71 天穹殿とアレクセイの贈り物
――滑走舟が、天穹殿へと動き出した。
水面を滑るような不思議な感覚が足元から伝わってくる。
天穹殿は“禁域”。皇族以外の立ち入りは本来許されない。そのため、今回はお忍びで向かうことになったわけだが――船には、なぜかヴァルデル皇帝陛下まで乗っていた。
「私も現場をこの目で見たいのだ。考古学者としてな!」
いや、皇帝陛下が“考古学者として”現場に同行する国、あります?……と心の中でツッコミはしたけれど、陛下が楽しそうなので何も言えない。
そんなことを考えていると、隣のミハイルがにこりと笑ってこちらを見た。
「アリア姉様、そのイヤリング、とてもお似合いです」
ありがとう、ミハイル。――でも、その一言は、否応なく“今朝”の記憶を呼び起こした。
◇◇◇
「アリア、少し良いか」
控えめなノックに扉を開けると、アレクセイが立っていた。黒の正装に身を包み、前髪を上げた様子は、上品でありながら、どこか艶やかだった。
「出る前に、これを渡しておきたくてな」
差し出された小箱。中には金の小さなイヤリングが入っていた。二つの輪が重なったシンプルなデザインだ。
「おまえは、古い意匠の装飾品を好むようだが……偶然、街で見つけて、おまえに似合うと思った」
その声音は淡々としているが、どこか緊張をはらんでいた。
「殿下、こんな……受け取れませんわ」
「ヴァルデル陛下からは、受け取ったのに、か?」
「そんな、意地悪をおっしゃらないでください」
「……まあ、諦めろ」
アレクセイは、私に近づくと優しい手つきで、イヤリングを私の両耳につける。アレクセイの指から伝わる熱が肌にふれ、くすぐったくなる。
ふとアレクセイと目が合った。彼は私の眼を見つめながら、指先を耳から頬へと滑らせた。静かな時間が満ちる。朝陽が部屋の窓から差し込み、私の横顔にひとすじの光を落とした。アレクセイはわずかに身じろぎすると、その光景を逃すまいとするように目を細めた。
「よく似合っている。美しい」
アレクセイはそう言うと、私から手を離した。
「エルヴィンとは、話ができたようだな」
「はい……殿下のおかげです。ありがとうございました」
「何か、言われたか」
「……その……」
言葉にするのが恥ずかしくて、つい、アレクセイを見上げる。
「言わずともよい。あいつも、根性無しではなかったということだ」
根性……無し……?第一皇子殿下からそんな言葉が出ると思わず、一気に緊張がゆるんだ。
「だが、やはり……気に食わないな……」
アレクセイは、左耳の金のカフに手をやる。
「アリア、おまえは……私のことをどう思っている?」
どう……?どう、って……今、自分の目が”点”になっているのが、自分でもわかる。どうも、こうも……
「殿下は、我が帝国の……」
「そうではない。おまえが、私という男をどう思うか聞いているのだ」
「殿下は優しく頼りになるお方です。黎明星の乙女である私を、守護星として護ってくださる」
アレクセイは、呆れた顔で私を見た。
「おまえのその鈍感な情緒を、あいつがようやく開かせたと思ったが……」
鈍感な……情緒……?聞き間違いかしら。今、なんか、ディスられたよね?わたし。
「アリア。おまえは、私がおまえを好いていることに気づいているか?」
「えっ?」
「やはり、分かっていなかったか」
「そんな……何かの間違いです……!」
「間違いではない。私が、そう言っている」
アレクセイは静かに左手で私の腰を抱いた。そして、右手で私の髪を撫で、優しく頬に口づけを落とした。
「これで、分かったな」
◇◇◇
ぎゃーっ。思い出しただけで恥ずかしくなってきた。
私は思わず、頬をごしごしと撫でた。
あのあと、アレクセイが何か言っていた気がするんだけど、もはや思考停止に陥って何も覚えていない。
……あれは、なんだったんだろう。アレクセイは本当に私の事が好き……?いや、そんなはずない。だって、アレクセイは第一皇子だもの。普通なら他国の王女様とか、聖女とか、公爵令嬢とか、最低でもそのくらいのお相手と政略結婚をするわけで――って、それは私か……!私、一応公爵令嬢だし、なんなら聖女じゃないか。皇家に嫁いでも、おかしくないんだ。一人、百面相状態になっていると、横から明るい声がした。
「兄上の耳飾りと似ていますよね、そのイヤリング」
ミハイルに覗き込まれたその瞬間、私は耳を隠すように髪を触ってしまった。ミハイル、良い子だから、もう、その話題はやめよう。
気づけばエルヴィンの視線は少し険しく、アレクセイは妙に機嫌が良く、ヴァルデル陛下に至っては「うむ、若い者はいいな」とにこにこしていた。リュシアンは……寝てる。恐ろしく整った寝顔が罪作りだ。
まだ目的地にも着かないというのに、なんだか、どっと疲れが出てしまった。
◇◇◇
天穹殿の前には、白銀の衣をまとった守司たちが整列していた。
ロウと名乗る守司長が代表して、ヴァルデル陛下を迎え入れる。四十代半ばだろうか。金髪に碧眼で、丸眼鏡をかけた学者然としたたたずまいの男性だった。
ヴァルデル陛下は、ロウへと、まっすぐに言い放った。
「ロウ、久しいな。古石板の研究は進んでいるか?堅苦しい挨拶は抜きだ。実はな、“獣化の呪い”が解けたのだ」
その言葉に、守司たちの表情が凍りつく。
「……獣化の呪いが……?」
「虚星の呪いは、“約束されしもの”にしか解けぬはず……」
「確かに、陛下から強い魔力の気配を感じます。しかし……」
ロウは、ふと私達の方へと視線を向けた。
「こちらは、エリドゥ帝国の使節団だ」
ヴァルデル陛下は私たちを紹介した。もちろん私は“アレクセイの侍女”として。
「昨晩、こちらのリュシアン院長閣下が、呪いの依り代を破壊してくださったのだ」
守司たちは驚愕しながらも、納得の色を見せた。
「なるほど。天才と呼ばれる熾天の魔導士様であれば……」
「リュシアン様の魔力は大陸随一と言われていますからな……」
「ということでな、ロウ。私の恩人である彼らに、天穹殿の祈りの間を見せたいのだ。リュシアン院長は私と趣味を同じゅうする仲間でな」
あっ…リュシアンが勝手に陛下と同じ“歴史オタク”にされている。でも、私が黎明星の乙女であることを隠して入るには、これが最善の手であるのは間違いない。改めて、ヴァルデル陛下、ありがとう。リュシアン、ごめんなさい。
ロウは恭しく手を胸へ当てた。
「陛下の恩人は、この神聖国の恩人。リュシアン閣下、そして皆さま、心より感謝申し上げます」
そう言って頭を下げると、ロウは――ごく自然な流れで、私のほうにも視線を移し、にこりと微笑んだ。
そのとき、強い緊張がリュシアンから伝わってきた。厳しい表情でロウを見ている。何かを見定めるかのような目つき。まさか……ロウは、虚星の手の者とか……?
私の心配をよそに、天穹殿の古びた門が、重く、ゆっくりと開いていった。
まるで――私たちの訪れを待ち受けていたかのように。
アレクセイは余裕のある男です。
エルヴィンは、アリア限定で余裕のない男です。




