78 イリヤの大切
「…………どうして、こうなったんだろう」
聖女オリアの時代にやってきて四日目。
青空の下、私は市場のど真ん中で立ちつくしていた。
目の前にはずらりと並んだ屋台。香ばしいお肉が焼ける匂いと焼き菓子の甘い香りが入り混じり、人々の声が途切れなく響く。人の波が、まるで生き物のように押し寄せてくる。なのに、肝心の同行者が――誰ひとりいない。
「オリアとアレクはどこ? ミハイルも、 イリヤもいないじゃない……」
顔を見回しても、知っている顔はひとつもない。どう見ても私は迷子。巫女見習いサラサ、三百年前の世界で迷子になるの巻である。
少し前――私たちは五人で街に出てきたはずだった。
『せっかくだし、買い出しに行きましょう。サラサも街に慣れたほうがいいわ』
オリアが朗らかに言い、アレクサンドルも「たまには外食も悪くない」と乗り気。ミハイルは「もちろん姉様についていきます」と力強く宣言し……イリヤはといえば、問答無用でオリアに引きずられるように連行させられたのだった。
あのとき、オリアって案外、肝っ玉母ちゃんみたいなところがあるんだなと分かったのよね。そして、その飾らない感じが、イリヤとしても話しやすいんだろうな。
そんな五人旅が――どうしてこうなった。全員とはぐれるって、なかなかないよ、アリア。そう自分で自分にツッコミを入れていた、そのとき。
「サラサ?」
背後から静かな声がした。
振り返ると――白いフードの下で白髪が揺れ、紅い瞳が私を見つめていた。
「イ、イリヤ!良かった……」
胸の奥に、どっと安堵が広がり、思わず、イリヤに抱きつく。彼は一瞬だけ目を丸くし、すぐにいつもの淡々とした表情に戻ると、私を優しく引き離した。
「サラサは女の子なんだから、こんな風に誰にでも抱きついちゃだめだよ」
はい。おっしゃるとおりです。すみません。慎みが無いと、エルヴィンやアレクセイからも言われていました。
イリヤは少し照れたような顔で、頭をかいた。
「君があちこちの出店にふらふらと吸い込まれていくから……こうなる気がして、後ろから見てたんだけど……見失った」
「ごめんなさい。久しぶりに街を歩いたものだから楽しくて」
イリヤはわずかに微笑んだ。
「……人の多い場所は、あまり好きじゃないんだ」
彼の過去を思えば、その言葉も当然のことのように思えた。
「でも、君が見えなくなるほうが……もっと落ち着かなかった」
その控えめな言い方が、胸の奥をふっと揺らした。
「戻ろう。オリアたちを探さないと」
イリヤはさりげなく一歩前に出て、私を人の波から庇う位置に立った。
◇◇◇
市場は人で溢れていた。
私たちはその中を突っ切るように進みながら、昨日の孤児院での話をした。
「僕は皇家の外れ子だったから。僕の周りには、僕を利用する人か、疎ましく思う人しかいなかった」
「ええ……」
「でも、あの子たちには、僕が誰かなんて関係なかった。そして……君も」
孤児院で、イリヤが子どもを抱きかかえながら絵本を読んでいた、あの光景が蘇った。
前から、大きな荷車が馬にひかれてやってくる。イリヤは私の肩を抱き寄せると、荷車の横をすり抜けて、人混みを進んでゆく。
「君が、僕に言った言葉の意味をずっと考えてた」
「あの、言葉……?」
「大切なものが増えていけばいいって。……僕にとっては、昨日のあの時間が大切なものだったんだと思う。君といた、時間が」
「イリヤ……」
人の波を抜けて裏通りへと出た。私の肩をつかんでいたイリヤの腕から力がふっと抜ける。彼は立ち止まり、私の目を見つめた。
「来週、また、孤児院へ行ってみようかと思うんだ。……君もこない?」
……来週。来週には、きっと私は元の時代に帰ってしまっているだろう。エルヴィンの待つ場所へと。できない約束はしてはいけない。でも、どう言えばいいんだろう。そのとき、自分が何かとてつもなくひどいことをしているのではないかという気持ちになった。
「あのね、イリヤ……私は」
そのとき。
「きゃぁぁあ!!」
鋭い悲鳴が上がった。風にさえぎられたような、幼い声。裏通りの奥――薄暗い抜け道の先から聞こえてくる。イリヤと同時に顔を上げ、私たちは駆け出していた。
空き地は、荷車が乱雑に置かれ、薄暗かった。その中央で、小さな女の子が尻もちをつき、荷車の影から“何か”が這い出してきていた。
青白い蜥蜴。女の子と同じぐらいの大きさをしている。甲殻の隙間から蒼光が脈打つたび、空気がざらりと震える。
「……星殻蜥蜴……?」
オリアに教えてもらったばかりの、低級の魔物だ。攻撃力はけして強くはないが、硬い甲羅に覆われていて、防御力が強い。厄介なのは鋭い尾に含まれる猛毒。刺されると間違いなく死に至る。
星殻蜥蜴は口を横に大きく裂き、子どもの笑い声のような不気味な鳴き声を漏らした。次の瞬間、獲物へ飛びかかる。
「危ない――!」
考えるより早く、身体が動いていた。私は子どものもとへ駆け寄り、その前に身を投げ出すようにかばった。そのとき、白い光がふわりと立ちのぼった。光は半球を描き、飛びかかってきた魔物を弾き飛ばす。
「……サラサ!」
光は、私の服のポケットから立ち上がっていた。まさか、と、中を探ると出てきたのは……や、やっぱり、おまえかーっ!!セレスにあげるために、とっておいた“大吉守”だった。こ……こいつ、ここぞというときに、すごくいい仕事をするっ……
「――理を開き、我が誓いを聞け。蒼環流」
イリヤが詠唱すると、青銀の光が立ち上がった。青銀の淡い膜が蜥蜴を包み込むと音もなく、静かに霧散した。まるで蒼い月の光が降り注いだかのような美しい光景だった。泣き叫んでいた女の子も、きょとんとした顔をする。やがて、女の子は駆け寄ってきた父親に抱きかかえられ、去っていった。
「サラサ、さっきの光は、いったい……」
イリヤがこちらへ近寄る。彼は、私の足元に視線を落とすと、小さな動揺をその顔に見せた。
「怪我、してる」
視線の先を見ると、確かに足首に少しだけ擦ったような傷があった。さきほど、子どもを庇ったときのものだろう。
「こんなの、かすり傷で――」
「すぐに手当てを……いますぐ」
普段の彼からは考えられないほど、焦った声音だった。
イリヤは、私の足首に手をかざすと、白く青い光が灯った。傷は跡形もなく消えてゆく。
「ありがとう、イリヤ」
「もう二度と、こんな危ない真似はしないで」
イリヤは静かに私の足首を撫ぜた。温かく、滑らかな指の感触が伝わってくる。
そのとき、風を裂く勢いで、ミハイルが駆け込んできた。
「サラサ!今の光は…!?」
肩で息をし、額には大粒の汗。ミハイルは私を見た瞬間、安堵の表情を浮かべた。しかし、足を庇うように地面に座り込んでいた私を見て、顔色を変えた。
「……何があったんですか」
その声音には、普段の柔らかさが微塵もなかった。静かだが、ひどく冷たい怒りが伝わってきた。
「少し足首を怪我してしまって。でもイリヤが治してくれたから」
「怪我……」
ミハイルは、イリヤに向き直った。その目は鋭く光っている。
「イリヤ、あなたがついていながら、なぜこんなことに」
「ミハイル!イリヤのせいじゃないの。私が自分で飛び出して怪我したのよ」
「いいんだ、サラサ」
イリヤは小さく首を振った。
「……僕の力が、足りなかった。僕にもっと力があれば、君を守れたんだ」
その目はじっと何かに耐えているようだった。
「いえ、こちらこそ、すみません。少し熱くなってしまいました」
ミハイルは深く息を吐くと、頭を下げた。
「サラサを守ってくださり、ありがとうございます」
「おーい、こっちこっち!オリア、いたよ。イリヤとサラサ!」
アレクサンドルだ。通りの向こうで手を振っている。オリアも駆けて来る姿が見えた。
二人が来るとイリヤは遠慮するように、私から離れてしまった。
私は、その紅い瞳に浮かんだ寂しげな色が、どうしても忘れられなかった。
読んでいただきありがとうございます!
アリア、イリヤ、アレク、オリア…
全部三文字で、頭が母音。たまに混乱しています。




