62 夜の獣とアレクセイ
謁見の間は、肌に触れる空気までも冷ややかで、静けさを保っていた。
神聖皇帝ヴァルデル=エウセビウス=コリュス。
年は若いのに、“完成された彫像”のような整い方をしている。漆黒の髪には、青銀の刺繍が施された装束がよく映え、線の整った顔立ちは、見目だけでいえば文句のつけようがない。しかし、その黒の瞳には、どこか疲れが見えていた。
始皇帝が兄弟同士って聞いたせいか、ヴァルデル陛下は、アレクセイに似てるような気がする。年もアレクセイと同じぐらいかな?この年で皇帝になるって、前の王様は、随分若くして亡くなられたんだ。
アレクセイが一歩前へ進む。
「ヴァルデル陛下。六百年の縁を持つ始祖兄弟の末裔として、今ふたたびお目にかかれますことを、懐かしく、また喜ばしく存じます。文化と芸術の交流を願い、エリドゥ帝国より参りました」
ヴァルデル陛下は小さく頷き、穏やかな声を返した。
「遠路の訪問、よくぞ来てくれた。同じ黒曜星を抱く者同士、古き縁にまつわる道を開くのは、良きことである」
声音は柔らかい。それなのに、その響きの奥に、ふと影が差すような気配が混じった。胸の奥が、ごく浅くざわつく。夢蝕病のとき、虚星の気配に触れたあのとき――冷たく澄んだ闇に似た“匂い”が、かすかに混じっている。
その瞬間、ヴァルデル陛下の視線がわずかにこちらをかすめた。
気のせいじゃない。いま、確かに陛下が私を見た。まさか……黎明星の乙女ってバレた?
しかし、陛下は表情を変えず、すぐに侍従へと目を戻した。
「まずは、旅の疲れを癒されよ」
よ、良かった。もしバレてたら、身分詐称の罪で処分でしたよね、……自分が結構な綱渡りをしているんだと、今さらながら気づいてしまった。気を引き締めていかなくては……。
◇◇◇
宮殿の迎賓区は、白を基調とした簡素な造りだった。
余計な装飾はほとんどなく、どこか修道院めいた禁欲さがある。
部屋割りの段階で、エルヴィンとアレクセイの間で、ささやかな攻防があったんだけど、結局、表向きの設定どおり、私はお付きの侍女ということで、アレクセイの隣に。エルヴィンたち三人は、そこから少し離れた部屋になった。エルヴィンは、あんまり納得してなかったけど……
部屋の案内を終えた侍従が、静かな口調で告げた。
「夜間、外廊や中庭へはお出になりませぬよう。魔の獣が現れることがございます」
「宮殿内に……?」
無意識に声が小さくなる。
侍従は返答を選ぶように一瞬だけ黙り――やがて、柔らかな笑みを残し去って行った。
「……ご安心ください。陛下の加護のもと、危険は及びません」
エルヴィンが低く言う。
「アリア。決して一人で行動するな」
いつもの落ち着いた声音に、わずかな鋭さが滲んでいる。
「……はい」
「不思議です。宮殿内の星脈の流れが弱っていますね」
窓辺に目をやったまま、リュシアンがぽつりと呟く。
「皇家直系であるヴァルデル陛下からも、強い魔力を感じませんでした」
アレクセイも、廊下の先へ視線を送る。
「確かに、光がやせている。“夜に獣が出る”と言われれば、信じざるを得ないな」
……やっぱり、この国、何かある。胸の奥のざわつきは消えないまま、灯が落とされた。
◇◇◇
夜中、なぜかふと目が覚めてしまった。
星でも見て気分転換しようと、窓辺へと足を運ぶ。月の淡い光が庭園の円柱を照らし、静かな影を伸ばしていた。絵に描いたように穏やかな景色なのに、胸の奥だけが妙に重たい。理由は分からない。ただ、落ち着かない。
そのとき――。
グルルルル……。
低く湿った獣の声が、遥か遠くから響いてきた。
風の音、じゃないよね。これは、どう聞いても生き物の声だ。しかも、かなり大きい。……これが、例の魔の獣?初日の夜に早速出るとか、私の運悪すぎじゃない?お守りの効果、全然ないじゃない!笑い飛ばそうとしたけど、どうにも喉がうまく動いてくれなかった。
声は、少しずつ、確実に近づいている。背筋が強張り、素足が冷たい床に貼りつく。慌てて窓を閉め、深呼吸を試みるが、胸のこわばりは強くなるばかりだ。
グオオオオオ……。
今度ははっきりと聞こえた。すぐ近くに、いる。獣は、外壁沿いを巡っているのか、それとも中庭を歩いているのか。想像したくないのに、頭の中で勝手に映像が作られていく。
怖い。怖い。どうしよう。誰か。
窓から離れようと一歩踏み出した瞬間、足がもつれた。尻餅をつき、床に鈍い音が響く。
「アリア!大丈夫か!」
壁の向こうから、アレクセイの声がした。
声が出ない――。その瞬間、コネクティングルームの扉が乱暴に開かれた。アレクセイが荒い息で、こちらへと走ってくる。
「無事か!」
アレクセイが駆け寄り、床に落ちた私の身体を、抱き上げる。私は思わず、その首に手をまわし、抱きついていた。
「アレクセイ……!」
アレクセイは一瞬固まったが、すぐに私を強く抱きしめる。
「大丈夫だ。私がいる」
その瞬間――ふわりと、金色の光が私たち二人の胸にともった。……淡く優しい、黎明星の光。でも、なぜ今……?不思議に思っていると、外から響いていた獣の唸り声が、引いていく。――やがて、沈黙が夜の闇に戻ってきた。
アレクセイが、窓の外に視線を向けた。
「黎明星の光が、魔を退けた……か」
そう呟いてから、そっと私を寝台の端へ降ろす。もう大丈夫、そう思うのに体が固まって動けない。うまく指がほどけずにいると、アレクセイが、私の指を一つ一つ広げ、手を優しく外す。
怖かった。地の底から響いてくるような声だった。魔の獣……。いったい、あれは。
「アリア」
不意に、真面目な声音でアレクセイが私の名を呼んだ。
「……はい?」
「もう少し――慎みを持ったほうが良いな」
「え――っ!」
そこでようやく、自分の格好を思い出した。薄手の夜着一枚。上に何も羽織っていない。さっきまでお姫様抱っこ状態でしがみついていたのは、この格好だ。顔から火が出そうになり、慌てて胸元を押さえる。
「ア、アレクセイ……殿下っ……!」
お、乙女の純情を……!私は涙目になって、抗議した。
しかし、アレクセイは、平然と部屋の隅から大量の毛布を持ってくると次々と私に重ねた。
「私は自室へ戻る。風邪を引かぬようにな」
最後は、どこか兄のような物言いになっている。
「何かあれば、呼べ」
「お、おやすみなさいませ……」
アレクセイは軽く頷くと、コネクティングルームの扉を静かに閉じた。
……びっくりした。恥ずかしさで胃のあたりがきりきりする。でも、アレクセイは最初から最後まで落ち着いてた。もしかして――恥ずかしがってたのって、私だけ? 自意識過剰だった……?そうだよね。アレクセイにとっては、私の夜着姿なんて、そこらへんの植木鉢と一緒のはず。
そう思っていると、隣の部屋で大きな音とともに何かが派手に転がる音がした。
読んでいただきありがとうございます。
次回はリュシアンとアリアが、とある場所へ。
しばらくの間、毎日更新しております。




