87 父の真実
ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
視界に、どこか懐かしい、白い天井と淡い青で縁どられた仕切り布が映った。
――天穹殿の救護所。
指先を動かそうとしたら、そこに重ねられた誰かの手の温度が伝わってきた。
「……イリヤ?」
掠れた声で名を呼ぶと、ぎゅ、と強く手を握りしめられ、それが、しっかりとした大人の男性の手であることが分かった。
「気がついたか」
エルヴィンだ。イリヤのはずがなかったんだ。私は元の時間に戻ってきたんだから。エルヴィンの深い海のような瞳には、安堵と少しの悲しみが宿っていた。申し訳ないと思いながらも、やはり頭の片隅で、イリヤのことを考え続けてしまう自分がいた。
「あの……私……」
身体を起こそうとして、軽く眩暈がした。すぐに、エルヴィンの腕が背に回る。ゆっくりと上体を支えられ、半身だけ起きた姿勢になる。
「……イリヤを、助けなくちゃ……」
口にした瞬間、空気が少し重くなった。
「虚星のことは、あとだ」
「……?」
「おまえと話さねばならない人がいる」
はなさねば、ならないひと……?言葉の意味を考えようとしたところで、部屋の隅から落ち着いた声がした。
「目を覚ましたようだね」
仕切り布がそっと開き、白い法衣が視界に現れた。
ロウ――金髪碧眼に丸眼鏡をかけた天穹殿の守司長。少し掴みどころがないように見えたその人は、柔らかな目でこちらを見つめていた。
「ロウ守司長……?」
そう呼ぶと、彼は表情を歪めた。
「そう呼ばれると、予想以上に傷つくね」
意味が分からず、瞬きをする。
エルヴィンが静かに椅子から立ち上がった。
「……私は外で待っている」
「え?」
ロウは小さく首を振った。
「エルヴィン。君もいてくれて良い。それに、今、アリアのそばを離れたくないだろう?」
図星だったと見えて、エルヴィンは短く息を飲み込むと、再び椅子に腰を下ろした。そのまま、私の手は離さない。
ロウはベッドのそばまで来ると、私と目線を合わせるように、少しかがみ、手を胸にあてた。
「私はロウ=ハルシュタイン。エリドゥ帝国の侯爵家の次男として生まれ、今は天穹殿で聖遺物の研究をしている。……そして――」
ロウが指をぱちりと鳴らすと、金の髪が薄紫へ変わった。
「おまえの、父親だ」
言葉の意味を理解するまでに、数拍の空白が必要だった。
「……ちちおや……?」
自分の口から出た声が信じられなくて、思わず繰り返す。確かに髪の色は私と似ている、いや、全く一緒と言っても良い。
ロウ――いや、父と名乗った人は、静かに頷いた。
「驚かせてしまったね。長い間、名乗れなかったことを、許してほしい」
“父なる人は、追う影を避け
聖地に身を潜めたり”
禁書図書館で受けた宣託を思い出した。天穹殿に行けば、父が見つかるかもしれない。確かにそう、期待していた自分がいた。でも、私の記憶は、黎明星によって封じられている。親の顔も名前も、思い出ひとつ、覚えていないのだ。
ロウは椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。その仕草には、長い年月、胸に抱え続けてきたものをようやく言葉にできるという、静かな覚悟が滲んでいた。
「……アリア。君に、こうして会えることをずっと夢に見てきた」
そう前置きしてから、ロウは途切れることなく語り始めた。
エリドゥ帝国の侯爵家の次男として生まれたこと。
星々の信仰を学びたいとセレスティアへ渡ったこと。
愛する女性と出会い、家の反対を受けながらも共に歩むことを選んだこと。
そして、私に“光”が宿った瞬間から始まった苦難と逃避行。
「アリア。私たちの選択が、結果的に君に困難な道を歩ませることになってしまった。本当にすまなかった」
ロウは、私に頭を下げた。彼の後頭部には白髪が少し交じり、目じりには深い皺が刻まれていた。きっと、着の身着のままでセレスティアに逃れてきてから多くの苦労があったんだろう。その困難な道のりは容易に想像できた。
「ロウ守司長、謝る必要なんてありません。……正直に言うと、あなたが父親だという実感はまだわいていないのですけれど――両親が私を大事にしてくれていたことはよくわかりましたわ」
ロウは微笑んだ、が、その顔には哀しみの色が浮かんでいた。
「アリア、君の母親は――妻のルベリアーナは、本当に君を愛していた。命をかけて君を守るほどに。それだけは分かってほしい。そして、私には父と呼ばれる資格がないことは分かっている。でもっ……どうか、お父さん、と。それが無理ならせめて、ロウさんとでも呼んではくれないだろうか」
お父さん、か。うーん。私にとってお父さんと呼べるのは、やっぱり前世の父だけかも。と言って、実の父を、ロウさんと呼ぶのもどうなんだろう……どうすれば良いのかな。うーん。
「ロウ……お父様」
ロウはその言葉を聞くと、一気にデレた。まさしく、デレたとしか言いようがないほどに、ふにゃふにゃの顔になったのだ。
「アリア……お父様と呼んでくれて嬉しいよ!僕は、おまえが僕の娘だと、ひと目会ったときから気づいていたんだよ!おまえはルベリアーナにそっくりだからね。ルベリアーナは、金の髪に金の瞳をしていてね。美しくて、神々しくて、まさに地上に降りた女神だった。お父様はね、ルベリアーナに近づく虫どもを全員、決闘で蹴散らして一緒になったんだよ。あのときは、セレスティア皇家の馬鹿どもがしつこくてね。安心してね。アリア。おまえに近づく男どもがいたら、あのときみたいにお父様が全て消し炭にしてあげるからね」
お、お父様……いきなりなんでそんなにフルスロットルになっちゃったの。別人になってませんか。ていうか、お父様とお母様がそんなに熱烈な恋愛結婚だったなんて知らなかった。皇家の馬鹿どもとか消し炭とか、不穏な言葉を聞いた気がするけど、それは、聞かなかったことにしよう。くわばらくわばら。
ロウは勢いよく言い切ると、エルヴィンをちらりと見た。
「そうそう。エルヴィンが、どれほどおまえを大事にしてくれているかは、見ていれば分かったよ。まるでルベリアーナを追いかけていた、あの頃の私を見るようだったからね」
「ろ、ロウ守司長」
エルヴィンが珍しく言葉に詰まる。
ロウはそんな彼を眺めて、どこか楽しそうに微笑んだ。
「でもね、エルヴィン――」
柔らかな声音のまま、空気の温度だけが少し変わる。
「娘は、やらないからね」
エルヴィンが、文字通り固まった。
ついでに、私も固まった。
「アリアが誰とどんな道を選ぶかは、アリアの自由だけど、父親として口を出す権利ぐらいは行使させてほしいな。アリア、おまえがエルヴィンで良いと言うなら、それでも良いけど。お父様はおまえの花嫁姿を見る準備はまだできてないからね。アザル公爵家なんて出てこれからはずっと、お父様の傍にいてくれても良いんだよ」
穏やかな口調なのに、有無を言わせぬ迫力があった。
「それに――おまえに夢中になっているのは、エルヴィンだけじゃないようだしね」
エルヴィンがぴくりと動いた。ひやりとした冷気が伝わってくる。
ちょっと待って、お父様。私の意思を全部無視して、勝手にしゃべるのはやめてください。花嫁姿とか急に話が飛びすぎだし。私に夢中になってる人なんて、そんなのいないから。勘違いというか、妄想も甚だしいのよ。
私の心の中を知ってか知らずか、ロウはためらいがちにその手を伸ばすと、私の頭を撫ぜた。
「アリア。長いあいだ、ひとりでよく頑張ってきたね」
その瞳は、幼子を見るかのように優しい。
「これからおまえがどのような道を歩むとしても、私はおまえのことを見守り、応援し続けるよ。ルベリアーナの想いとともに」
置かれた手から、じわりと温かな熱が広がった。この人は、本当に私の父親なんだ。そして、私をずっと愛してくれていたんだ。喜びが沸き上がってきて、それは涙になった。
読んでいただきありがとうございます。
エルヴィンの扱いがなんだかひどい気がするのは気の所為でしょうか。
頑張れ義兄。




