48 無能な妹は目撃する
ミハイル殿下と別れた後も、胸の奥のざわめきは消えてくれなかった。
……さっきの、なんだったんだろう。ミハイルが夢で見ていたという、私に似た女性の絵。「あなたも」と、囁いた声。思い出すたび、背中を冷たい指でなぞられたみたいにぞくりとする。この違和感は、いったい何なのだろう。
早くエルヴィンを探し出して、相談しなくちゃ。気がつくと、私は星冠宮のはずれ、離宮へと向かう廊下まで来ていた。広間の音楽は遠くに霞み、白い回廊には魔導灯の柔らかな光だけが揺れている。
――そのときだった。
「……いい加減にしろ、エルヴィン」
低く押し殺した声が、静まり返った廊下に漏れた。アレクセイの声だ。
思わず足を止め、声のする方を見る。扉が、ほんの少しだけ開いていた。隙間から、魔導灯の光と、張りつめた気配が滲み出ている。
……入っちゃいけないやつだ、これ。頭では分かっているのに、身体は扉の陰へ、そっと近づいていた。中から、エルヴィンの低い声が返ってくる。
「何が“いい加減にしろ”だ、アレクセイ」
いつもの落ち着いた調子じゃない。少し、荒んでいる。エルヴィンのこんな声、初めて聞いた。
「……アリアを泣かせたのは、他ならぬ、おまえだろう」
アレクセイの声は鋭いのに、妙に感情が乗っていた。
「……分かっている」
「だったら、なぜ黙っている。説明も、謝罪も、誤解を解くこともしない。それで“守っている”つもりか?」
「……!」
椅子が軋む音。続いて、衣擦れと、何かを掴む鈍い音がした。どうして、二人ともこんなに、怒ってるの……?二人を止めに入ることもできず、息をひそめて耳をそばだてる。
「図星だったか」
「黙って聞いていれば、好き勝手を……!」
扉の隙間からそっと覗くと、エルヴィンがアレクセイの胸倉をつかんでいた。アレクセイも片手でエルヴィンの手首をとらえ、睨み返している。
「なんだ、エルヴィン」
アレクセイがあざけ笑うように言う。
「アリアの前では黙っておいて、ここで私にだけ、わめき散らすのか?」
「…………アリアには、言えない」
「なぜだ?」
エルヴィンは、歯を食いしばるように答えた。
「アリアは、私を義兄として信頼している。私が唯一の家族だ。その信頼を――壊したくない」
その横顔は、怖いぐらい真剣だった。
アレクセイはふっと笑う。
「それは、アリアのためか? それとも――自分のためか?」
「……何が言いたい」
「信頼を壊したくないのは、おまえだ。アリアに“義兄”として見られなくなるのが怖いだけだろう」
エルヴィンの手に力がこもった。掴んだ胸倉が、きしりと歪む。
「違う。私は……」
「現実を見ていないのは、おまえの方だ」
アレクセイは、エルヴィンの手を振りほどき、逆にその襟をつかみ返した。
「アリアはそんなに弱くない。このまま、籠の鳥のように愛でるつもりか?それでは皇家と何も変わらん。何も言わず、距離を取り、相手から目を逸らす。それがおまえの“愛”か?」
アレクセイの声音が、ほんの少し低くなった。
「エルヴィン。おまえのしていることは、守るふりをした逃避だ。アリアの未来を思っているようで、実際、守っているのは――自分の恐怖と、罪悪感だ」
エルヴィンの肩がびくりと揺れた。
「……黙れ」
「黙らん。昔からそうだ。自分だけ傷つけばいいと思って黙り込むが、その沈黙で周りを巻き込む。今度はアリアだ。泣かせたくないと言いながら、おまえの沈黙がいちばん、アリアを不安にさせている」
扉越しでも分かるくらい、空気が重くなった。エルヴィンは、ゆっくりと視線を落とした。
「……では、どうすればいい」
かすれた問いだった。氷刃公らしからぬ、ひどく人間らしい声音。
アレクセイは、少しだけ目を和らげる。
「簡単なことだ。自分がどうしたいのかを、アリアに正直に話せ。義兄として、ではない。エルヴィンという一人の男として、な」
「それで……アリアが困ったらどうする」
「困らせろ」
「……は?」
「アリアを解放しろ、エルヴィン。おまえの“兄”という檻からも、おまえ自身の恐怖からもだ」
しん、と空気が凍りつく。
「おまえがいつまでも黙っているなら――アリアの隣に立つのは、この私かもしれんぞ」
冗談めかした口調なのに、まったく冗談に聞こえなかった。
エルヴィンは、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「……それだけは、させない」
それは氷のように冷たく、炎のように激しい声だった。
これ以上聞いてはいけない――なぜだか、そう思った。二人に気づかれないよう、私はそっと後ずさる。回廊に出ると、足が少し震えていた。魔導灯が揺れる天井を仰ぎながら、胸に手を当てる。
エルヴィンは、いつでも冷静で、私はただ守られるばかりで。迷惑ばかりかけていて、だから――「嫌われても仕方ない」そう思っていたのに。私のことを、大事な家族だと思ってくれていたんだ。そして、私を守ろうとしてくれている。
エルヴィンと、ちゃんと話をしよう。
楽団の音が、遠くでまた一曲を告げる。その音に背中を押されるように、私はゆっくりと廊下を歩き出した。
――この夜、エルヴィンに会えなくなるとも知らずに。
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