51 夢とリュシアン 潜行
魔導陣で肉体から魂を分離させた瞬間、重力も、方向も、時間も、あらゆる概念が崩れた。
どこまでも続く白の世界で、ただ一筋の“彼女の魔力の残滓”だけが蜘蛛の糸のように私を導いていた。
「……アリア嬢」
名を呼んでも、その響きは空間に吸い取られるだけだった。私は深く息を吸い、己の精神を可能な限り研ぎ澄ませた。アリア嬢の魔力に含まれる、あの柔らかな光の揺らぎ――その震えだけを道標に。
どれほど歩いただろうか。時間が進んでいるのか、戻っているのかすら曖昧な世界で、ただ一つの“光”を追い続けた。
そして――突然、世界が開けた。
無数の白い花が揺れる平原。空は灰色に濁り、風も音も存在しない。その中心に、彼女はいた。腰ほどの白花の海の中で、アリア嬢は微笑んでいた。しかし、その瞳には、本来あるべき強い光が感じられない。
「アリア嬢……!」
私は駆け寄り、肩へ手を伸ばそうとした。アリア嬢はその手を、そっと避けた。その動きが胸に刺さる。
「どなたか知りませんが、放っておいてください」
声は淡く、空虚な響きだった。
「ミハイル殿下を、助けなくてはいけないの」
「アリア嬢、これは虚星の罠です――」
「違います。殿下は……私を……」
空気が凍るように歪んだ。黒い霧が渦を巻き、花畑を瞬く間に侵食する。空に裂け目が走り、そこからミハイル殿下が、ゆらりと姿を現した。その顔は殿下そのもの。しかし、瞳の奥には“何か別のもの”が潜んでいた。
「アリア。こちらへおいで」
甘く、優しい声だった。不気味なほどに。
「ミハイル殿下……」
アリア嬢が立ち上がり、その影へ歩み寄ろうとする。
私は、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「いけません、アリア嬢!」
「……放してください、殿下が私を必要としているんです」
その瞳は、霧に覆われたように濁っていた。
「アリア、あなたは騙されています。これはミハイル殿下では――」
言い切る前に、黒い霧が爆ぜるように広がった。
「黙れ」
ミハイルの姿をした何者かが、こちらを向いた。深く、冷たく、底知れない囁きが混じっている。
「目障りな星め。アリアは、おまえには渡さない。おまえは、この夢の中で永遠に苦しむのがお似合いだ」
白花の海が消え、代わりに白い靄の中から何者かの姿が現れる。見覚えのある、男女。――あれは、私の父、そして母だ。
父の口元はひきつり、眉間の皺は恐怖に震えていた。
「恐ろしい」「おまえは化け物だ」
その言葉が、剣のように私を刺す。
母は、背を向けている。
「おまえなんて産むんじゃなかった」
その声は氷の破片のように冷たく、胸の奥で鈍く鳴った。
――違う。そんなはずはない。これは夢だ。虚星が見せる幻だ。
白い霧の中から、セレスが現れる。彼は、琥珀の瞳に、冷えた光を宿している。
「先生……あなたは誰からも必要とされていない」
「あなたには、人の心が無いんですね」
感情の欠片すらないような、蔑む眼差し。
「嘘だ……!こんなのは、嘘だ!」
耳を塞いでも、声は止まらない。悪夢は私の記憶の奥底へ牙を立てる。胸を抉るような寒さに、呼吸が乱れる。
ミハイルの影が笑う。
「君は独りぼっちだ。わかっていたことだろう。アリアも、おまえのことを好きにはならない。いくら人間のふりをしようと、君は、化け物なんだから。リュシアン=オルフェウス」
――優秀でいれば、いつか誰かが振り向くとでも思ったのか?
――家族もおまえを選ばなかった。塔も、仲間も、誰もだ
――自分を救うことすらできないくせに、誰を救おうと言うんだ
「やめろ!……やめてくれ!」
このまま、無くなってしまいたい。消えてしまいたい。胸の奥の空洞が、底なしに広がっていく。自分が、霧のように跡形もなく消えていくなら、そのほうが救いに思えた。孤独だけが、私を冷たい腕で抱きすくめてくれる。
そのときだった。
アリア嬢の声が、遠くから聞こえた。
「リュシアン様」
温かな白い光が、闇の底で揺れた。間違うはずもない、アリア嬢の光だ。何もかもを照らす、純粋な光。私がその美しさを忘れるはずがない。私は、その光に焦がれ、“観測し続けて”きたのだから。
私の記憶の中のアリア嬢が、ゆっくりとその姿を現し、私に手を伸ばした。
「リュシアン様、あなたは一人じゃありません」
闇を切り裂くような、澄んだ声。
「今度は、私があなたを護ります」
光が私を包み込み、闇が裂ける。
「……アリア……!」
悪夢の中心に亀裂が走り、そこから、白花の海が再び現れた。
そして、花の中にたたずむアリアが、ゆっくりと顔を上げた。
リュシアンは強すぎる魔力を持って生まれた子でした・・・
次回も、引き続き夢の中。山場をむかえております。




