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58 氷刃公の渇望

とうとう、言葉にしてしまった。

胸の内へ押し込め、名を与えぬまま育て、なお黙らせ続けてきたものを。


自らの最愛が去ったばかりの執務室で、エルヴィンは一人、その熱を冷ますように立ち尽くしていた。


夜の執務室は、書類の匂いも、蝋の匂いも、インクの乾く気配も、いつも通りだ。

――なのに、空気がどこか違っているように彼には感じられた。


喉の奥には、先ほどまでの熱が残っている。今夜、自分が放った言葉は、彼女の世界を揺らしただろう。義兄だと、家族だと思っていた者から、愛の言葉を受ける。それが、これまで積み重ねてきた信頼を裏切る行為であることは、痛いほど分かっていた。


それなのに、彼の内側は奇妙に軽かった。危うさが消えたわけではない。求める答えが空白のまま明日を迎えるのは、刃の上を歩くようなものだ。だが、長く隠し続けてきたものを、つまびらかにした瞬間、息すら軽やかになった。


――愛している。


――どうか、嫌いにならないでくれ。


どちらも、あまりに不格好だった。一人の男の、整理しきれない胸の内を、ただ吐くように出された言葉。それでも、言わずに終えるよりはましだと彼は知っていた。彼女が眠りから戻らないかもしれないと思ったあの夜以来、黙っていることは、耐えがたい罪のように感じられた。


「……アリア」


名を呼べば、届く気がした。届かないと知っているのに。


◇◇◇


翌朝。朝食の席は、いつも通り整っていた。

銀器の位置、紅茶の香り、焼き立てのパン。整いきった食卓が、揺れる心を受け止める。


エルヴィンは向かいのアリアを見た。顔色は悪くない。姿勢も崩れていない。髪も美しくまとめられている。――なのに、目の焦点がときどき遠い。昨夜の執務室に、まだ心が触れているのだろう。


その事実に、痛みより先に静かな安堵が落ちた。揺れているということは、彼女が昨夜を“なかったこと”にしていないということだ。そのことを、愛しく思ってしまった。


給仕が問うた。

「アリア様、卵は、いかが致しましょう」


アリアは瞬きをして唇を開きかけるが、言葉が出てこない。音にならない。


エルヴィンは、思わず口を開いた。

「半熟。塩は控えめに」


それだけで止まるはずだった。だが、言葉が続く。

「焼き目は薄く。香草は少なめでいい。黄身は崩さず――パンは温かいものを」


淡々とした指示の形を借りている。けれど、内側では別のことをしていると彼自身が分かっていた。差し出しているのは、自分の想いだ。告白した夜から、隠す努力をやめた瞬間から、彼女への愛おしさが抑えきれなくなっている。


アリアがこちらを見た。その目には、困惑と疲れが滲んでいた。

「……すみません」


エルヴィンは短く否定した。

「謝ることではない」


謝るのはむしろ、こちらの方だ。彼女の心を乱した。昨夜の言葉で、彼女の小さな安心の世界を壊してしまった。それなのに、彼女の声が少しだけ上ずるのを聞いた瞬間、胸の奥に微かな欲が差し込む。自分の言葉が彼女の心を悩ませている。そのことを嬉しいと思ってしまった。まったく底意地が悪い、と自嘲が遅れてやってくる。


アリアは紅茶に手を伸ばし、誤魔化すように小さく笑った。

朝食が終わるころ、彼女は普段通りに立ち上がる。礼を整え、静かに席を辞した。


エルヴィンは彼女を追わない。追わないと決めている。

――だが、眼は追ってしまう。薄紫の光が部屋を出ていくまで。


深い息が落ちた。彼がそれを自分のものだと意識したのは、その少し後だった。


◇◇◇


執務室でアリアと話した数日後。


エルヴィンは、庭にあるガゼボへと向かっていた。

空は、憎らしいほどに青い。


セレスティアへ行くというアリアの選択に、今、屋敷総出で準備が進んでいる。旅程、護衛、通行の段取り。整えるべきものは尽きない。心配事は多い。だが、家族の安否を知りたいという彼女の望みだけは、迷いなく守りたいと思えた。


もし両親が見つかれば――。その先へ思考が伸びかけ、エルヴィンは振り切る。都合の良い想像に足を取られるのは早い。それでも、未来の彼女の隣に自分を置きたくなる欲は、以前よりずっと露わになっている。


ガゼボは、いつも通りそこにあった。白い柱と淡い布陰。花の香り。湯気の立つ茶器。週に一度の二人きりのお茶会。旅立つ準備で忙しいだろうに、アリアは律儀にこの時間を欠かさない。エルヴィンは、それが当然というように、アリアのすぐ隣に座った。少しの緊張をはらんだ沈黙が流れる。


紅茶の縁を指でなぞりながら、アリアが静かに息を吐いた。

「……あの、お義兄様の言葉、ずっと考えていたんです。受け取ったまま放っておくのも、違う気がして。でも――」


「受け取ってくれただけでいい。今はまだ」

エルヴィンは、アリアの言葉を遮るように短く答えた。


そう。今はまだ答えなくてもいい。むしろ――答えを聞くのが恐ろしい。彼は、自分の手がわずかに震えているのが分かった。それを隠そうとして、紅茶に手をのばす。


「いえ、あの……、私、これだけは伝えておきたくて。…私は、あの夜のことで、お義兄様のことを嫌いになったりは、していませんわ……」


その言葉は、彼の心臓を正確に撃ちぬいた。安堵と、それを上回る喜びが一気に全身に広がる。少なくとも、彼女の隣にいることは許された。自分は、拒まれてはいない。エルヴィンは自分の口元が緩んでいるのが分かった。その顔を見られたくないと思い、とっさに下を向く。


「……そうか」


気づかれないように浅く呼吸し、冷静な顔を作ってから顔を上げる。そのとき、ふとやってきた風が彼女の髪を揺らすのが見えた。木漏れ日が薄紫へ落ちる。自分の欲する光が、今は“触れられる距離”にあることに、気づいてしまった。


突き動かされるように、エルヴィンはアリアに手を伸ばした。頬にふれそうになって、誤魔化すように髪をひと房すくう。指先にするりとした感触が乗り、胸に熱が生まれるのが分かった。たまらず、その髪に短い口づけを落とす。ほんの一瞬。それなのに、長年閉めてきた扉が開いて、自分の感情の全てがこぼれてしまうようだった。


アリアの肩がわずかに強張る。けれど身を引かない。拒まれなかったという事実が、胸の底で静かに膨らみ、歓喜の形を取りかける。だが、ここから先へは、まだ進めない。進んではいけない。エルヴィンは自分を戒め、ゆっくりと身を引いた。


「……すまない、つい」


「……お義兄様……困ります……」

見上げるアリアの頬には紅が差し、視線はわずかに迷っている。


エルヴィンは、彼女の表情にどこか甘さを感じた。自分を男として意識し始めてくれているのではないか。そんな自惚れのような感覚が芽生える。彼女にもっと近づきたい。彼女にもっと触れたい。彼女を――自分のものにしたい。彼はそんな願望を必死に抑え込むと、僅かに残った理性の仮面を被った。


「……おまえに好きになってもらえるよう、私も努力しよう」


自分の放った言葉が、胸の内で火種のように残った。

――そうだ。彼女の心に、義兄ではない私を刻まなければいけない。


遠くで木々のざわめきが聞こえた。

エルヴィンには、それが何かの合図のように思えた。

読んでいただきありがとうございました。

エルヴィンの闇が深まっているような気がします。


本日は二話更新で「執事クラウスの坊ちゃま観察日誌」へと続きます。

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