82 墜ちる
街を覆っていた魔物の気配が、ようやく薄れ始めていた。
イリヤたち前衛が星殻蜥蜴を霧散させ、オリアとアレクが防壁結界で街の人々を守っているあいだ、私は負傷者の手当てを続けていた。
後先考えずに黎明星の力を使ったせいか、魔力をだいぶ消耗してしまったみたいだ。身体が石みたいに重い。こんな大規模な戦闘は初めてだから、ペース配分が全然分からなかったのよね。今後の反省課題だわ……
やがて、魔物の討伐が済んだと見えて、前衛班が後方まで戻ってきた。イリヤやミハイルの姿もあった。二人とも怪我はしていないようだ。
「サラサ!」
ミハイルが、走ってかけてくる。彼はその勢いのまま、私を強く抱きしめた。
「ミハイル!無事で良かったわ」
「危ない目には合いませんでしたか?ずっと心配で……」
「大丈夫よ。私は治癒にあたっていただけだもの。あなたこそ……」
よく見ると、ミハイルの顔には無数の切り傷ができていた。
「ミハイル。傷が……」
とっさに、頬を撫でる。白い光がミハイルの白い肌を包み、傷が消えてゆく。
「こんな傷ぐらい。あなたの力を使わなくてもいいのに」
「私が、治したいのよ」
そう言うと、ミハイルは、私の手を掴んで頬を押し当てた。
「あなたの光はまるで……」
ミハイルの黒い瞳に、強い熱がこもる。
「闇夜に光る灯です」
次の瞬間、我に返ったように手を離すと、彼は「アレクに聞きたいことがあるので」と仮設救護所へと慌てて向かって行った。
ミハイルを目で追っていると、視界に、イリヤが目に入った。みんなと少し離れたところで、休んでいる。
「イリヤ、無事だったのね。良かった」
彼は私を見たとたん、眉をひそめ、私の額に手の甲を当てた。
「サラサ……君は……魔力をかなり使ったみたいだね」
これぐらい、一晩寝れば回復するから大丈夫、そう言おうとした瞬間だった。
足元が沈むような嫌な感触が、石畳を伝って広がった。大地が薄い皮膜を破って崩れ落ちるように震え、その場の空気が凪いだあと、いきなり重力が抜ける。
「サラサ!」
イリヤの切迫した声が聞こえた。
「星脈の揺らぎだ!」
遠くで神官の声がする。
次の瞬間、石畳が裂け、私たちはそのまま暗闇へと呑み込まれた。
◇◇◇
衝撃は思ったほど強くなかった。
ただ、肺の奥に冷気が入り込むような痛みが走る。
手探りで周囲に触れると、湿った石壁があり、古い苔の香りがした。ここは――地下?
「サラサ!」
近くから聞き慣れた声がした。闇の向こうから、イリヤが駆け寄ってきた。手のひらの小さな魔導球が淡く揺れ、その光が彼の焦った表情を照らす。
「怪我は?どこか痛むところは?」
「大丈夫。あなたは?ほかのみんなも無事かしら……?」
「崩落はかなり狭い範囲だっただから、巻き込まれたのは、僕たちぐらいだと思うよ」
その声に、少し落ち着いて、あたりを見渡した。ここは、もう使われていない古代の排水路のようだ。水が流れていた名残だけがかすかに残っていた。
「とにかく出口を探そう。……サラサ、僕の後ろにいて」
イリヤが前に立った直後、石の天井が軋む音がした。
それは、魔物の影だった。
◇◇◇
ひとつ、ふたつではない。天井の割れ目から、青白い甲羅の蜥蜴が次々と落ちてくる。
「――!」
星殻蜥蜴。地上で見たものより、ここに落ちてくる個体の方が魔力に濁りがあった。星脈の乱れに引き寄せられたのだろう。
イリヤが、私をかばうように立つ。
「離れないで」
短い言葉。その響きが、ここでは妙に鮮明に聞こえた。
「理を開き、我が誓いを聞け。蒼環流」
広がる光が地下を照らし、蜥蜴の群れが霧のように散る。しかし、奥から次の群れが現れる。しかも先ほどより数が多い。よく見ると、イリヤの足元がふらついている。流れる血が、彼の白衣を濡らしていた。
「イリヤ……落ちた時、怪我を……!?」
「大したことじゃない。まだ戦える」
そう言った瞬間、彼の肩越しに巨大な影が見えた。それは、地上で見たどの個体よりも大きかった。星殻蜥蜴の“王種”――甲羅に走る星紋が、鮮血のような色を帯びている。
「サラサ、逃げて」
背を向けたまま言う声は、ひどく静かだった。
「私もあなたと戦うわ」
「だめだ。君はかなりの魔力をすでに失っている。これ以上は危険だ」
そんなの分かってる。足はがくがくするし、腕には力が入らない。いわゆる満身創痍だ。けど、ここで頑張らないで、いつやるの。最大のピンチを前に、久々に社畜根性を思い出して気合を入れる。もう、やるしかないのよ!アリア!
巨大な星殻蜥蜴が咆哮し、尾を大きく振り上げる。その動きに合わせ、空気が押しつぶされるように重くなった。
私は、短く息を吸うと胸に手をあてた。
「黎明星……どうか、私たちに力を」
呼応するように白い何かが立ち上がった。自分のものとは思えない輝きが、胸元から溢れ出すように広がってゆく。黎明星の記憶、祈り、名もない願い。それらが溶け合って、光となり、私を包んだ。
「イリヤ、私の力を使って!」
イリヤは何か言いかけて、短くかぶりを振った。
「……分かった。君の光を、僕に預けて。――理を開き、我が乙女の誓いを聞け。蒼環流」
詠唱の瞬間、彼の内側から青銀の光が広がった。
地下空洞の闇を押し返すような、静かで澄んだ光。私はイリヤの背にそっと手を添えた。ふたりの魔力が触れ合った瞬間、青と白の光が一つの巨大な環となり、地下全体に広がった。
イリヤの魔力は心地よく、まるで魂を優しく撫でられているようだった。
彼も、同じように感じているのだろうか。柔和な表情を浮かべている。
「サラサ――君の光は……」
その声は、星殻蜥蜴の悲鳴にかき消された。蜥蜴は、その輝きに呑まれて大きく身をよじらせた。尾は乱れ飛び、排水路の壁を壊して地面を揺らす。しかし、やがて、光に包まれると、青と白の霧となって跡形もなく消えていった。
◇◇◇
「はぁ……っ」
光が消えた後、イリヤはその場に崩れ落ちた。
私は慌ててその身体に手を伸ばす。
「イリヤ!」
呼吸が浅い。肩に、黒く変色した傷口がある――毒の尾が、一瞬の隙に彼を貫いていたのだ。
「そんな……」
「大丈夫だよ。もう、痛みもない」
イリヤは笑った。ひどく弱々しく、けれどどこか満ち足りたようだった。
「サラサ。……昨日は冷たくしてごめん。……ずっと謝りたかった」
「こんな時に、なにを……あなたが、謝ることなんてないわ」
彼の指先が、冷たさを帯びていく。
「……お別れする前に……言いたかった。……僕はずっと、自分が何のために生まれたのか、そればかり考えてた。……生まれてこなければ…と。でも……君に会えて……君の光があまりに眩しくて……そんなことを考えなく…なっていった」
「そんな……」
「……ありがとう。僕は君が大切だよ」
涙は落ちないのに、胸の奥が何かを失いかけている感覚だけが強くなる。こんな哀しい別れをするために、彼と出会ったんじゃない。……このまま彼を死なせたりしない。絶対に。
「イリヤ、私も、あなたが大切よ――」
私は彼の胸元に手を重ねた。黎明星に祈る。光よ、どうか――この人を救って。私の命を使ってもいいから。
世界のどこかで眠る星々が、ふっと揺らめいた気がした。
次の瞬間、白い光が噴き上がった。私自身の魔力では足りない。それでも祈りは力を形づくり、イリヤの身体へ流れ込む。彼の血を浄め、壊れた肉体をつなぎとめ、毒を押し返していく。光は容赦なく、私の内側を削ってゆく。
頭が沸々として、全身の血管が煮えくりそうだ。視界が霞み、眼から血の涙が出ているのが分かる。でも、まだだ。まだ、倒れるわけにはいかない。
どれほど時間が経ったのだろう。もう身体も、手も、動かせなくなっていた。
イリヤの身体に広がっていた黒い毒は消え、青銀の光だけが静かに脈打っていた。安堵と同時に、糸が切れたように全身の力が抜ける。
私はその場に崩れ落ちた。
最後に見えたのは――彼の胸に浮かぶ、澄んだ青銀の紋だった。




