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59 執事クラウスの坊ちゃま観察日誌

クラウス、七十歳。

職業、執事。

趣味、筋トレ。

昼の間、いかに忙しく立ち回ろうとも、その日の最後にこの日誌を開くときだけは、いつも同じ静けさが戻ってまいります。


ペン先が紙を擦る小さな音、インクの匂い――それだけで、私の心は落ち着くのでございます。


申し遅れました。私は執事のクラウスと申します。先代公爵様の代より、アザル家にお仕えしております。坊ちゃま――エルヴィン様のことは、襁褓(おしめ)がとれぬ頃より見ております。あのお方が、どれほど早く“公爵”にならねばならなかったかも。


ご両親が急逝されてから、坊ちゃまは泣く暇すら与えられませんでした。嘆きは胸の内へ押し込み、弱さは誰にも見せず、ただ――強くあろうとなさった。剣と責務と規律で身を固め、いつしか人は、坊ちゃまを氷刃公と呼ぶようになりました。しかし、私は知っております。あの方は冷たいのではございません。ただ、公爵としての責務を果たされようとしただけなのです。


さて。私がこうして夜な夜な記すのは記録ではございません。むしろ、封印でございます。


執事は、知り得たことを決して外へ漏らしません。屋敷の壁が聞いた言葉も、扉が見た背中も、灯りが照らした表情も――すべては主君のものでございます。私はそれを預かる者であり、語る者ではございません。


けれど、人の心は時に厄介でございます。一人の胸の内にしまい込むには難しい出来事がございます。それを誰かに伝えたくなる夜がございます。


もちろん、私は伝えません。伝えてはならないのでございます。だから私は、この日誌を開きます。誰にも渡らぬ言葉として、紙にだけ落とし、鍵をかけ、秘密を封じる。誰かに伝える代わりに、書きつけるのでございます。執事は、必要なものだけを整え、必要なものだけを預かるのが身の上でございますから。


───────

第四の月 十五日 晴れ


この日は、朝からアリア様のご様子が、少し違っておりました。顔色も良く、姿勢も崩れず、身だしなみも完璧でございます。けれど視線がふと遠くへ行っている。どこか、心、ここにあらずでいらっしゃいました。


前の晩は、アリア様の快気祝い――灯りが戻り、笑い声が響いた晴れやかな日でございました。祝いの余韻に疲れが追いついてきたのか、と私は気を揉んでおりました。


一方の坊ちゃまは、どこか晴れやかでいらっしゃいました。いつも通りの冷静な顔をして、いつも通りの声で侍女に指示を出されます。ただ、歩みが軽うございます。指先の動きに迷いがございません。そして、視線が――ほんの僅かですが、柔らかい。……長年仕えておりますと、それだけで十分でございます。


朝食の席は、いつも通り整えてございました。私は給仕の間合いを見計らい、いつものようにアリア様に尋ねました。

「卵は、いかが致しましょう」

半熟、固ゆで、ポーチド、オムレツ――好みは日によって微妙に変わります。これも侍女と執事の仕事のうちでございます。


いつもなら、アリア様ははきはきと答えられます。陽光のように明るいお声で。しかし今朝は、返事をなさいませんでした。いえ、聞こえていないのではございません。意識が別の場所へ行ってしまったようなお顔をしていらっしゃいました。


そのとき――坊ちゃまが、自然に口を開かれました。

「半熟。塩は控えめ。焼き目は薄く。添える香草は少なめに。黄身は崩さず、パンは温かいものを」

淡々と、当たり前のことのように。まるで、最初からその役目がご自分のものであったかのように。


私はその言葉に、深く感銘を受けました。坊ちゃまが、アリア様の好みをこれほど正確に把握していらっしゃる。しかも、アリア様が言葉を失った瞬間に、迷いなく代わりに言える。それは単なる気遣いではございません。日々の小さな変化を見逃さず、積み重ね、記憶している者の愛の証左でございました。


───────

第四の月 十六日 曇り


先日の帝国舞踏会以来、公爵邸には坊ちゃまへの縁談の書状が、日に日に届くようになりました。


あの夜、坊ちゃまが一人の女性に微笑まれ、手を取り、踊られた。冷酷にして隙のない氷刃公。その氷が、溶けた――そう受け取られたのでしょう。その解釈が、噂となり、書状となり、釣り書きとなって、雪崩のように押し寄せてきたのでございます。


私は執事として、それらを整え、報告の用意を致しました。しかし坊ちゃまは、積み上げられた手紙の束を一瞥なさると、それ以上目を落とされることなく、おっしゃいました。


「……すべて処分しろ」


声は低く、そこに感情の揺れは一つもございませんでした。そうして、そのまま部屋を後にされたのです。向かわれた先が、どこであったか――申すまでもございません。


私はその背を見送りながら、ふと、昔のことを思い出しておりました。


坊ちゃまは、社交界に出られた十代の頃より舞踏会や社交の場を好まれませんでした。公爵として必要とあらば姿を見せられますが、長居はなさらない。それでも一度現れれば、その美貌と気品ゆえ、御令嬢方が自然と集まってこられます。


けれど――坊ちゃまご本人は、まるで関心を示されなかった。エスコートやダンスを願われても、丁寧ながらも距離を保ち、必要以上に視線を合わせることもなさらない。その様子を見て、私は長らく思っておりました。坊ちゃまは、女性や恋愛というものに、まったく興味がないお方なのだと。


……ですが、それは違っていたのでございます。


アリア様がこの屋敷に来られてから、坊ちゃまは変わられました。いえ、変わったというより――坊ちゃまに、こうした面があったのだと、私がようやく知った、という方が正しいのでしょう。


誰か一人の歩みに自然と目が向き、声の調子に耳を澄ませる。何気ない一言に心を揺らし、沈黙の意味を考え込む。視線が、縫い留められたかのように、たったひとりに集まっていく。


その変化に、坊ちゃまご自身も、どこか戸惑っておられるようでございました。けれど私は、そのことが、ただただ嬉しゅうございました。長年お仕えしてきた坊ちゃまが、ようやく人としての熱を宿されたのですから。


───────

第四の月 十七日 晴れ時々曇り


この日、坊ちゃまはセレスティア神聖国へ旅立つ準備を進めてらっしゃいました。旅程、護衛、通行証、衣装、薬、魔導具。けれど坊ちゃまが最も思案しておられたのは、荷の中身ではございませんでした。アリア様のことでございました。


坊ちゃまは、侍女のサラサを呼びつけ、指示を重ねられます。

「髪はまとめて、光る飾りは避けろ。服は、地味な色を。いや、侍女服で良い。袖は長く、胸元は閉じろ。外套は深く厚いものを」


サラサは完璧に頷き、完璧にやり遂げます。手際よく、淡々と、しかし愛情深く。長年の侍女の腕前とは、こういうものなのでございましょう。


……しかし、完成したアリア様は、やはり眩しゅうございました。坊ちゃまは深い深いため息をおつきになりました。


アリア様は不思議なお方です。公爵邸にお迎えするにあたり、私はアリア様が庶民の出であると、淑女として教育が必要であると聞いておりました。しかし、来た当初からアリア様には、生まれながらの品位が備わっていらっしゃいました。立ち居振る舞いは淑女のそれ。瞬く間に公爵家に馴染まれたのも、当然のことと言えましょう。


───────

第四の月 二十日 晴れ


坊ちゃまは、明日からアリア様とセレスティアへ立たれます。


この日の午後、庭のガゼボでお二人がいつものお茶会を開いておいででございました。坊ちゃまがアリア様を見る眼差しは、本当に柔らかうございました。


その光景に、私は胸の内で手を合わせたのでございます。

――どうか、このまま、お二人が穏やかに過ごせますように。


そのときでございました。坊ちゃまが、アリア様の髪に口づけを落とされたのです。アリア様は驚いて、目を丸くなさって、少し顔を赤らめられました。拒んではおられません。坊ちゃまはその様子を見て、なお一層嬉しそうに笑われました。


私は、見ないふりをいたしました。それもまた執事の役目でございます。そして咳払い一つせず、静かに、踵を返しました。その後の事は私は存じません。


坊ちゃまは今、ご自分が真に求めるものを、自覚されつつあるのでございましょう。しかし、それはきっと、公爵としての責務とは別の道理にあるものでございます。


坊ちゃまの進まれる道が、いかに重く酷なものであったとしても、私は屋敷の部品の一つとしてそれを黙って見守るのみでございます。


クラウスの日誌にある「晴れ」「雨」というのは

天気ではなく、エルヴィンの機嫌のことでした。


次回からみんなでセレスティアへ。

エルヴィンが勢いづいておりまして、しばしの間、毎日更新します。

もしよければ、どうぞお付き合いください。

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