32 無能な妹は帝都で寝落ちする
馬車の窓の外では、星冠宮の光が遠ざかっていく。
木製の車輪が石畳を刻む音だけが、ゆるやかに夜を揺らしていた。
「……夢蝕病という名を、聞いたことはあるか」
静寂を破ったのは、エルヴィンの低く落ち着いた声だった。
「いえ。初めてです」
「帝都の北で発生しているそうだ。だが、流行り病ではなく、何らかの魔力が関係していると魔導院は見ている。陛下が“乙女の力”を求められたのは、そのためだろう」
私は小さく頷きながら、胸の奥がざわめくのを感じていた。――黎明星の乙女オリアは、自らの守護星だった皇帝と結ばれた。陛下の言葉が、まだ耳の奥で微かに響いている。
「……聖女オリアが皇帝陛下と結ばれていたこと、お義兄様はご存じだったんですか?」
問いかけると、エルヴィンはほんの一瞬だけ、眉をひそめた。
「皇家に聖女オリアの血が流れていると、聞いたことはあった。だが、それは帝国の威光を飾るための作り話だと思っていた」
彼は窓の外に目を向け、静かに続ける。
「守護星とは、本来“乙女を護る者”だ。歴代の聖女の中には、星を与えられながらも、生涯、見つけられなかった者もいると聞く。……お前は、お前の選ぶ道を歩けばいい」
その声音には、氷を溶かすような静かな力が宿っていた。
エルヴィンは窓の外から、こちらへと目を向ける。
「このまま公爵邸にいたければ、それでも構わない。私はアリアに、これから先もずっと私のそばにいてほしいと思っている」
エルヴィン……ありがとう。こんな不祥の義妹を大事にしてくれて。公爵邸に居続けるっていうのは現実的じゃない気はするけど、幼馴染としての友情なのか、義兄としての責任感なのか分からないけど、そう言ってもらえるだけで、ほっとする。
「……ありがとうございます。お義兄様は本当に頼りになりますわ。でも、私はこの家をつなぐために養女にもらわれてきたんですもの。お義兄様が、本当は私に婿をとって安心されたいことは、重々承知しておりますのよ。あたたかいお言葉、感謝しますわ」
そう言うと、エルヴィンはなぜか残念そうな顔したあと、私から目をそらした。
「やはり、はっきり言わないと伝わらないのだな」
ぼそりと呟くと、私の髪を撫で、頬へとその手を滑らせる。
「守護星が現れようと現れまいと、お前を守るのは、この私だということだ」
私が婿を取るまでは、義兄として責任をもって私の身の安全を確保するっていうことですよね。私、ちゃんとわかってますからね。
義兄の温かな熱を感じていると、先ほどの宮殿での一場面のことが頭をもたげた。……そういえば、私のサポート役につくと言っていたアレクセイ殿下は、エルヴィンと仲がよさそうだったけど、昔からの知り合いなのかな?
「アレクセイ殿下って……どんな方なんですか?」
エルヴィンは視線を落とし、少し考え込むように答えた。
「誇り高く、理を重んじる人物だ。皇族としての責務を何より優先する。だが――根は悪くない」
「なるほど……立派な方、なんですね」
「そうだな。少なくとも――口説き文句を軽々しく口にするような人間ではなかったはずだが」
「っ……!」
反射的にうつむくと、エルヴィンの口元がかすかに緩む。自分の顔がまた、赤くなっているのが分かる。
「アリアは、もう少し警戒心を持ったほうがいい。そんなに可愛らしい顔をしていては、誰もが惹きつけられてしまうだろう」
「お義兄様、意地悪を言うのは、よしてください」
「意地悪ではなく、本当のことだ。今のような顔は、アレクセイには見せてはならない」
エルヴィンの真剣なまなざしを見て、本気で言ってるのだなと分かった。でも、アレクセイみたいな根っからの皇子が、私のような庶民に興味を持つはずがない。皇子様から見たら、私なんて石ころ同然ですよ。やっぱりエルヴィンって過保護だよね。
窓の外では、帝都の灯が遠ざかり、夜の帷が降りてゆく。馬車の揺れがだんだんと穏やかになり、私はやがて、静かな眠気に包まれていった。
――あたたかい。
やさしい光がすぐそばにあって、頬を撫でる空気がどこか懐かしい。まるで、冬の日の陽だまりみたいに。
思わずそのぬくもりに顔をすり寄せる。やわらかな布越しに、心臓の鼓動のようなものが伝わってきた。その律動に合わせて、世界がゆるやかに遠ざかっていく。
「もう少し、警戒心を持ったほうがいいな」
――夢の中で、義兄が優しく苦笑している顔を見た気がした。
現実でも、夢でも、お説教してくるなんて、さすがは氷刃公。
そんなことを思いながら、私は深い眠りに落ちていった。
読んでいただきありがとうございます。
兄妹の束の間の、大事な時間でした。
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