80 繋いだ手
衣擦れの音がして、白く優しい光の気配がした。
「サ……ラサ……?」
目の前で白髪の少年が静止しているのが見えた。
「…ん……イリヤ?」
声に出して気づく。私、寝ていた!しかも人の部屋のベッドで!勝手に!……昨日、ミハイルと夜更かししちゃったから寝不足だったのよね。嗚呼、淑女と思えないマナー違反です。というか、それ以前の問題か。
「ごめんなさい。イリヤ。私、あなたを待っていたら、うとうとして……それでそのまま……」
自分のしでかした失態に、つい、恥ずかしくなって顔を手で隠す。
イリヤの紅い瞳は、満ち足りた月のように丸くなっていた。そこには、驚き、戸惑い、そして――ひどく慎重な喜びが見えた。
「……どうして、僕の部屋に……?」
「アレクが、入れてくれたの。あなたはすぐ帰ってくるからって」
「……そう。帰ってきたら、自分の寝台に綺麗なお姫様が寝てるから、びっくりしたよ」
彼は淡々とした表情を崩さずに言う。
なんだろう。この、素でお世辞を言う感じはアレクセイに似てるな。高貴な血がそうさせるのかしら。綺麗なお姫様というより、さっきの私は、ただの怠惰な巫女見習いでしたが。
「足は、もうなんともない?」
イリヤは、私の隣に座り、足元に視線を向けた。
「動かしても、痛みはない?少し確認させてほしい」
私が頷くと、イリヤはひざまずいて遠慮がちに足首を触った。撫でる指先は、ごく優しい。
イリヤはしばらく黙っていたが、やがて安心したように頷いた。
「僕は外れ子にしては魔力が多いけど、回復魔術は巫女たちほど得意じゃないから心配だったんだ」
「もうすっかりなんともないわ。ありがとう」
「……イリヤ、昨日の市場での話、覚えてる?“来週、また孤児院に行こう”って誘ってくれたでしょ」
「……うん」
「その話の続きをしたくて」
「昨日のあなたの誘い、とってもうれしかったの。あなたが自分の望みを言ってくれて」
「……そう」
「でもね、私……あなたと孤児院には一緒に行けないと思う」
「……それは、なぜ……?」
イリヤの紅い瞳が揺れる。痛みに耐えるようなくぐもった声。
「私は……私とミハイルは、遠いところから来たの。そして、もうすぐ帰らなくちゃいけないの。私たちを待ってる人がいる」
「君たちは、エリドゥから来たんだろ?」
「そう。だけど、一度帰るともう二度と戻ってこられないようなところなの」
「……巫女の修行はどうするの?」
「もともと、すぐに帰る予定だったわ。でも、あなたと出会って、あなたを知りたくなって……それで、ここにとどまってしまった」
イリヤの顔に、ゆっくりと悲しみの色が広がる。
「……最初から、すぐ帰るつもりだったの?」
「違う!……そう、だけど……そうじゃない」
「いや、いいんだ」
イリヤは、どこか感情のこもらない声で呟いた。
「僕も、きっと、最初から分かってた」
そう言った彼は最初に会ったときの、何かを諦めてしまった顔をしていた。
私は、思わずイリヤの手を取ると、ぎゅ、と握りしめた。彼がはっとしたのが分かった。
「ごめんなさい。あなたに、そんな顔をさせたかったわけじゃないの」
彼は黙ったままだった。指は固く、冷たかった。
ちゃんと、言わなくては。オリアやアレクのように、私も、あなたを大事に想っていると。
「あなたがとても優しくて良い人だから、私は、あなたに幸せになってほしいと思ったの。あなたが自分の望みをもって、歩んでいける未来を作りたいと。だから、あなたの周りに大事な人や物が増えて、あなたの支えになってくれればと思ったのよ」
「でも、それが結局は……あなたを傷つけた。私は……あなたの人生に責任を持てないのに、勝手に首を突っ込んでっ……こうして自分勝手に去っていこうとしている」
視界がじわり、とにじむ。涙が次から次に上がってくる。泣いてはいけない。それは卑怯者のすることだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
彼のもう片方の手が、私の背を撫でた。手からは、ほんの少しの温度が伝わってきた。
「僕は、君が大切だよ」
◇◇◇
窓の外では、星々が瞬き始めていた。
ミハイルが心配しているだろうから、そろそろ帰らなくてはと思っていると、足音がして勢いよく扉が開く。
「サラサ。アレクからここにいるって聞いて。もう消灯の時間だよ」
ミハイルだった。
彼は私とイリヤを交互に見ると、私の顔をじっと見た。そして、頬に残る涙のあとを見つけると、その表情を一変させた。
「イリヤ……サラサに何をした」
黒曜の瞳に、思わず総毛立つような覇気がこもった。……ミハイルも帝国皇家の血を引く者なんだと、改めて思い知る。私は一瞬あっけにとられたが、慌てて止めに入った。
「ミハイル、違うの。ただ、少し話していただけで――」
「話していただけで、泣いたんですか」
ミハイルは私の肩を抱き寄せ、イリヤから引き離す。
「やはり、もう帰りましょう。これ以上、ここにいてはいけない」
彼の腕に力がこもる。
ミハイルは私を抱いて、そのまま部屋を出ようとする。
「待ってミハイル!お願い、放して」
そのとき、手首が後ろへと引っ張られる気配がして振り向いた。イリヤが私の手を掴んでいた。
「ミハイル。サラサは嫌がっている。放してあげて」
その目は、静かに、私を見つめていた。




