69 氷刃公の愛情
アレクセイがエルヴィンの部屋を訪ねてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「アリアは、こちらに来ていないか」
そう切り出した声音は、いつもよりわずかに急いていた。
エルヴィンは書類から顔を上げ、首を振る。
「来ていない。……何かあったのか」
「ヴァルデル陛下から呼ばれた。アリアとともに来てほしい、と」
アレクセイは言葉を継ぐ。
「この時間なら、厨房か、侍女の控えの部屋かもしれんな。探しに行ってこよう」
そう言って踵を返そうとした、その動きを、エルヴィンは反射的に制していた。
「――私が行く」
声は低く、短かった。彼は、自分でも、なぜそう口にしたのか分からなかった。
「おまえが……?」
「アレクセイ、おまえには本国からの急ぎの件があるだろう」
「必死だな、エルヴィン。執着が過ぎると嫌われるぞ」
「……うるさい」
「アリアも気の毒だな。おまえのような男に囲われて、気が休まらない」
アレクセイが、どこか楽しげに笑う。
「……黙れ、アレクセイ」
エルヴィンはその肩を押しのけ、廊下へ出た。振り返ることなく、そのまま厨房の方角へ向かう。
「まったく……あいつ、自分がどんな顔でアリアを見ているか、分かっているのか」
静まり返った廊下に、アレクセイの声が小さく残った。
◇◇◇
歩きながら、エルヴィンは自分の判断を整理しようとした。
ヴァルデル陛下がアリアを呼んでいる。それなら急ぐべきだ。陛下を待たせるわけにはいかない。――位置探知の魔術をかけているから、自分ならおおよその場所が分かる。それだけの話だ。
だが、厨房に近づくにつれ、空気に微かな違和感が混じり始めた。人が多い。しかも、侍女でも神官でもない。若い貴族たちだ。色の良い外套、手入れの行き届いた髪。それに比して、視線の落ち着かなさが目につく。
「エリドゥから来た侍女だそうだ」
「まるで女神のような美しさだとか」
抑えた、上品な声。それがかえって、耳障りだった。
「どこかの御令嬢なのだろう」
「お近づきになりたいものだ」
……お近づきに、だと。
エルヴィンは足を止め、彼らを一瞥した。言葉はない。ただ視線を向けるだけ。だが、そこに込めた意思は明確だった。貴族たちは即座に察し、言葉を切り、視線を逸らし、自然と散っていく。
周囲を見渡す。だが、アリアの姿はない。厨房の入口にも、回廊にも、金の髪は見えなかった。
忌々しい。アリアに近づこうとする令息達。それに、アリアの――あの髪。自分の瞳と同じ色に変えるとは、リュシアンも勝手なことをしてくれる。だが、金の髪の彼女は、想像以上に美しかった。自嘲めいた笑みが、口元に浮かぶ。結局のところ、自分は、彼女の髪や瞳が何色でも構いはしないのだ。彼女のすべてが愛おしいのだから。
そのとき、丸い木の扉の向こうから、抑えた笑い声が漏れてきた。
柔らかく、空気を和ませる声。
アリアだ。
その認識は、息を吸うよりも早かった。
エルヴィンは、扉の前で足を止める。
「サラサ様は、どなたがお好み?」
「その、皆さまそれぞれに良いところがあって……」
他愛のない噂話。聞くつもりはなかった。だが、聞こえてしまった。その先を聞く勇気が出ず、エルヴィンは意を決して扉を開いた。
「……サラサ」
声をかけた瞬間、空気が変わる。侍女たちが息を詰め、彼女がこちらを見上げる。金の瞳が、まあるく見開かれる。その表情を、エルヴィンは――ただ、愛らしいと思った。
「少し、良いか」
侍女の一人が慌てて前に出る。
「申し訳ございません。お引き留めしてしまいまして……」
視線をサラサへ戻す。
「……失礼した。サラサ、行こう」
彼女はすぐに立ち上がり、裾を整え、丁寧に頭を下げた。その一連の所作が、場の視線を再び引き寄せる。
……だから言ったのだ。
廊下へ出ると、ようやく静けさが戻った。
数歩進んでから、エルヴィンは口を開く。
「賑やかだったな」
「ええ、とても。皆さま、優しくしてくださって」
その言葉に、嘘はない。だからこそ、胸の奥が微かに疼く。
「サラサ」
歩みを緩め、彼女を見る。
「おまえは……あまり宮殿をうろつくべきではない」
「え……?」
「姿も、仕草も、声も、目立ちすぎる。おまえが、どこの家の令嬢か探る者もいた」
忠告だ。心配という、正当な理由に基づいたもの。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、「すみません」と言った。
「謝る必要はない」
そう言いながら、エルヴィンは距離を詰める。
壁際。
逃げ場を塞ぐつもりはなかった。
ただ――もっと近くで、彼女の存在を確かめたかった。
彼女の髪が、わずかに乱れている。この美しい髪を、誰かに触らせたのか。一瞬浮かんだ考えを、馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。彼女に触れられるのは、自分だけだ。いや――そうでなければならない。
エルヴィンは指先を伸ばした。一筋、髪に触れる。絹のように滑らかな感触が、指に絡む。
……なぜ、こんなにも。
ゆっくりと、丁寧に。彼女の輪郭をなぞるように、髪を後ろへ流す。触れないはずの肌の気配が、確かにそこにある。呼吸が、近い。彼女の体温が、指先から腕へ、胸へと伝わってくる。抑えていたものが、わずかに溢れそうになる。
「……悪い虫が寄り付かないようにしなくては、な」
彼女の頬が赤く染まる。その変化を見て、胸の奥が、はっきりと熱を帯びた。
そのとき、エルヴィンは遠くから視線を感じた。先ほどの貴族、そして――侍女たちだろう。ここでは、自分と彼女は兄妹ではない。誰に見られても、構わなかった。いや、むしろ、彼女は私のものだと、見せつけてやりたい。
エルヴィンは、ゆるされる限界を素早く計算したうえで、――彼女のこめかみに、そっと口づけた。
「侍女殿は、今日も美しい」
少なくとも今は――彼女は、自分の腕の届くところにいる。
彼は、それだけで、少し満足がいった。
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エルヴィンが頑張っているところで、物語はさらなる展開へ。
次回より、月水金日更新に戻らせていただきます。




