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39 無能な妹とアレクセイ殿下と夜の庭

晩餐のあと、寝台に身を沈めたものの、どうしても眠れなかった。

胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。アレクセイの「黎明星の乙女を取り込みたい者がいる」という言葉が、何度も脳裏をよぎる。


そうだ。こういう時は、夜空でも見よう。―私は、あちらの世界にいた頃から、夜空を見上げるのが好きだった。星を見ると心が落ち着く。立ち上がって窓を開けると、夜風がひんやりと頬を撫でた。澄んだ空に、星々が瞬いている。けれど、その美しさよりも先に目に入ったのは、庭園の噴水のそばに立つひとりの影だった。


「……アレクセイ、殿下?」

月光に照らされた黒曜の礼服。背筋を伸ばしたその佇まいは、間違いようもなく帝国の第一皇子殿下だった。


私は小さく息を吸い、部屋の外に出る。扉の前には、やはりドゥーニアが立っていた。

「ドゥーニア、外の空気を少し吸ってきます」

「このような夜更けに外に出るのは危険です。おやめください。せめてエルヴィン様にご相談を」

「お義兄様も疲れてらっしゃるし、起こしたくないの。屋敷にも庭園にも警護の者がいるわ。ほんの少しだから、お願い」

「……少しであれば」

ドゥーニアは短く返答すると、私の横を歩きだした。


階段を下りると、夜気が肌を冷たく包む。石畳を踏む音だけが、静まり返った館に響いた。やがて庭園に出ると、星々の光を受けた噴水が淡く輝いていた。その前に立つアレクセイが、私の気配に気づいて振り返る。


アレクセイは手に、小さな白い花を持っていた。

「……そなたか」

「はい。星を見ようと思いまして」


ドゥーニアは、わずかに頭を下げると、距離を取って下がった。噴水の影に溶けるように立ち、目を離さず見守っている。庭園には、私とアレクセイだけが残った。風が木々の葉を揺らし、水面に月が滲む。


「殿下は、星を見るのがお好きなのですか?」

そう尋ねると、アレクセイはゆっくりと夜空を仰いだ。

「昔からだ。……小さな頃は、母とこの庭で星を眺めた。風邪をひくからと、ものすごい厚着をさせられてな」

「お優しい方だったのですね」

「――それも、ほんの短い間だったがな」

アレクセイは、手に持った花を見つめて言う。その声は静かで、遠い記憶をたどるようだった。


「母は優しく強い人だった。……後継争いで、子どもだった私に向けられた毒杯を代わりに飲み干したのだ。私は、母が長患いの末、苦しみ亡くなっていくのを、今日の、あの子どものようにただ見ていることしかできなかった。私のせいで、母は亡くなったのだ」


アレクセイはゆっくりとこちらに視線を戻した。黒髪のゆるい波がそっと揺れた。黒曜の瞳に月光が溶けている。


「おまえが医術院であの子どもの親の命をつなぎとめたとき、あの頃の自分が、どこか救われた気がした。……そんなはずはないのにな」


その言葉が、夜風の中で胸に染みていく。この人は、母の死を、自分のせいだとずっと責めて生きてきたんだ。医術院での、どこか寂しそうなアレクセイの顔を思い出して、胸が痛くなった。


「殿下、お母さまが亡くなったのは殿下のせいなどではありません。悪いのは毒を盛った者ですわ。ご自分を責めないで、赦してあげてください。きっとお母さまも、そう望んでいるはずです」

「あの時も、あまたの大人が慰めのつもりでそんな言葉を投げかけてくれた」


慰めなんかじゃない。これは、アレクセイがこれからどう生きていくかの問題だ。


思わず、その手をとり、強く握って言う。


「殿下、殿下は今、生きています。大事な人を喪って、それでもあなたは生きている。生きている限り、お母さまがくれた愛を、殿下は他の人に返していくことができます。現に今、こうして夢蝕病の人々を救おうとなさっているではありませんか。あなたはもう十分苦しんだ。過去への後悔に囚われるのはやめて、私たちのいる今を、ともに生きてください」


アレクセイは、まるで胸の奥を突かれたように黙り込んだ。そして――

「……不思議だな。そなたに言われると、そうしなければならない気がする。……今を、共に生きる、か」


彼は夜空を見上げた。月光がその横顔を照らし、静かに微笑が浮かぶ。

「アリア。そなたは本当に、私の焦がれた聖女そのものだな」

「私が、ですか?」

「そなたは、おのれの心に正直にあろうとし、自らの命を削ってでも、誰かを救おうとする。それがどれほど愚かで、危うい行為であっても……私には、それがまぶしく見える」


「わたくしはそんな崇高な存在ではありません。力の無い、ただの一人の人間です」

「前も、そのようなことを言っていたな」


さっきから、彼の指先が左耳の黄金のカフにそっと触れている。私は、大事なことに気づいた気がして、思わず、アレクセイに顔を近づけた。


「殿下、気づいておられますか?」

「……何をだ」

「殿下は、本音を言うとき、いつもその耳飾りを触っておいでです」

思わず少し得意げにそう告げると、アレクセイは一瞬、目を瞬かせた。

「……そうだったか?」

「ふふふ。帝国の気高き黒曜星(オブシディアン)にも、可愛らしいところがおありなのですね」

「……何を急に言い出すかと思えば……」

アレクセイの目がわずかに揺れ、頬に薄紅が差す。

やがて、小さく息を吐き「困った乙女だ」と小さく呟いた。

「ほんとうに――エルヴィンが、そなたを手放したがらないのがよくわかる」


そして――再び左耳のカフに触れた。

「アリア・アザル――黎明星の乙女よ。そなたが力を欲するなら、私が助けになろう」


アレクセイが、片膝をついた。

その仕草は、古い時代の騎士が主に誓う儀のように厳粛だった。

ドゥーニアは、苦労人です……


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