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35 氷刃公と青い嵐

――七塔連環(セプテントゥリオン)第三塔(アウストル)

帝都騎士団本部の訓練場では、朝靄に濡れた砂地が、騎士たちの足跡で掻き乱されていた。


「そこ、間合いが甘い。――踏み込み一寸、命取りだ。――次!」

低く冷ややかな声が響く。


氷刃公――エルヴィン=ナムタリウス=アザル公爵。

帝国の盾として名高いこの男が、特別教導官として第三塔で帝国騎士団に稽古をつけていた。陽光が届かぬほどの張りつめた空気の中、誰もが息を潜め、彼の一挙手一投足を見つめている。


剣が軋み、冷気が散る。無駄も迷いも、一瞬たりとも存在しない。


「……そこまで」

短い号令で訓練を終える。若い騎士たちが一斉に剣を納め、胸に手を当てて頭を垂れた。冷たい空気の中、ただ彼の呼吸音だけが残る。


「ずいぶん殺気立ってるなぁ、氷刃公様は」

軽やかな声が、訓練場に漂う緊張をふっとほどいた。帝国騎士団副団長――ガレン=ヴォルクが、黒石の柵にもたれてエルヴィンを見ていた。


淡い灰金の髪を無造作に撫でつけ、襟をゆるく開けた姿は、どこか飄々としている。戦場では“青嵐”の名で知られ――嵐のように激しく、風のように軽やかに敵陣を駆ける男。帝国騎士団での修行時代には、エルヴィンに剣を教えた兄弟子でもある。


「……そう見えるなら、私はまだ未熟ということですね」

エルヴィンは短く答え、剣を静かに布で拭った。その動きさえ、無駄がない。


ガレンは苦笑し、頭の後ろで手を組んだ。

「相変わらず真面目すぎるよ。帝都に戻ってきて、さらに硬くなってない?」


「そう見えますか」

「見える。八年ぶりに会ったけど、お前だけ時間が凍ってる気がするよ」


ガレンは少し声を落とし、空を仰いだ。

「……最近、帝都も物騒だよね。聖女の再来だの、虚星だの。僕は詳しいことは知らないけど、大変みたいだし」


その言葉に、エルヴィンの指が一瞬だけ止まる。けれど顔は上げず、淡々と布を折り畳んだ。

「……くだらぬ噂です」

「そっか、ならいいんだけどね」


ガレンは笑って肩をすくめる。

「まあ何か困ったら、いつでもおいで。力になれるとは限らないけど」


エルヴィンは視線をガレンに向けると、表情をゆるめた。

「……稽古の続きはお任せます」


エルヴィンは後ろ髪へ手を伸ばした。戦いの邪魔にならぬよう束ねていた髪をほどき、淡い薄紫色の組み紐を指先で抜き取る。


――その色を見た瞬間、意識はふいに昨夜の馬車の中へ引き戻された。


星冠宮からの帰り道。アリアは彼の肩にもたれ、穏やかに息をしていた。毛布をそっとかけたとき、彼女の髪先が指先をかすめた。淡い星光を含んだその一筋が、夜の欠片のように揺れた。少し遅れて、彼女の香水のほのかな香り。


胸の奥を満たしていった、あのひそやかな幸福。この世界に二人きりで閉じ込められてしまったような、やわらかい静寂――時が止まってしまえばいいと、思わず願ってしまったほどだ。ふと、あのときの甘い香りが掠めたような気がして、エルヴィンは思わずくらりとした。


その瞬間、ガレンがきょとんとした顔でエルヴィンを見る。


「……ちょっと待て。お前、いま……笑ったよね?」

「……気のせいです」

「いや、気のせいじゃない。今の、完全に緩んでたよ。驚いた。氷刃公に、そんな顔をさせる人がいたとはね」


ガレンはにやりと口角を上げたが、深く踏み込むことはしなかった。その飄々とした優しさが、かえってエルヴィンの胸に鋭く刺さった。


◇◇◇


帝都の風は強く、外套の裾を荒々しく揺らした。

冷たい空気を吸い込むたび、エルヴィンの胸の内で、星冠宮での出来事が蘇る。


――あのとき、皇帝陛下は静かに告げられた。

「乙女の助けとなるであろう者を遣わそう」


皇家の庇護下に置かれれば、彼女に触れようとする者はいなくなる。宮廷の貴族たちも、政略を飾った求婚の言葉を口にすることはないだろう。理にかなった選択だ。


だが、鋭冠帝と呼ばれる皇帝の真意も分かっていた。黎明星の乙女を皇家の庇護の名目で囲い込み、いずれは第一皇子へ繋ぐ。帝国の繁栄と均衡のためには至極まっとうな策だ。理屈では、分かっている。だが、その理がこれほど残酷に響いたことはなかった。


アレクセイ=アーヴェント=エボン。

第一皇子であり、従弟。


完璧な笑みの奥に、鋭い頭脳と情熱を秘めた男。

そして――聖女を信仰にも似た想いで慕ってきた男。


アリアを初めて見たあの日。

アレクセイの瞳が、静かに、しかし確かに揺れた。

彼もまた、アリアという光に心を奪われたのだと、分かってしまった。


アレクセイの聡明さも、慎重さも理解している。

だが、あの男は一度心を動かせば、理よりも“想い”で動く。


そしてアリアは、誰の心にも嘘をつけない。

あの真っ直ぐな目で相手を見てしまう。


――もし、アレクセイが彼女を望んだなら。自分は、それを止められるのか。


帝国の秩序を守る公爵として、皇家に背くことは許されない。

だが、男としての自分は――どうしようもなく拒んでいた。


エルヴィンは、自嘲を込めた微笑を浮かべた。

「……私は、どこまで彼女を守れるのだろうな」


呟きは、風にさらわれて消えていった。

エルヴィンはアレクセイが出てきてからずっと悶々としているご様子です。

次回、物語が動き、アリアたちが夢蝕病に立ち向かっていきます。


年末年始、しばらくのあいだ、テンポアップして更新させていただきます!

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