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85 祈りの間

冷たい石の感触が掌に戻ってきた。

見上げると、星図をかたどった天井と、淡い星の光。儀礼用の香がかすかに漂っている。


――天穹殿(ケルベリオン)の、祈りの間。


ヴァルデル陛下やアレクセイ、守司(ゲーレ)たちの驚きに満ちた声が大きく広がった。


戻ってきたんだ。三百年前から、元の時代へ。


そう理解した瞬間、安堵より先に、別の感情が一気にせり上がってきた。


「……イリヤ……」

声にならない名前が、喉からこぼれる。


「私、なんてことを……」

視界が滲む。涙がぽたりと台座に落ちた。


イリヤ、私の守護星。静かに私を見つめていたあの紅い眼も、夕陽に照らされて光っていたあの白髪も、優しく私の髪に触れたあの手も、すべて、置いてきてしまった。


「サラサ!」

聞き慣れた声が、祈りの間に響いた。顔を上げるより早く、肩をぐっと支えられる。冷えた星影の香り。懐かしくて、哀しくて、思わずその胸元に寄りかかった。


「エルヴィン……」

名を呼んだ途端、堪えていたものが一気にほどける。彼の腕が、力を増した。


「いったい、何があった」

低く抑えた声が耳元で震えた。


そのときだった。


「……そんな」

祈りの間の奥から、掠れた声が落ちてきた。

天穹殿(ケルべリオン)守司長(ダス・ゲーレ)――ロウ。彼の瞳は何か信じられないものを見たかのように、大きく開かれていた。


視線の先には、エルヴィンの腕の中の私。いや、正確には、私の髪だ。金色に偽装していたはずの髪と眼は、本来の薄紫色と碧色に戻っている。


ロウの顔からは、血の気が引いている。

「……アリア……」


祈りの間に、ざわ、と小さな波紋が広がる。ロウが、こちらに吸い寄せられるように歩いてきた。


「――この(ひと)に、触れるな」

低い声が、はっきりと空気を断った。――ミハイルだった。私の前に立ちはだかり、ロウを睨みつけている。


黒曜の逆鱗。漆黒の髪は逆立つように揺れ、その瞳には、抑え込まれた怒りが静かに煮えたぎっている。


ミハイルは振り返って、私を見た。

「アリア。これからは、僕が貴女を護ります」


彼の胸元には――薄桃色に光る白百合の紋が浮かび上がっていた。紋の光は天井へと伸び、壁を伝わって、地に脈動する淡い青の紋に吸収されていく。私の胸に暖かい光が灯り、ミハイルと同じ紋が浮かび上がった。


彼は、片膝をつくと私の手をとり、その甲に口づけた。

「闇夜に輝く僕の光。身命を賭して、お守りすると誓い申し上げます」


ロウと、エルヴィンの視線がミハイルに張り付くのが分かった。

「「……守護星。第七星(アグライア)……」」


「ヴァルデル陛下、どうかお人払いを!」

ミハイルのよく通る声が、祈りの間に響いた。


◇◇◇


祈りの間には、ヴァルデル陛下、エルヴィン、アレクセイ、リュシアン、ロウ、そしてミハイルと私が残った。


沈黙を破ったのはヴァルデル陛下だった。

「そなたたちが光に包まれて消えたと思ったら、次の瞬間、再び現れた。何が起きたのか、話してくれるか」


ミハイルは陛下と私を見比べ、小さく息を整える。


「サラサ、いえ……アリアの祈りが、時を越えたのです」

その口ぶりは、古いおとぎ話を語るかのようだった、


「あのとき、アリアのペンダントが反応し……気づけば、僕たちは三百年前に来ていました」


ミハイルは、起きたことすべてを語った。


オリアという名の巫女がいたこと。

イリヤという守護星に出会い、その青年が虚星に堕ちる運命の皇子と分かったこと。

私たちがイリヤの運命を変えようと向き合ったこと。

そして、イリヤが本当は私の守護星だったこと。

イリヤにすべてを話したうえで、この時代に帰ってきたこと。


「アリアは、イリヤに――虚星(アストラ・ヴォイド)となる定めの守護星に、できる限りのことをしました」

しかし――と、ミハイルの眼に迷いが宿る。

「彼がその後、本当に虚星にならずに済んだのか。未来を変えられたのかどうか、今の僕たちには分かりません」


「……星守の巫女オリアの守護星が、虚星へと堕ちたのは、間違いの無い事実です」

ロウの声だった。彼は、震える手を隠そうともせず語り始めた。


「ミハイル殿下の話は、我々の研究を裏付けるものです。最近の調査で、天穹殿(ケルべリオン)の古い地層から一つの石板が見つかりました。まるで、何かから隠すように埋められていたのです。そこに書かれていたのは、()()()()()()()()()()とは全く違う事実でした」


「一体、何が書かれていたのだ?」

ヴァルデル陛下が問う。


ロウは吐くように言葉を紡いだ。

「オリアの守護星は、星脈の乱れによる厄災を抑えるため力を使い果たし、その反動で闇に囚われた、と。そして守護星は、闇の力をその身に押しとどめたまま聖女オリアに封じられた――と」


ひゅっ、と短い息が漏れた。イリヤはやはり、虚星になってしまっていた。――けれど、それはこの世界を救うためだった。


居ても立っても居られなくなって、立ち上がろうとした。どこへ?分からない。でも、ここで安穏としてはいられない。そう思ったけれど、エルヴィンに抱きとめられ身動きがとれなくなった。


「アリア。今はまず休め」


でも、こうしている間にもイリヤは苦しんでいるかもしれない。今話しているのは三百年前の出来事なのだと分かっていても、過去と現在が頭の中で同時に進み、焦りだけが募ってゆく。落ち着こうと思っても、涙が止まらない。


「アリア、すまない」

エルヴィンがそっと額に手をかざし、短く呟いた。


瞬く間に意識が遠くなり、やわらかな眠気が全身を包んだ。


◇◇◇


アリアがエルヴィンの腕の中で眠りにつくのを見届けると、ヴァルデルが静かに息をつき、「さて」と話を切り出した。


「――守司長(ダス・ゲーレ)ロウ。おまえは、この()()()()の少女が星守の巫女だと知っていたな」


その声に、場の温度がわずかに変わる。ロウは、眠るアリアへ視線を落とすと、やがて覚悟を定めたように前を向いた。


「陛下、おっしゃる通りにございます。黎明星の乙女、アリアは……私の娘です」


一瞬、空気が凍りついた。アレクセイもエルヴィンもミハイルも、驚きを隠しきれない。動揺が、小さな声になって口々にこぼれた。ただ、ヴァルデルとリュシアンだけは、どこか落ち着いていた。


「やはりそうだったか。この少女に会った時、どこかおまえに似ていると思っていた」

「ヴァルデル陛下……」

「おまえが、ここに来て十数年になるか。どこか読めない奴だと思っていたが、やはり、理由があったのだな」


リュシアンが静かに口を開いた。

「ロウ守司長が魔力を偽装していることは、会った時点で分かりました。そして……奥底に流れる力が、アリアとよく似ていたことも」


「さすがはリュシアン閣下。そこまで見抜かれていたとは」と、苦笑するロウ。

「アリアに関することであれば、どれほどでも」と事も無げに、リュシアン。


「娘には二度と会えないと思っていました。しかし――殿下方の庇護のもとで、大切に扱われていると分かって……少し安堵しています」


ロウは、そっと右手をかざし、小さな魔導陣を描いた。

魔導陣の上に、幸せそうな親子の映像が、浮かび上がってきた。

ミハイルも、ついにアリア呼びになってしまいました。

次回、ロウから語られる親子の真実。

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