61 無能な妹と氷の熱
「殿下、無事の到着、なによりでございます」
転移先の魔導陣で待っていた近衛騎士が、膝を折った。
ここはエリドゥ帝国の最東端――すぐ先には、白い石で築かれた境界門が見える。その向こうがセレスティア神聖国。空の色まで、ほんのわずかに青みを帯びて違って見えるのだから不思議だ。
近衛騎士の先導で境界門を越えると、セレスティアの神官騎士団が整然と並んでいた。列の先頭に立つ神官騎士が、整った所作で一礼する。
「エリドゥ帝国使節団の皆さま、ようこそお越しくださいました。形式的なものでございますが、我が国の慣わしとして、客人に解呪の儀を行います。悪いものでなくても、何らかの魔導がかかっていると、すべて解けてしまいますが、どうぞご了承ください」
アレクセイが頷くと、神官騎士が片手を掲げる。境界門の白い石に刻まれた紋様が淡く発光し、薄い光が霧のように地面を滑って、こちらへ寄せてきた。光は足元から、膝へ、腰へ――衣服の繊維をすり抜けて、肌の上を撫でる。
ん?そういえば……私、リュシアンの魔力で髪と眼の色を変えてるけど、大丈夫なのかな。侍女の髪色がいきなり金から紫に変わったら、さすがに怪しくないか?
その瞬間、横に立つエルヴィンが、外套の裾をほんのわずか引き、私の膝元を影で覆った。外套の陰で、指にそわりとした感触がする。彼の手が私の手を探り当て、するり、と指が絡め取られた。
ん?なんでまた急に手を…?しかも、これは――恋人つなぎってやつでは。
と、彼の指先から、薄く糸のような魔力が流れてきた。耳の奥で、何かの流れが鈍る音がする。これは……エルヴィンの氷星の力だ。私の周りだけ、解呪の流れが“停滞”している。そっか、解呪除けのために仕方なく手を繋いだだけだったのね。一瞬あせってしまった。早とちり、良くない。
エルヴィンは涼しい顔で前を見たまま、私の手を離さない。解呪の光は私たちをすり抜けると、何事もなかったかのように淡く薄まり、境界門の紋様へと還って消えた。
良かった。さすが、完璧義兄。これで、いろいろバレずにすみました。ありがとうございます。ほっとしてエルヴィンを見たが、彼は相変わらず素知らぬ顔をしていた。
◇◇◇
私たちを運ぶのは、神聖国の滑走舟と呼ばれる小さな舟だった。光を受けて淡く浮き上がったように走り、石畳の道路をすべるように進む。馬車とはまったく違う静かさと軽やかさがあった。
広い船室の窓から見えるのは――壊れた円柱、苔むした階段、半分だけ残ったアーチ。まるで古代遺跡がそのまま街の一部として生きているようだった。
「遺跡がそのまま……」
思わず小さく呟くと、斜め前に座っていたミハイルが微笑んだ。
「セレスティアは古い時代の記憶をあえて残しているのだそうです。壊れた柱にも、かつての祈りが宿ると考えられていて」
遺跡だけど、廃墟ではない。この国で今も息づく信仰の気配を感じた。
「……素敵ですね」
素敵、素敵なんだけど……なんでエルヴィンは、あれからずっと、私と手をつないだままなんだろう。もうとっくに、解呪の儀は終わったよね。今のこれは、いったい何のため。
「お義兄様——」
「義兄ではない」
そうだった、お義兄様じゃなかった。私は今回の旅ではアレクセイお付きの侍女の“サラサ”という設定だった。だから着てるのも、今回のために誂えた侍女服なのよね。でも、この侍女服、悪意を感じるほどに、もっさりしたデザインなんだけど。いったい、誰が用意したんだ……。
「失礼しました。公爵様。これは舟酔い対策ですか?」
「違う」
えっ。じゃあ、なんで?
もう、繋いでる必要ないよね?
私は、なんとかして指を離そうとした。けれど、エルヴィンは私の指の動きに、ほんのわずか手の角度を変えて応える。そして、指をさらに深く絡めてくる。
外套の陰で行われる攻防戦に、抗議の気持ちを込めて彼を睨むと、エルヴィンは片手で頬杖をついていた。その眼は、私に向けて光っていた。まるで、獣が静かに獲物に狙いを定めたかのように。
こっ…これは、久々の氷刃公モードじゃない!?なんで!?私、何か粗相しました!?……いや、侍女としては、今のところ何のお役にも立ってないから、粗相しかないのか。すみません。無能な義妹改め、無能な侍女のサラサです。
脳内がぐるぐるしている間も、エルヴィンは私を見つめている。いたたまれなくて、眼をそらす。少しおいて、横目でちらりと見ると、彼の瞳に深い熱がこもっているのに気づいた。……氷刃公なんかじゃない。むしろ、逆だ。彼の熱がうつったかのように、頬が熱くなった。そんな私を見て、彼は口元をわずかに綻ばせた。
……いま、笑った?笑ったよね!なんか満足そうに笑ってたよ!でも、何に満足したんだ?あまり見たことのない義兄の表情に、頭の中がはてなマークでいっぱいになってゆく。
「サラサ、知っているか?」
目の前のアレクセイが、ふいに言葉を落とした。
「え? な、何でしょう……侍女の私にお話を……?」
「侍女でも、知っておいて損はない」
アレクセイは私の方を見ると、ゆるい笑みを浮かべた。
「エリドゥとセレスティアの建国は、ともに今から六百年前。なぜ同じ時期か……わかるか?我らの始皇帝と、この国の始皇帝が“兄弟”だったからだ」
「……兄弟、ですか?」
あまりに自然に告げられたので、思わず顔を上げてしまう。
アレクセイは静かに続けた。
「二つの国は、兄弟がともに在位した頃、光を扱い、星を読み、協力して栄えた。だが時を経るごとに思想が離れ、三百年前、聖女オリアをめぐる争いを境に国交を断った」
横でリュシアンが小さく頷く。
「以降、聖女はどちらの国にも出現していません。しかし聖女オリア以前は、どちらの国にも聖女が複数存在していたのです」
「なぜ、そんなことに……?」
「…その謎を、私もこの旅で解き明かせないかと思っているのです」
やがて舟は、小高い丘を抜け、街の中心へと出た。目の前に広がっていたのは、白大理石の巨大な円柱と、天蓋のドームを戴く宮殿。
壮麗で静謐で、美しい。でも、なんだか少し怖い。何か得体の知れないものが、石の奥でうごめいているような気配。魂に直接触れられているような、ざわりとした感覚が広がった。
ここ、絶対何か、いる。
その瞬間――エルヴィンが私の手を強く握りしめた。温かくて、優しい。さっきは少し怖いと思った彼の熱に、今度は安心している自分がいた。
滑走舟が、階段脇の小さな停泊台に音もなく停まった。
下船準備が始まると、エルヴィンの手が名残惜しそうにほどける。指の絡みが解けた瞬間、掌が妙に軽くなった。その軽さに、少しの寂しさを覚えたことに――私は遅れて気づいた。
エルヴィンは、このまま突き進むんでしょうか。
次回、宮殿で何やら怪しげな気配。




