎重に乗り込む。舟がごくわずかに揺れる。それでも、私の身体は揺れなかった。彼の腕が、揺れを先に吸い取っている。エルヴィンは、私を客室の椅子に下ろした。


「……ありがとうございます」


ようやく絞り出した声は聞こえたのか、聞こえなかったのか分からない。エルヴィンは何も答えない。正装の袖口が、私の視界をかすめる。彼の沈黙が、冷たく突き刺さる。


舟が動き出した。


私は、何度も口を開きかけた。


「迷惑をかけて申し訳ありません」

「怒らせて、ごめんなさい」

「イリヤのことは――」


どれも、適切ではない気がした。沈黙が続く。沈黙は、私の側だけが苦しいのだと思っていた。けれど彼も、同じ苦しさの中にいると気づいた。眉間に、わずかな皺が刻まれている。


◇◇◇


言葉のないまま、舟は緩やかに進み、やがて宮殿へと辿り着いた。エルヴィンは立ち上がり、当然のようにまた私を抱き上げた。今度はためらいがなかった。抱え直す動きが速く、正確で――それが余計に、逃げられない。


「あの、歩けます……」


やはり、エルヴィンは黙ったまま歩き出す。宮殿の回廊。灯り。人影。視線が一瞬集まって、また逸れる。階段に差しかかると、さすがに上下の揺れが増す。少し怖くなって、私は彼の首元にしがみつくように腕を回した。ぴくりと彼の肩が揺れたが、何事もなかったかのように、そのまま私の客室へ入る。


柔らかな色合いの寝具。香の残り香。水差し。すべてが部屋を出たときのままだ。なのに、すべてが変わって見えた。


エルヴィンは寝台に私を下ろした。その動作は、驚くほど慎重だった。毛布をかけ、髪を撫でる。彼の指先が、一瞬だけ私の首に触れた。だが、やはり口元は固く結ばれたままだ。


「あの……」


エルヴィンはため息をつくと、私の隣に腰を下ろす。距離が縮まる。紫の髪が、視界をかすめる。


「――ずいぶん、心配した」

押し殺された響きだった。

「光に包まれておまえが消えたと思ったら、次の瞬間、戻ってきた。泣きながら、な」


喉の奥が、ひりついた。


エルヴィンの鋭い視線が、私を捉える。

「イリヤが、そんなに大事か」


私は、小さく頷いた。

「彼を助けたいんです」


沈黙が、部屋を支配した。


寝台がわずかに軋み、彼の手が私の頬に伸びる。


「……やはり、おまえを公爵邸から出すべきではなかったな」


心の底まで冷えるような視線だった。その奥に、執着だけが澱のように沈んでいる。


「屋敷に閉じ込めて、誰の目にも触れさせなければよかった。そうすれば、このようにやすやすと、他の男におまえの心を奪われることもなかった。私には、おまえより大事なものはないというのに」


頬に添えられた手に、力がこもる。


怖い。こんなの、いつものエルヴィンじゃない。誤解してるんだ。私が、ちゃんと説明できなかったから。イリヤも、エルヴィンも、私にとっては大事な存在なのに。


「……イリヤは、私の守護星で、大事な友人です」

私は、震える声で言った。


「彼は、私を命がけで助けてくれました。そして、私ともう二度と会えないと分かっていながら、私の守護星として生きると言ってくれた。私は、黎明星の乙女として、友人として、彼を救いたいんです。あんなに優しい人が、虚星になるなんて。黙って見ていられません」


涙が溢れ、頬を伝うのを感じた。エルヴィンの視線が乱れ、私の眼から頬へと移ろう。


「この時代に戻ってきて……お義兄様の顔を見たとき、ほっとしたんです。ちゃんと戻って来られた。私のいるべき場所に、って。なのに、……なんで、そんな…」


「アリア……」

エルヴィンの顔に、戸惑いが浮かぶ。


「……ひどいです。……もう、お義兄様なんて……」


涙で顔がぐちゃぐちゃになっているのが分かる。怒りと悔しさと哀しさが混じって、自分が何を言いたいのかも、よく分からなかった。


「……お義兄様なんて……嫌い……!!」


「…嫌い………」

エルヴィンの顔から、血の気がすっと消えた。


思わず、勢いで言ってしまったけど、ちょっと言い過ぎた?いや、そんなことない。だって、勝手に誤解して怒っているのは、向こうなんだから。私は悪くない、はず……。


「………私は……おまえが私の知らないところで誰かと心を通わせたのだと……そう思って……」

彼は、消え入りそうな声でつぶやいた。


めったに見られないであろう、うなだれた氷刃公の姿を見て、ふと我に返る。


わたし、公爵に頭下げさせてる。

しかも、ほぼ八つ当たりで。


彼の姿は、ひどく不器用で――なんだか感情の扱い方を知らないまま、ここまで来てしまった人のように見えた。


「お、お義兄様……こちらこそ申し訳ありませんでした……。あの、頭を上げてください」

「いや、私が悪かった。感情に任せて、おまえを傷つけるようなことを言った。公爵としても、騎士としても……あるまじき振る舞いだ」


その声音には、先ほどまでの鋭さはない。


「いえ、私も説明不足だったんです。それに、自分の気持ちばかり先走ってしまって……ごめんなさい」


急に、謝罪合戦が始まってしまった。エルヴィンも、いつもの冷静な氷刃公に戻ったみたいだ。戻ったというには――落ち込みすぎている気はするが。


「そんなに自分を責めなくても……私は大丈夫ですので」


エルヴィンが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に浮かんだのは、戸惑いだった。


「……許してくれるのか」

「許すとか、そういうことではなく……」


この人は、若くして権謀術数うごめく世界で生きてきた。だから、人の感情も、自分の感情も、正面から受け取るのが、少し苦手なのかもしれない。はっきり言わなきゃ、伝わらないんだ。


私は、思わず彼のほうへ身を寄せた。


「……お義兄様。私、お義兄様のもとに戻って来られて、嬉しいと思っています」


言い終えたあと、部屋の空気が静止したように感じられた。


やがて、彼の眼がゆっくりと見開かれる。


「アリア……」


次の瞬間、視界が塞がれた。強く引き寄せられ、気づけば彼の胸に顔を埋めている。腕が背中に回り、逃げ場を与えないほど、しっかりと抱き締められた。


「……ありがとう」


耳元で落とされた言葉は、抑えきれないものが零れたような声音だった。


「……っ」


どう反応していいか分からないまま、腕の中で動けずにいる私を、彼はなおも離さない。


「……すまない……つい。……うれしくて」


やがて、名残惜しそうに腕がほどかれ、私はようやく顔を上げた。そこにあったのは――これまで一度も見たことのない表情だった。ただ、隠しきれない喜びが、そのまま顔に出てしまったような笑み。


……え?

氷刃公は、どこに行っちゃったの。

こんな顔の義兄、初めて見た。


もし今、この場に帝都の貴族令嬢たちがいたら――

間違いなく、何人かは気を失ってるんじゃないかな。


そう思うぐらい、その笑みはあまりに甘かった。

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