65 氷刃公と夜の獣 出現
――何かが起こる予感で、目が覚めた。
部屋の魔導灯が煌々と、寝台を照らしていた。星央殿から帰ってきて、エルヴィンの前で泣いてしまった私は、その後、軽食をとると早々に眠ってしまったんだった。
外では雷鳴が轟いていた。雷と雨の音に交じって――聞こえる。昨夜と同じ、獣の遠吠えだ。今夜は、もっと近い。そして、痛ましい。助けなければ、と感じた。理由は分からない。でも、これは、誰かの叫び声だ。
寝台から足を下ろし、上衣を肩に掛ける。靴音を殺しながら扉を開け、静かに閉める――
「アリア」
すぐ背後から、低い声が落ちてきた。振り向く前に、腕を掴まれた。その握り方で、誰かは分かる。
「お義兄様……?」
碧の瞳は、私の姿を鋭く見据えていた。
「どこへ行くつもりだ」
「えっと……その……お、お義兄様は、なぜ私が部屋から出たのが、分かりましたの……?」
誤魔化そうととっさに質問すると、エルヴィンが黙ってしまった……あ、これ、また私に位置探知魔術をかけてたな。しかし、黙ったまま手首を離そうとしないエルヴィンに観念して、口を開く。
「……あの獣の声が聞こえたんです。助けを求めているように聞こえて……」
「アリア。あれは“魔の獣”だ。近づくべきものではない」
そんなこと、分かっている……でも。
“自分の人生を生きられるようになって”
“あなたの未来を、あなたの手に戻したい”
昼間のリュシアンの言葉が、頭をよぎる。
「もし、誰かが苦しんでいるなら放っておけませんわ」
エルヴィンは一度目を伏せ、深く息を吐いた。
「おまえは……本当に……」
叱っているようで、どこか諦めきれない優しさを帯びている。
「……分かった。だが、絶対に私の前に出るな」
その手が、しっかりと私の手を握り直す。
「行こう」
私は頷き、夜の宮殿の奥へと足を踏み出した。声をたどって進むたび、空気が変わっていく。上階の香油の匂いは消え、石の匂いが強くなり、足元の冷気は鋭さを帯びる。
……こんな場所が、宮殿の下にあったんだ…
「セレスティアの宮殿は、地下に古代遺跡を抱えていると聞いたことがある」
エルヴィンが低く呟いた。
「皇家に代々伝わる“守るべきもの”があると」
「守るべきもの……」
その言葉に、胸の奥で小さなひっかかりが生まれる。黎明星の消尽、虚星の影響――今日一日で知った情報が、頭の中で微かに繋がりかけては、形を成さず霧散していく。
階段をひとつ降りるたびに、吠え声は明瞭になっていった。
「アリア、ここから先は、私の後ろに」
「……はい」
エルヴィンは私の手を放し、その代わりに、腰の剣へと手を伸ばした。鍔音が静かな地下回廊に響き、冷たい光をまとった刃が抜き放たれる。
最後の踊り場を曲がった先に、重厚な扉が一枚。扉の表面には、古文字で封印の術式が刻まれている。扉の隙間から漏れる気配は、すでにごまかしようがないほど濃密だった。エルヴィンが片手で扉に触れ、ゆっくりと押し開ける。重い金属の軋む音が、地下室に長く尾を引いた。
◇◇◇
扉の奥は、広く、暗かった。
その中心に――それはいた。
巨大な黒い獣。
狼のような見た目だが、その大きさは狼の三倍ほどはあるだろうか。毛は乱れ、びりびりと床石に響く低いうなりをあげている。鎖が食い込んだ後肢からは、暗い液体が滴っていた。
――獣は濡れた黒い眼で私を見た。威嚇。そして――何かを必死で堪えている色が、その奥に沈んでいる。
この気配。おそらく、これは――
「アリア、下がれ!」
エルヴィンの声と同時に、獣が跳ねた。鎖が地に落ちる大きな音とともに、影の塊が飛び掛かってくる。
「っ――!」
私の前に、エルヴィンが立ちはだかった。剣で受けるが、質量が違いすぎる。きしむ金属音。飛び散る火花。エルヴィンの身体が押し込まれ、床を滑る。
「お義兄様!」
エルヴィンが体勢を戻すより早く、獣が爪と牙が確実に私の喉を取りにきた。
「――凍てつけ、氷星!」
エルヴィンの左手が、空を裂く。青白い光が飛び、獣の後肢が床ごと凍りついた。しかし獣はなおも、肢を動かそうとする。後肢からは血が流れ、凍った床が軋む。
エルヴィンは静かに剣を掲げた。
「――理を開き、我が誓いを聞け。魔力剣義」
凍てつく冷気が走り、薄い氷が刃を覆った。白い霜が、音もなく降りる。
いけない。
エルヴィンの魔力剣義では、強すぎる。
あの獣は――
「人間です!」
エルヴィンの視線が、私へと走った。刃先が、ほんのわずか迷うように逸れる。――その躊躇を、獣は逃さない。凍りついた床がひび割れ、氷片が散った。鎖の軋む音と同時に、黒い影が跳ぶ。獣が私へと飛んでくる。
「アリア!」「お義兄様!」
エルヴィンが私の前へ滑り込む。獣の牙がエルヴィンの喉元に触れる直前、何かが光った。眩い金光が波紋のように広がり、獣を弾き飛ばす。獣は床に叩きつけられ、身体がのけぞった。
「これは……」
エルヴィンの胸元に光っているもの、それは――私が渡したお守りだった。
お、お守り…!!
ちゃんと効果があったんだ……!!
えらいぞ、大吉!!
そして――光に照らされた獣の瞳に、ひとすじの“理性”が光った。
「……そなたら……は…………エリドゥ……の……」
黒い獣の口から、声がこぼれる。間違いない。この声は――
「ヴァルデル陛下……!」
「虚星の影が……おまえを、喰らう……前に……早く……逃げろ……」
獣の身体がぐにゃりと揺らぎ、やがて人間の姿になった。




