37 無能な妹は、夢蝕病と出遭う 微笑
――誰かが、遠くで呼んでいる。
深い湖の底で、ゆらゆらと揺れる水の中から聞こえてくるような声。
「……アリア!」
その声に引かれるように、私はゆっくりとまぶたを開いた。視界がぼやけ、光と影の境目がにじんで見える。やがて見えてきたのは、こちらを見つめるエルヴィンの姿だった。
彼は私の胸元に手をあてていた。白い指先が微かに震え、そこから、熱い鼓動が伝わってくる。それは私のものではなく――彼のものだった。
「……戻ってきたか」
低く押さえた声。いつもは氷のように落ち着いたその声音が、わずかに掠れている。
「……お義兄様?」
掠れた声で呼ぶと、彼は息を吐き、目を細めた。
「無理に話すな。魔力切れだ。……少し、私のを分けた」
彼の手のひらから伝わるのは、温もりというよりも――生きている熱。まるで、失われかけた命を必死に引き戻そうとするようだった。
「アリア嬢の魔力は安定しました。もう大丈夫でしょう」
背後からリュシアンの声が聞こえた。彼の指先が空をなぞるたび、光の紋が宙に描かれ、柔らかく揺れる。
「回復魔術をかけていますので、しばらく安静にしてくださいね」
「……あの人は?」
ようやく息を吸いながら問いかける。
「脈も呼吸も安定している。おまえの力が、命を救った」
エルヴィンが答えた。
目を移すと、小さな少女がベッドのそばで泣いていた。けれど、その姿は少し落ち着きを取り戻している。イザークが感極まったような目でこちらを見ていた。
「意識は戻っていませんが、危険な状態は脱しました。奇跡です。本当に。――ありがとうございます。黎明星の乙女様」
その言葉を聞きながら、私はぼんやりと天井を見つめた。――奇跡、か。私にもっと力があれば、あの子のお父さんを治せたのかな。でも、最悪の事態は免れたみたいで、本当に良かった。
「アリア、無茶をしないでくれ」
エルヴィンの手が、私の髪をそっと撫でる。
「お前が倒れたとき、私の心臓も止まるかと思った」
「申し訳ありません」
ふと、あたたかな視線を感じて横を向くと、アレクセイが私のほうを静かに見つめていた。
「帝国の民を救ってくれて感謝する。だが、自分の命を危険に晒してまで人を救おうとするとは。――やはり、そなたは愚かだな」
その声は、驚くほどやさしかった。黒曜の瞳の奥に、懐かしげな祈りの光が宿っている。まるで、遠い日の痛みと、今ようやく訪れた安堵を、胸の奥で重ねているように。
「殿下、良かったですね」
なぜだか分からないまま、そんな言葉がこぼれた。
アレクセイは一瞬、目をひらき、左耳の黄金の耳飾りにそっと触れる。
それから、穏やかに口元をゆるめ――「……ああ、そうだな」
その微笑は、どこまでも優しく、少しだけ、悲しかった。
まだまだアレクセイのターンです。
エルヴィンも頑張ってと思いながら書いております




