64 無能な妹とエルヴィンの願い
気づけば私は部屋の寝台の端に腰を下ろし、両手を握りしめたまま動けなくなっていた。
どうやって星央殿から帰ってきたのか。思い返そうとしても、胸の奥が重たく沈むだけで、形のある記憶として浮かんでこない。
リュシアンの心配そうな顔だけが浮かんだ。そうだ。私、彼が呼び止めるのを振り切って、強引に部屋に戻ってきてしまったんだ。あの優しい人に、余計な心配をかけたくなかったから。
コツ、と扉が控えめに叩かれる。
「アリア、入ってもいいか」
返事をすると、扉は静かに開いた。エルヴィンが立っていた。風のない部屋なのに、紫の髪がかすかに揺れた気がする。
「……顔色が良くない。リュシアンも心配していた。図書館で、いったい何があった」
彼はまっすぐ私のそばに歩み寄ってきた。
口を開こうとした瞬間、胸の奥で何かがほどけてしまった。
「……図書館が…………母は……私を逃がすために……その力を使って……そして……亡くなってしまったって……」
声が途切れていく。息がうまくできない。
「父は……生きている……でも……どこにいるかは、分からなくて……」
言葉の輪郭が崩れた途端、視界が揺らいだ。次の瞬間にはもう、涙が頬を伝っていた。
「っ……ごめんなさい……」
その言葉を言い終わる前に、エルヴィンの腕が私を包んだ。
「謝らなくていい、アリア」
胸元に額が触れ、彼の温度がすぐそばにあった。
「我慢せずとも良い」
耳元で囁かれた声は、静かで、深くて、心の奥で響く音のようだった。胸に頬を押しつけたまま、私は子どものように泣いてしまった。堰が切れたように涙が止まらない。息ができないほどしゃくりあげ、涙はあとからあとから溢れてくる。
どれほど泣いたのだろう。呼吸が整いはじめても、エルヴィンは私の背をゆるやかに撫で続けていた。やがて、静かな声が落ちる。
「……おまえの母のことは残念だった。だが、母親は、おまえを護るために自らの力を使った。きっと、おまえを深く愛していたのだろう」
その一言で、また涙がこぼれそうになった。けれど、それは、悲しみとは違う温度だった。
「おまえの父は、どこかで生きている。それなら――必ず、見つけよう」
その言葉が、胸の奥に落ちて、溶けて、広がった。
私はそっと顔を上げた。エルヴィンの胸に、私の涙の跡が薄く染みていた。
「お義兄様、ありがとうございます」
エルヴィンは、何も答えない。ただ黙って私を見ていた。
「……図書館で、手がかりが掴めて良かったです。……きっと父も、見つけられます」
私は願望をこめて、微笑んだ。でも、上手く笑えていない事も分かっていた。
彼の腕が、ぎゅっともう一度私を抱きしめた。鼓動が重なってしまいそうなほど。でも、嫌ではない。彼の薫りと体温に包まれて、胸のあたりがほどけていく。深い海の底へ沈み、ゆらゆらと揺られているような心地よさ。思わず、息を吐くと、——いっそう強く抱きしめられた。
「……お義兄様……」
「義兄ではない」
エルヴィンは腕をゆるめ、私の顎をすくった。視線が絡む。いつもの穏やかさの奥に、いつか見た獣のような鋭い光が宿っていた。息の間合いすら計られるように、彼の顔がゆっくり近づいてきて、唇がわずかに開き——
た、食べられる!!
そう思った、その瞬間。
ぐう~
エルヴィンの動きが、ぴたりと止まった。
……え。今の、私のお腹。
違うんです!禁書図書館のせいで昼もろくに食べられなかったんです!淑女としてあるまじき音色を腹から奏でた件は反省しますけど、こちらにも事情というものがありましてですね……!
「おまえは、まったく……」
くつくつ、とエルヴィンが笑う。堪えきれないらしく、肩まで少し揺れている。
「……あの、お義兄様。これにはいろんな事情が……!」
「ああ、分かっている。宮殿の者に、何か用意させよう」
まだ笑みを残したまま、彼は寝台から立ち上がると、素早く私の額に口づけを落とした。
「少し、元気になったな」
微笑を浮かべて、静かに私の部屋をあとを去ってゆく。
心臓がどくどくと脈打って、ようやく気づく。
いま、額にキス……されたよね?
熱を隠すように、私は枕に顔を埋めた。




