34 第一皇子アレクセイ=アーヴェント=エボンは思い出す
生まれた瞬間から、私は“選ばれた子”だった。
皇帝陛下の正妃の第一子として生を受けた、第一皇子、次代の皇帝。
帝国の未来そのものとして、息をすることさえ教え込まれた。
――感情を持つな。理を学べ。
――帝国の繁栄のため、聖女が現れたら娶るのだ。
母は優しい人だったが、体が弱かった。
季節ごとに訪ねては、屋敷の庭を散策したほどの思い出しかない。
長患いの末、私が幼い頃に亡くなった。
だからこそ、聖女という存在に、憧れたのだと思う。
全てを癒し、赦し、愛す、黎明星の乙女。
子どもの私は、聖女オリアの物語を何度も読み返し、「いつか、僕にも聖女が現れますように」と星に祈っていた。
いつしか、聖女の資料館に通うことが日課になった。
あの小さな石造りの建物の中では、誰も私を“皇子”として見なかった。
「黎明星と黒曜星、心を通わせ、愛を知るに至る」
そう記された文を、幼い指で何度もなぞった。
* * *
だが、現実は物語ほど美しくはなかった。
十五を過ぎ、社交界に出た頃には、笑顔の裏で探り合い、取引のように愛を語る人々ばかりがいた。
「殿下、あなたのお力になりたいの」
「殿下にお仕えできるなら、私……」
そんな言葉を幾度聞いたか、もう覚えていない。気づけば私は、女性に対して微笑む方法しか知らなくなっていた。心を閉じて、口だけで愛を語る男。それが“皇太子アレクセイ”という仮面だった。
それでも――聖女への憧れだけは、消えなかった。光はどこかにあると、信じていた。……ただ、それが再び私を焼くとは、この時の私は知らなかった。
***
そして――その日が来た。
「黎明星の乙女が見つかった」
その報せを受けた瞬間、胸の奥がざわめいた。星冠宮に呼ばれた私は、聖女に会えるという高鳴りを、冷静さという仮面の裏に必死に押し込めていた。
――次代の皇帝として、彼女を“帝国の光”として迎える。それが務めだと信じていた。
けれど、彼女を見た瞬間。思考よりも先に、心が動いた。
まるで、胸の奥に眠っていた何かが、一息に目を覚ましたように。
鮮やかな碧の瞳は、何も知らぬ少女のように純粋で、それでいて、世界の理すら見透かしているようだった。美しい、と思った。怯えも虚飾もない。星明かりのように澄んだ瞳で、まっすぐに私を見た。
「私はアレクセイ=アーヴェント=エボン。この国の第一皇子だ。――黎明星の乙女は、想像していたよりもずっと清廉で、そして、美しい」
彼女の頬がみるみる赤く染まり、視線が泳ぐ。
まさか、これほどあからさまに反応するとは思っていなかった。今まで数多の貴婦人に賛辞を贈ってきたが、皆どこかで受け答えに慣れ、その裏で計算を働かせていた。
けれど、彼女は違った。飾らず、隠さず、ただ頬を紅に染めて立ち尽くす。
――可愛らしいひとだ。
その言葉が、無意識に胸の奥からこぼれそうになる。自分でも驚くほど、穏やかな感情だった。
***
気づけば私は、またあの場所に来ていた。幼い日の癖のように。
そこで彼女に再び出会うとは、思ってもみなかった。
――資料館の地下。
彼女は静かに古い文書を読んでいた。
“黎明星と黒曜星、心を通わせ、愛を知るに至る。”
その一文を口にした瞬間、私は息を呑んだ。
彼女がこちらに気づき、澄んだ瞳で私を見る。
「アレクセイ第一皇子殿下……」
あの柔らかな声が、まるで祈りのように響いた。
私は、いつものように言葉を選んだ。完璧な笑顔で、優しく、距離を置いて。
「乙女殿は、聖女オリアに興味が?」
「はい。どんな人だったのか知りたくて」
「彼女は、世界の安寧を祈り、一人の男を愛した――そして帝国に繁栄をもたらした」
いつもの私の台詞だ。上辺だけの、形だけの言葉。
だが、彼女は私をまっすぐに見て、言った。
「……帝国の安寧のために、あなたは私を“必要としている”だけではありませんか」
その瞳が、私の仮面を剥がした。虚飾も、恐れも、孤独も――すべてを見透かしていた。
「聖女は、都合のいい駒ではありません。意思を持つ――一人の人間です」
沈黙。
どんな言葉も出てこなかった。彼女には、本当の私が見えている。
その瞬間、私は気づいた。彼女こそ、私が幼い日に祈り続けた“光”なのだ――と。
「あなたは……愚かだ」
思わず、笑みがこぼれた。愛しさと、苛立ちと、恐れがないまぜになった感情。
「愚かで……聖女そのものだ」
微笑んだ唇の裏で、胸の奥がざわめく。彼女は、あまりにも真っすぐで、あまりにも眩しい光だ。この光に魅せられぬ者など、どこにもいないだろう。この少女は、自ら、光に焦がれる影を呼び寄せてしまう。
***
あれから、どれほど目を閉じても、あの瞳を思い出す。
夢の中でさえ、彼女は私を見つめてくる。
黎明星の乙女――アリア。
彼女を思うと、心のどこかが静かにざわめく。
帝国の皇子が、黎明星の乙女に心を寄せることを、皆が帝国の正しき理、美しき摂理と呼ぶだろう。
だが私は、皇子としてではなく、ただ、ひとりの人間として彼女に心動かされている。
この感情が、どこへ導くのかはまだわからない。
だが確かに――彼女との出会いは、私という人間の運命の歯車を、静かに回し始めた。
皇子も苦労しています……
アレクセイのターンが始まり、次回はエルヴィンが悶々とし始めます。




